第十三話 人形

 
 一
 獲物は水面下でもがいている。自分が生き延びるために。
 狩られる危険が差し迫ったその深町明日香は、希望に満ちた毒気のある瞳を熱心に動かしている。十分に揃った狩る者の情報を詳細に分析しているのだ。最終段階に達した今は、狩る者が最後に残した足跡である、音羽木葉を抹殺する模様を撮影したビデオを観ている。
 映画館のように大きめのスクリーンのある試写室で、獲物の明日香と一緒にもう一人の男の子がそのビデオを観ている。国籍不明の少年、東欧出身の人種なのか、黒髪で淡い青色の瞳をしている。体格はまだ未発達で随分と華奢な印象を受ける。
 ビデオテープは僅か十分足らずで終了する。カメラは狩る者の監視をそのまま続ける予定であったが、撮影がばれたために止むを得ず自爆した。狩る者の足跡が途絶えたのもこのためだ。
 公開された狩る者『月天=グレイソニアス・マケシトス』の強さを肌身に感じ、その少年は武者震いに親指をかじる。
 明日香は頬杖を付いて考え込む仕草を取りながら、その少年と相談を始める。
「どう感想は、以前と比べて変わったところはあるかしら」
「特にないよ。いつものように素早く間合いを詰めて先手を取り、弱った相手を痛め付ける。この人の戦い方は大体そう。周囲のものを投げて怯ませてから特攻するか、単純に突っ込むか、殺し屋の割には雑な戦い方だよ」
「けど今回は木葉に攻撃を当ててるわ。戦法はともかく、これは何らかの変化が起きたと捉えるべきでは」
「そうかな。僕は木葉側に何らかのアクシデントが起きたとしか思えないけど。実際に木葉は月天に入れ込んでたみたいだし、殺された原因の半分は油断じゃないかな」
 淡々と質問に答える少年の顔を眺めながら、明日香は物思いに耽る。獲物が生き延びるためには、僅かな不安要素をも取り除かなければならない。
「母さん、そんなに心配なの。僕のこと、信じてくれてるんでしょう。あんなやつただの怪力馬鹿だよ。木葉に勝ったのは予想外だけど、問題なく倒せるよ」
 その少年は誇らしげにそう言う。しかし母さんと呼ばれた明日香に笑顔はなく、むしろ慢心するその息子をたしなめる。
「単なる怪力馬鹿が殺しの世界で生きていけるわけないでしょ。あの子は運も含めて殺しに関しては天性の素質を持っているの。それは間近であの子を見てきた私が一番わかってるわ。何よりあの子の怪力を甘く見過ぎてるわ。多分、相手が恐竜でも一撃で倒すわよ」
 月天のことを語り出すと、明日香は妙に嬉しそうな顔になっていた。
「確かにあの怪力はあなどれないね。百七十センチ超の長身と女性特有の柔らかい筋肉だけじゃ合理的な説明が付かない破壊力だ。でもこの人は所詮、僕達と同じ人間だよ。正体不明な木葉より楽な相手になったと思うけどな。計画だって十分に練ったでしょ」
 少年は母さんを心配して言う。明日香はそれを聞きながら高まる緊張と興奮に思わずほくそ笑む。
「そう、計画は練ってある。私は今、ツキテンを殺すために万全の態勢を整えているわ。あの子も今頃、私を殺すために全力で努力しているんでしょうね」
 少年はそんな母さんの嬉しそうな表情を不思議に見ていた。
「ねえ、そもそもどうして二人は殺し合うことになったの。月天は母さんの一番の友達だって、いつも言ってたのに」
 根本的な疑問を零した少年の頭を、明日香はそっと撫でた。
「それはね、ツキテンが私の友達だからよ。私達は友達として協力関係にあったけど、いつもお互いの利益を尊重して生きてきたのよ。けどこのままではお互いのためにならない。一度全てを清算して、別々の道を歩いた方がいいんじゃないかってツキテンは思ったはずよ」
「難しくて僕にはよくわからないな。別々の道を歩くのに、友達を殺す必要があるの」「私もあの子も殺しの世界に寄り添って生きてきたからね。友達を丸ごと征服して次のステップに進みたいのよ。私もツキテンのことは大好きだけど、今はあの子を殺したいと心から願ってる。利用価値が無くなった私達はもう一緒にはいられない。お互いに全力で殺し合いあって、どちらか一人が先に進むべきなのよ。もっとも、人間との交流には縁遠いあんたには理解できない話でしょうけどね」
