小牧の"トイザらス"というおもちゃ専門店へ行く途中である。国道41号線を南に向かっ て走っていると、西の空に変な雲があった。飛行機雲のようだが途中でナイフで切ったか のようにとぎれていた。まわりにはその雲のほか何もなかった。 「地震雲かもしれないな。」 「わ一本当に変な雲」 「パブ、パブ」 ぼくの嫁さんも、長男の原基(8か月)も見た。さらにその時、ZIP(77・8MHZ)FMのDJも、 「いま、西の空にちょっと変わった雲がでていますが、…」 早朝、やはり来た。朝6時ごろ電話が鳴った。 「家族はみんな無事だが、温水器がこわれて風呂に入れんかもしれん。」 神戸市須磨区に住む兄からであった。 この日、職場のテレビを見るたびに死者の数が100、200と増え続けているのが気になった。 四日市市に住んでいるいとこから電話があった。 「神戸に電話しても全然つながらないが、大丈夫かな。」 そういえば地震直後に連絡があったきり。ガスはもちろん、電気、水道、電話まで使えない、 大変な事態になっていた。さらに長田区の火災が須磨区の方へ移っていくと報道され、いや な予感がした。 朝5時ごろ電話が鳴った。 「この電話は3分しか使えん。物資を送ってくれ。」 「どんなものがいる?」 「水、食料、カセットこんろ、・・・なんでもええ。」 ぼくの嫁さんに必要なものを買いそろえ郵送するようにと頼んだ。 午後、ぼくの嫁さんから職場に電話があった。神戸への郵便物は受け取りはするが、配達 はいつになるか分からない。運送屋に問い合わせたら、神戸行きの荷物は一切受け取らない との事であった。このとき、自分が直接もって行くしかないと思った。非常事態には違いな いと判断。年休をとった。 夜準備をした。車に積めるだけ積んでも、もし車を捨てて歩くことになった時のことを考 えたら、ひとりで持てるだけのスキーバッグと登山用リュックの2つにまとめた方がいいと 思った。 カセットこんろ、カセットボンベ6本、ミネラルウォーター6本、牛乳、ジュー ス、缶詰、ビスケット、下着、おしめ…。かなり重くなってしまったが、3人の子供が水や 食べ物がなくて泣いている姿を想像したら…。 兄の住んでいる社宅へは両親が一度行ったことがあるので、神戸の地図を見ながら場所の 確認を何度もした。ぼくは初めてであったが、地図と住所があれば歩いてでもなんとか行け るだろうと思った。ただ、予想できないのは、あすの朝家を出て、何時ごろ、いや何日後に たどり着けるかであった。 「何かあったらここに電話するように。」 兵庫県高砂市の大学時代の先輩、岡山県備前市の友人、岡山市の友人、香川県高松市の友 人4人の名前と電話番号を書いた紙をぼくの嫁さんに渡した。 朝7時に家を出た。車はカローラSE。いつものカセットテープをかたづけ、ずっとラジ オのニュースを聴いていた。道路地図はもってきたものの、まともには神戸市内には入れな い。和歌山からフェリーに乗るコースはいつ船に乗れるかわからない。21号線の道路情報に は「西日本方面は北陸道へ」となっているが、かなりの渋滞だと思う。やはり六甲山の裏を まわる道を走るしかない。ひょっとしたら雪や凍結があってチェーンが必要かもしれない。 家で探したが見つからなかったので京都で買うことにした。 名神高速はやや車の量が多いと感じた。いつもと違うのは、自衛隊の車が何台も何台も走 っていた。普通乗用車に物資をいっぱいに積んでいる車も走っていた。少しでも早く持って 行きたい気持ちはみな同じであった。ましてや身内なら。 京都南IC以西は通行止、国道9号線は西日本方面に向かう車で大渋滞、という情報が入っ た。1つ手前の京都東ICで降りることにした。京都市内でチェーンを買うとすぐに渋滞にま きこまれた。 亀岡市から372号線に入った。六甲山の北側をぐるりと延びる国道である。まわりは山 川、田畑しかない。静かな農村という感じであった。とても反対側の町でパニックが起きて いようとは想像もできない。この国道は車は少なかったものの非常に長く感じた。運転中、 少し弱気になった。 「この先、車を捨てて何時問もリュックを背負い歩けるだろうか。」 「もし、神戸に行けずこのまま物資を持って帰ることになったら。」 「こんなことを考えていてはだめだ。走れ!走れ!」 1か所峠があり、前に進まなくなった。おそらく大型トラックがカーブを曲がり切れない か土砂くずれで進めないかだろう。地図で迂回路を探し、なんとか175号線にたどり着け た。これを南下すれば明石市だ。 ところどころのガソリンスタンドに「ポリタンクあります」が目についた。