〇鵜飼関連スーパー不定期付け足し年表図

小瀬は養和元年(1181)の後白河院庁下文案に見える小瀬庄に比定され、京都熊野社領であったとゆう。

延喜  901〜 〇鵜飼業者の住居地区『鵜飼七郷』あり。後に鵜飼九郷となる。折立(ここが本郷とされている)、黒野、下鵜飼、
  小野、古市場、今川、交人、洞、御望の九ヶ村。当時そこには長良川は流れておらず、今の伊自良川筋。

〇長であった白明なる人物が現在の岐阜市長良と岩田付近に分住させたといわれる。









↓この頃、津保川筋岩田村の 鵜飼業者が小瀬に移住すると云う。







←中屋にて決壊。津保川の流路を奪いて以後 長良川となる。 これより鵜匠は長良川筋に移動す。
 
明応 1492 〇明応元年頃、足立与三右衛門は守護土岐頼康から御用網漁を命ぜられる。一帯の漁業権を独占。
天文 1532
     〜1554
●天文二巳年十一月十五日 戒名 永昌院心鉄道欽居士。永昌寺を復興した人物。鵜飼ヲ営ミ死ス

この人物が鵜飼漁を始めた初代足立新兵衛ならば明応期と繋がる。 朝日家の義利と同人物か?

同じ清和源氏の血を持った
重隆 足立孫太郎(先祖は足立左兵衛尉)が、
丁度この頃戦乱(岐阜城陥落)により父盛行が討ち死にし
武儀郡小瀬庄に逃れてきた。
義利
足立与三右衛門家から足立孫太郎方へ養子入りしたのではと現時点で推測。 

天文三年 郡上川(長良川)大洪水。


弘治 1555
    〜1557
●弘治元卯年八月 戒名 功安道?庵主。2代目新兵衛
永禄
元亀
天正 1573
   〜1592
〇六年 足立新兵衛、あや笠籍を足立市郎右衛門より譲渡。
●天正十一未年二月 戒名 明宝道見居士 3代目
元和  1615 〇五年五月三日 小瀬村より御鮨御用鮎を岐阜鮎所に送る。御用鮎輸送の為、小瀬村庄屋に諸役免除される
寛永  1624 ●寛永五子年三月 戒名 圓?山(心)?道庵主
万治  1658 〇尾州藩主徳川光友、金華山下鏡岩の瀬で鵜飼を見鵜匠頭3名に帯刀許す。長良二名、小瀬足立新兵衛。
元禄  1688 ●元禄十五午年十二月 戒名 無安宗有居士
寛政  1789 〇『濃州徇行記』内 「鵜匠頭足立新兵衛家よし、其外頭百姓二三戸あり」
文久  1861 〇不慮か?文久二年事故により、あや笠は足立与平治預かりとなる。


参考資料 『岐阜県の祭りから』 清水昭男著
       『小瀬鵜飼を主とした長良川鵜飼』 関市史編さん委員会 

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