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木曽義仲の末裔?義利とはどういう人物であったのか? そしてそれ以降の小瀬での生涯、並びに足立家当主となった 新兵衛、小瀬鵜飼における歴史を随時探って行くページです。 |
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8月2日深夜 | もうすぐお盆ということで、遠い先祖となる清和源氏や木曽義仲に関わるサイトを調べている。 僕は家にある木曽家の系図の写しと父からの話で聞いてただけであった。『義利はその父が戦乱の世に討たれ家督を弟に譲って・・・』と父は申していましたが、調べてみると随分と話が違う。 『義利は天正十八年(1590)の徳川氏関東移封によって、木曽氏も移封を免れ得ず、父祖伝来の地から下総網戸へ移らされた。この知行高一万石の地への移封は、多くの家臣を見捨てなければならない結果になったという。しかし、この地も安住の地とはならず、義昌の子、義利は粗暴な振舞多く、慶長五年頃に改易させられた。義利の弟、義通(義一)は家臣に「(義利は)先祖から伝わる本国までも離れ、この身上(改易)になったことは、我らにとってひとしお無念である」と語った。彼は母とともに木曽に戻ったというが、その後は全く分かっていない。』 とある詳しいサイトに載せられていました。 |
8月3日早朝 | 考えていたら眠れなくなってしまい、さらに調べると矛盾が発覚してきた。あるサイトに木曽義利は1577年に生まれたとされているが、だとすると『天文2年(1532)足立新兵衛鵜飼を営み死す』との文献と合わない。義利が初代足立新兵衛でないことに・・・?当時の小瀬村の長にお世話になり、木曽朝日家と同じく源氏の流れを汲む足立家へと養子に入ったことで、その家で新兵衛の名を継いだのでしょうか? しかし今度はうちの家紋が他ではあまり見られない『隅切り剣片喰』・・・ 剣片喰の家紋で探っても今の僕の知識では深く入れない。 今一度系図を調べることにします。 |
8月4日 | 史述の年代から推測すると一代目が木曽義仲とはならず三代目あたりとなる。よって養子となって ある足立家に入ったと予測される。が、家系図によるとこの養子先の足立家も同じ頃小瀬に来たとあり。 (不思議なことに足立家の元祖となった『重直』なる人物は義仲に奉公していたとあり、当にその子孫の義利と出会うとは出来すぎた因縁と今のところ言える。それを頼りに来たのか?) では歴史のページにある初代足立新兵衛って誰なのか?謎ばかり・・・ |
8月10日 | お知り合いの方に聞きましたところ、剣片喰紋の足立姓は関東に多いらしく南は九州までで、その先祖は遠元だとか。違うな〜。 うちの菩提寺である永昌寺の記録では『享禄元年(1528)小瀬鵜匠足立新兵衛永昌寺を再興すと云う』 とある。初代新兵衛かは解らないが、今のお寺の前身となる庵を建てたとされている。ただ、この寺も昔火事で燃え多くの文献が焼失したそうで、今度盆明けに寺のおっさまに過去帖と戒名を照らし合わせてもらうのだがどこまで明らかになるのか・・・。 今のところ、この年代が事実ならば・・・そして一般に史述されている源義昌の子義利の生きた年代と照らしてみると一代目がその人とは決して言えない。 父の言葉を今までただ鵜飲みにしてきたのだが、うちの歴史に興味を持ってしまった今は調べるほど疑心暗鬼に陥っていく。 |
9月2日 | 昼間に仏壇の位牌を書き写しお寺へ。おっさまが過去帳を持って出向いてくれた。 所々に新兵衛の記載はあったが、やはりお寺の記述はほとんどが戒名でした。 過去帳、永昌寺史を見ながらおっさまと調べていく。 最も古い戒名は天文二巳年十一月十五日『永昌院心鉄道欽居士』であり、この寺の開基となっている。 そして三代目らしい『明室道見居士』は源義利の孫となっていた・・・つまりは上記の人物が義利か。 永昌寺史には『源義仲末裔の義利は小瀬の庄屋にてわらじを脱ぎ足立姓を貰ったか、或いは 小瀬足立姓の鵜匠の家に入り足立新兵衛と名乗ったとも・・・』と書かれてあった。 おっさまはうちの『足立家』の家系は庄屋のものとは違うらしい、と。 いまのところの推測では当時庄屋の足立家でお世話になり、鵜匠の足立家に入った・・・? 今日は伺うつもりでは無かったため、20分ほどで切り上げることとなった。 近いうちに再度訪問。 |