前の車が6つ も買って行った。なんと1つ2000円もする。2つ買った。国道175号線は一本道だ。 地震の影響で壊れかけた家や塀が、少しずつ目についた。しかしかなり古い建物だけだった。 神戸市内へは東からも西からも入ることはできない。このことが頭の中にあったので、2 号線に出る前に脇道へ入るつもりでいた。地図を見てもあまり詳しくかいていないので勘に たよるしかない。主要道には検問がある。どこをどう走ったのか、標識に「須磨区↑」とか いてあるところが2,3か所あったのが救いだ。 車よりバイクや自転車が多くなってきた。さらに歩いている人も何人か見られる景色にな ってきた。比較的大きな公園に水を汲みに来ている。須磨区に入り、急に町の景色になった。 同時にぼくは絶句した。 道はあちこちで地面が割れ、家が壊れ、電柱は折れ曲がり・・・車に乗っている自分が申 し訳なかった。心臓をドキドキさせながら、気が付いたら国道2号線にたどり着いてしまった。 この向こうは瀬戸内海である。すぐに車を止め、エンジンをきった。パトカーや救急車がひっ きりなしに走って行く。 まわりの景色と地図を確認すると、車を止めた場所から社宅まで2キロないとわかり、スキ ーバッグを背負った。この重みに兄の家族の生活がかかっていると思いながらぼくは歩いた。 石で作った灯籠が倒れていた。 支えがなければ今にも倒れそうな家がいくつもあった。 塀が倒れて車がつぶれていた。 家がつぶれ屋根だけ残っていた。 線路が曲がっていた。 商店街では今にも上から何かが落ちてきそうだった。 写真を撮りながら歩いている人がいた。 大きなリュックを背負っている人がいた。 家財道具を外に出していた。 小さな公園でテントを張っていた。 コンビニがあったが食料は見当たらなかった。 青いビニールシートを屋根に取り付けていた。 外から見てまともな建物は1つもなかった。道行く人に笑い顔はもちろん、 生き生きと した表情は見られなかった。この地区の人たちみんなが、生きのぴるために何かをしてい た。兄の住んでいる社宅はどうなっているんだろう。 坂をのぼり、コンクリートの塀が倒れている民家の隣に4階建の社宅があった。有難い ことに、少々亀裂は入っていたものの建物は建っていた。9時間かかったものの、この社 宅の中では一番早く物資が届いたらしく、後に、どの道を走ってきたのか教えてもらいた がっていたそうだ。 子供たちはいたって元気、学校や幼稚園に行けなくなってむしろ喜んでいた。小学校は 避難所になり、幼稚園は卒園式まで休園である。被害の大きさに比べ、子供たちの明るさ が何よりの救いだった。直径1メートル、高さ2メートルもある温水器がみごとに傾いて いた。本棚はめちゃめちゃのままだった。食器棚から食器が飛びだしたそうだが、片付け てあった。水槽の水が波たってこぼれたそうだ。テレビ台からテレビが落ちたり、98ノ ートが机から落下したそうだが壊れてはいなかった。電気は使えるようになった。飲み水 が一番貴重であるため、風呂の残り湯を電熱器で沸騰させお茶をつくる。皿を汚しても洗 えない。避難生活に比べたら文句は言えない。しかし、ぼく自身この生活でさえ何日もつ だろうか。 日の出を見た。関西空港の左の方向だった。もっと左を見たら、長田区方面がもやにか かっていた。火の粉がここまで飛んできたときは、もう少しで避難命令が出されるところ だったらしい。 ところで、兄の会社は東灘区の埋立地にある。当然、液状化現象で泥まみれだったそう だ。通勤時間は徒歩4時間。社宅の子供用の自転車をいつも借りるわけにもいかないので、 今日、自分が買い出しにいくことになった。ほかに必要な食料も義姉にメモしてもらった。 車に乗ると、きのう買った缶コーヒーを1本、まわりを気にしながら思いっきり飲んだ。 2号線を明石市方面へ何時間もかけて買い出しにいく人が大勢いた。リュックを背負い 歩いている人がほとんどで、自転車やバイクならいい方だ。自分は車に乗っているので、 本当に乗せてやりたいと何度思ったことか。西に走って行くにつれて、壊れた家は少なく なった。明石市を過ぎるとところどころで壊れている程度だ。そういえば、建設中の明石 海峡大橋の巨大な柱がよく倒れなかったものだ。 昼前に、高砂の先輩の家に寄った。この辺りでも冷蔵庫が躍ったらしい。姫路のJUS COなら大きいから何でもあるということなので地図を描いてもらった。先輩の会社も神 戸市内のため、しばらく自宅待機中であった。ものの20分はどで先輩と別れた。 姫路となるともう他人事。楽しそうに笑いながら歩いて行く人たちばかり。