 理解の彼方にいる少年を嘲笑う明日香に嫌味はなかった。その少年は結局、狩る者と狩られる者の心境を理解することは叶わなかったが、二人がこれから成すべきことだけは飲み込めた。
 互いの生存を賭けて生物同士が殺し合う。殺される前に相手を狩ったものだけが生き残ることができる。そう、生き物として当然の生存競争がこれから始まるのだ。
 
 
 二
 見慣れた世界が、変わっていく。陽の当たる実体として存在していた人間の形が、のっぺりとした表情のない人形のように見えてくる。殺人が好きな人間だけが辿り着ける境地なのか、月天はこの変貌した無機質な世界を心地良く感じている。
 月天は、また人形がいくつか歩いているのを見つける。紀伊半島の先端に位置する和歌山港の中で。
 虫の声が澄みよく聞こえるほど寝静まった深夜、段々畑になっている民家の辺りは真っ暗で先が見えないが、港に停泊している漁船のライトを浴びてその人形は浮かび上がっていた。波止場を動いているその数はおよそ七十から八十ほど。
 月天は段々畑の草むらに身を潜めて人形を監視している。月天という大御所の殺し屋の看板を持っているおかげで、月天は裏の情報屋から明日香の現在地を容易く割り出していた。
 情報屋が言うには、明日香は太平洋沖の無人島を安く買い取っており、そこに木葉を迎え撃つための防衛線を張っているらしい。もっとも木葉は月天に殺されたので、今は対月天用の防衛線を張っている最中だと推測されている。
 明日香を殺すには今が好機だが、月天にはその無人島に行ける移動手段を持たない。よって、週に一度、和歌山港から明日香の無人島に生活物資を運んでいる大型の水上飛行艇に潜入する計画を立てた。今月天が見ている作業員の恰好をした多数の人形は、その水上飛行艇に物資を詰め込んでいるところだ。
 月天が監視を続けてかれこれ半日ほど経過している。月天は全身に人間の返り血を浴びて獣の臭いを放っていた。紀伊半島に来るまで数多くの人間を殺したからである。その大部分は明日香に雇われた武装した殺し屋の類であったが、月天は何の抵抗も示さない民間人まで無秩序に殺めている。殺した理由を問われれば、それは漠然としていてはっきりとは言えないが、月天は人を殺すたびにある種の達成感を覚えて、人の生死を支配する自分に酔い痴れているのだろうなと、考える。そして、私が殺人鬼という人種なのだろうことを、確かめていく。
 不用意に背後を見せている作業員を監視するのは苦痛だった。見ているだけで正直そそられてしまうのだ。早くあの人形どもを、本当に動かない人の形に変えたい。
 物資の詰め込みは夜通し行われた。月天は人殺しに飢えた眼光をぎらつせながら、作業員全員が水上費空挺に乗り込むのを待った。
 やがて朝を迎えた時、作業員は何やら互いに一声かけて全員と抱擁してから、水上飛行艇に乗り込んだ。それはあまり自然な行動とは言えなかった。月天も微かな異変は感じていた。しかし月天は段々畑を全速力で駆け下りて、まだエンジンを吹かして港に留まっている水上飛行艇の後部の甲板を蹴り破って内部に飛び込んだ。
 作業員の驚いた顔が一斉に最後部の月天に向いた。それと同時に水上飛行艇は水面を滑走して先端の角度を空へと向けた。立ち上がって懐から小型の拳銃を引き抜こうとする作業員がその瞬間、バランスを保てずによろめいた。
 家族も友人も将来もあったとある一人の作業員は、悪夢を見た。
 目尻を血のペイントで縁取った白人の女は、不安定な足場をものともせず、左右の壁を跳ね回って仲間の作業員の顔を次々に破壊した。首から上が一撃で吹き飛び、仲間の眼球やら脳やら肉片が多量の血と供に船内を血生臭く変えていった。
 皆が皆、圧倒的な暴力に怯えるばかりで反撃することはできなかった。ただ、このとある作業員は比較的運転席寄りにいたので、有り得ない俊敏さで動いていた女と偶然、目を合わせる機会があった。その瞬間、作業員は不思議と、希望を抱いた安心した表情になった。
 裏の人間と通じるこの作業員の仕事柄、数多くの殺し屋を目にする機会があったが、この白人の女はその誰とも異なっている。殺し屋は大抵他人の痛みを知らない快楽の顔に溺れている。人を殺すのが楽しくて仕方ない、そういった表情だ。しかしこの月天は違う。そう、笑いながらも何処か、泣いているような表情を浮かべる。丁度、五歳になったばかりの自分の娘が、たまたま道を誤って殺しの世界を選んで成長したなら、きっとこんな哀れな人間になってしまうんじゃないだろうか。作業員は、この異質な殺し屋に同情のようなものさえ抱いてしまった。
 その作業員の思考する頭部が、月天の張り手を食らって破裂した。気付けば、ものの十秒ほどで月天は七十人ほどの人形を殺し終えていた。もっとも、最後に殺した作業員に哀れに思われていたことなど気付く由もなかったが。死んだ人間は、思いを口にすることができない。 
 残るは運転手だけとなり、月天は血溜まりの床を歩いて運転席の頑丈な扉を腕の力でこじ開けた。ヘッドセットを頭に着けた運転手の怯える表情が窺える。こちらの顔色を伺った救いの言葉も聞こえてくる。「お願いです。た、助けてください」
 月天は一人だけ生き残ろうとする運転手を侮蔑した目で見たが、今はまだ殺しはしない。この運転手には明日香の根城である無人島まで操縦させる必要がある。その旨を月天は声に出して告げる。「このまま明日香のとこまで飛べ。そしたら生かしたる」そう平気で偽りの口約束を交わして。
 それから順調に陸地を離れて何百海里も飛行した頃、助手席から睨みを利かしていた月天は、怯えていた運転手の表情に余裕の色が見え隠れし始めたのに気付いた。月天に生死を握られている状況に変化はない。不審な行動を起こすわけでもなかったが、何やら切り札でも隠しているといった余裕を感じずにはいられない。 
「まだつかへんのか。航路はこれでほんまにあってるんやろうな」
 すかさず探りを入れる月天に、運転手は不気味な笑顔を見せて答えた。
「ご心配なく、後十秒ほどで到着するそうです」
 そう言った運転手は操縦桿を倒して、飛行艇の高度を急激に落とした。月天は死の覚悟を決めた男の瞳を察して、恐らく墜落させようと考えている運転手の髪を引っ張って首から頭部を引き千切った。
 慌てて操縦桿を戻そうと思い立ったが、月天は自分の見当違いの考えに気付いた。ガラス越しに見える大海原には明日香の根城らしき島が遠目に薄っすらと見え始めていたのである。しかしその島の沖合いには、さらに予想だにしなかったものが配備されていた。
 武装した男が乗り込んだモーターボートが二十隻余り、輪を囲むようにして飛行艇を待ち受けている。つまりこれは本当に墜落させるつもりだったということなのだろうか、状況が掴めず目まぐるしく回転する月天の思考に新たな不安要素が頭を掠める。月天はこの飛行艇を操縦できない。いや、そんなことより先ほどから巨大な物質が燃えるような音が聞こえてくる。
 改めて前方を確認する月天の視界に飛び込んできたそれは、余りにも巨大で細長い形状をした対空ミサイルだった。運転手の最後の言葉を月天はやっと理解した。十秒ほどで到着するのはこのミサイルであり、沖合いで待っている人形どもは、爆破した飛行艇の落下地点で待っていることに。
 空を切り裂くミサイルの燃焼する音が止んだ。それと同時に晴天の青空に巨大な爆発音が轟いた。粉微塵に弾け飛んだ飛行艇の残骸が空から降り注ぐ。モーターボートで待機している人形達が海面に突っ込んだ残骸の元にボートを発進させる。
 乗組員の一人が無線を使って明日香に伝える。「パトリオット命中しました。これから遺体の確認作業に入ります」