腹が立った が誰にも怒れない。レトルト食品や水はほとんど売り切れていた。上の階にはあのトイザ らスがあったので、10段変速の自転車を買った。車の後部座席にはリュックに詰めた食 料をのせ、トランクには自転車を差し込んだ。さて、問題は神戸に戻る道。2号線は大渋 滞、明石から東進不可能。例によって北から南へ神戸市内に入るコ一スをとることにした。 後ろの自転車を気にしながら、 「きのう通り抜けた道が通行止になっていたら、最悪の場合、食料を背負いこの自転車に 乗って行けばいい。」 車を捨てる覚悟はきのうと変わらなかった。まわりにまわって社宅に戻ったのは日没の頃 だった。部屋の窓から町を見た。青シートの屋根が増えており、数えきれなかった。夜に なっても、ライトをつけながらシートを取り付けていた。あすは雨だそうだ。 朝5時、兄と一緒に社宅を出た。辺りはまだ暗い。兄は自転車にライトが付いていなか ったので懐中電燈をもって東灘区の会社へ。自分は車で神戸を後にした。帰りの道中もラ ジオを聴きながら運転した。そして、六甲山の裏を走りながら、泣いた。 神戸は本当に大変な事態になっていた。 しばらく神戸に残って多くの人を助けることはできないか。 自分の弱さに泣いた。 2か月後、兄とその家族は北区の団地に転居した。 あれから1年経ち、ぼくが思うことは、 人間はただ大地の上に生かされているだけ。 自分のためより、隣人を助けたい。新年は死んだ人をしのぶためにある 心の優しいものが先に死ぬのはなぜか おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ おおみそかに、いつもこの詩を思い出す。中桐雅夫の『きのうはあすに』である。 詩を思い出し、阪神大震災の記録を、また読み返してみる。これまでにわかっている だけで、死者は6308人におよぶ。 夫も妻も、下敷きになった。手を握りあって、助けを待った。夫の声が、聞こえた。 「おれは駄目かもしれへん。子どもたちを頼む−」 「いい人がいたら一緒になれよ−。三途の川を渡るなよ−」 救助されたが、夫は死亡。41才。 がれきの山の中から、3才の娘の泣きじゃくる声がした。かぶさるように、 「パパがもうすぐ助けるよ」 と、33才の父親の声がした。救助活動をしていた人が、娘を抱きかかえている父親の姿 を、すき聞から確認した。やがて父親の声が絶えた。娘も、病院に運ばれる途中、亡く なった。 最初の揺れが去ったあと、いくつもの地区が、火に包まれた。73才の父親が、下半 身をがれきに挟まれていた。子どもたちが両手を思い切り引っ張った。炎が迫った。父 親は、おだやかに言った。 「もう行け、もう行け」 かわいがっていた孫を失った81才の女性は、以来、持病の薬をのまなくなった。孫 の葬儀後、急速に衰弱した。 「足手まといになって悪いな」 ともらした。地震のあと、半月足らずで、孫のあとを追った。 だれもが、心優しい人たちだった。果てしない記録を読み、そして亡くなった人たち のために自分はなにをしたか、これから自分になにができるか、と問うてみる。詩は、 こう結ばれる。 きょうはきのうに、きのうはあすになる どんな小さなものでも、眼の前のものを愛したくなる・・・ 朝日新聞1995年12月31日天声人語より 「震災直後のできごとで忘れられないことはありますか?」 大学生だった四年生、大学院生にたずねました。 ・水.ガスがでたこと ・「助けてくれ」という叫び声 ・12時間かけて広島に帰ったこと ・火災現場で何もできなかったこと ・前日まであそんでいた先輩が死んでしまったこと ・翌日,電車で大阪に近づくにつれ,普通に人々が生活していた ・落下した六甲道の(JRの高架)前でカップルが写真を撮っていたこと ・子供か家族が家の下敷きになってヒステリックになっている女の人を見たこと ・部屋に閉じ込められて,出られなかったこと。なぜか過食症に近い状態になってしまった ・頭から血を流しながら歩いている人や,道路に毛布にくるまって座っている人といった,非日常的光景 ・連絡のとれない友達の安否が確認できなかったため,テレビで死亡者の名前を見るのがとても恐かった ・部屋からやっとのことで出た時に,吐き気がして,気分が悪くなり,誰でもいいから人に会いたいと思ったこと ・つぶれたアパートの前で,先輩の足が冷たくなっているのが発見され,その後,ご両親がかけつけられて, 泣きながら「ありがとう」と一人一人の手を握ってまわられたこと 一橋出版 「語り継ぎたい。命の尊さ」 阪神大震災ノート 住田功一 より
● 語り継ぎたい命の尊さ★もどる