 無線機の向こう側から、快哉を叫ぶ明日香の高笑いが聞こえてくる。
 
 
 三
 そのか弱い獲物には抵抗する術を持っている。恵まれた身体能力と桁外れの怪力を併せ持つ化け物に抵抗する方法を考える知恵を持っている。彼女は精一杯生きようと努力している。例えそれが全て無に帰すことになっても、彼女は最後までかけがえのない自分の命を尊重し続ける。
 対空兵器パトリオットミサイルが水上飛行艇に着弾してから、既に半日以上の静かな時間が流れている。遺体の回収作業を始めている武装構成員からの連絡は定期的に耳に届いている。明日香は彼らの報を聞いては思い悩み、この静寂な時間を生きるための思考で費やしている。
 明日香は考え込むたびに、傍らに置いたその少年の意見を聞くようにしている。もっとも明日香びいきの少年から有意義な話は聞けないが、精神の安定には十分に役立つようだ。
「すっかり夜になっちゃったね。にも拘らず月天の遺体はいまだ見つからない。これは一体何を意味するのか」
 その少年は窓から満月を眺めながら、明日香に聞こえるように疑問を口にする。増員を送って遺体の回収を急がせているものの、飛行艇を爆破して以来、月天の消息は掴めていない。
「ツキテンが生きて身を隠しているから発見できないのよ。けど問題はそこじゃないわ。生きているならすぐに姿を現すと私は思ってた。でもまだ姿を見せないということは、島に仕込んだトラップに気付いたかもしれない。だとするとまずいわよ」
「まさか、そんな先のことまで考えていたの。どうも母さんは月天を過大評価しがちだね。あの状態からミサイルを食らって生きているだけでも奇跡的だよ。あの辺りの潮流は激しいし、遺体が流された可能性もあるでしょ」
 少年の素直な見解を聞いた明日香は苦笑いした。
「何ごとも最悪の事態を想定しないと生きられないわよ。特にこんな殺し合いの場ではね。手傷の程はわからないけど、まだ生きてるのは確実だわ。あの子は本当に強いからね」
 明日香が確信を持って告げると、その少年は月天に嫉妬した。自分より絶大な信頼を置かれている月天のことを。
「あいつの頭で母さんの策が読めるものか。例えあいつが生きていて、トラップを警戒していたとしても、あいつはあの島に行くしか選択肢がないんだ。あの島に行くことを選んだ時点で、最初からこの殺し合いは僕達の勝ちなんだよ」
 母親に尊敬の意を込めてそう言い張る少年に、明日香は優しく微笑んだ。
「だと、いいけどね。そうだ、缶ジュースでも賭けて私と勝負してみない。月天が無事にここまで辿り着けるかどうか」
 明日香が陽気な口調でそう言った。少年は唐突なその提案に狼狽している様子だった。
「別にいいけど、母さんはどっちを選ぶつもりなの。まさか母さんは月天が辿り着ける方に賭けるんじゃないよね」
 深刻そうな顔で問われたが、明日香は迷わず即答した。
「残念ながらそのまさかになるわね。全財産賭けてもいいわ。あの子は必ずここに辿り着く。これはあの子が私を殺すことを決めた時点で確定したことなのよ」
 その少年は、およそ考えれる中で最悪の事態を述べた母親を信じられなかった。もしかすると、最初から月天に殺されることまで想定しているのだろうか。
「嘘だよね、だって僕たち月天を殺すために色々考えたじゃないか。母さんは生きたいんだよね。月天を殺して先に進むんだよね」
 少年は声を荒げて訴えた。だが明日香は顔色一つ変えず、冷静にその少年に告げた。
「もちろん私は生き残るための努力を怠らない。あの子を殺すために出来る限り手を尽くすわ。けどね、あの子は私が惚れ込んだ最高の素材なのよ。音羽木葉を殺せる力を持った飛びっきりのね。正直なところ、私の勝算は限りなく低いと見てるわ」
 少年の読み通り、明日香は最初から想定済みだった。月天の情報を分析して、どんな最善手を尽くしても、所詮獲物は狩る者を倒せないことに。それでも明日香は潔い死など選ばない。どんな醜態を晒すことになろうとも、生き延びるための道を選び続ける。
「そんなこと言わないでよ母さん。大丈夫、きっと大丈夫だよ。僕が母さんを守るから。僕がきっと月天を殺してみせる。絶対に、勝ってみせるから」
 少年は声を震わせて泣き声になりながらも健気にそう叫んだ。明日香はこの頼もしい少年を抱き寄せて、慰めてあげた。少年も明日香に甘えて頬を寄せる。
 二人が堅い契りを交わしたその時、しばらく反応のなかった無線に銃声のような音が響き渡った。
 明日香も少年も驚いて咄嗟に身を退いた。急いで銃声が聞こえた無線の周波数を見る。それはモーターボートで遺体の回収をしている作業員のものではない。無人島に高台を作って海からの侵入を警戒していたスナイパーの無線からだった。明日香は無線を手に取り応答を呼びかける。「こちら明日香、射撃命令はまだ出していない。月天を発見したならまず報告しなさい」
 明日香の呼び掛けも空振りに終わった。そのスナイパーからの応答はいつまで経っても返って来なかった。心配になった明日香は他の高台で監視しているスナイパーにも連絡を取る。「こちら明日香、一番台で見張っていたスナイパーからの応答が途絶えた。状況を確認し応答せよ」
 続いて呼び掛けたスナイパーからの応答も返って来なかった。それどころか無人島に配備された五人の腕利きのスナイパー全ての応答が途絶えたのである。無線に故障が起きたわけでもない。スナイパー自身に何らかの異常事態が発生したのだ。
 明日香は背筋に凍り付くような死の恐怖を覚えた。そして月天が既に島内に侵入していることを悟った。無人島の各地には予め無数の地雷原を敷いてあり、地雷の配置場所を記した絵図がないと容易に移動はできないはずだが、月天は地雷を踏むことなくスナイパーを秘密裏に暗殺したと考えるのが自然か。
 状況の整理に努める明日香は、すぐに遺体の回収に回った作業員を島に戻して月天を抹殺する指令を出した。「すぐに引き揚げなさい。標的は島の中よ」
 生き延びるために懸命な明日香を心配そうに見守る少年の耳に、別の無線から掠れた女の声が聞こえてきた。恐る恐る周波数を見ると、反応がなかったはずのスナイパーからの無線だった。少年はごくりと息を呑み、指令に夢中な明日香を尻目に応対する。「こちら本部、お前は誰だ。スナイパーなのか」
 聞き覚えのない少年の声を警戒したのか、相手の女の声はすぐに返って来なかった。だが女はしばらくしてから無線の向こう側で大声で笑って見せた。「面白いことを言うなお前、私はそうだな、ただの人殺しだよ。そういうお前こそ誰なんだ。明日香の新しい飼い犬か」
 電波に障害が起きたわけでもないのに、女の声は酷くしゃがれている。しかし無線の相手が月天であることは疑いようもなかった。明日香もまたその無線の相手に気付いたようで、声を出さずに私に代われと身振りで伝える。
「随分と焦らしてくれたわね月天さん。まさか闇夜に乗じて私を殺そうなんてその辺の殺し屋みたいな考えしてるんじゃないでしょうね」
 少年から無線を奪った明日香が応答する。久し振りの友との会話であったが、その内容は互いの腹の探り合いだった。
「まさか。思ったよりミサイルが効いたから回復に時間がかかっただけや。ところでこれから明日香さんがいそうな家に攻めようと思ってるんやけど、警備がおらへんから警戒しとるんや。さっき出た飼い犬と何か関係があるんか」
 月天は切り立った崖の上に建てられた、島の頂上に位置する家の傍まで来ているらしかった。それを聞いた明日香は思わず笑ってしまいそうになった。深夜まで時を待ったのは月天が無人島に仕掛けた最大のトラップに気付いたのかと心配していたが、実際は何ら問題のない。月天は見事なまでに明日香の予定通りに動いてくれていたのである。無線に聞き耳を立てていた少年も思わず笑みを浮かべる。
「あんたの死体が見つかんないから、島の人間は全部、海の方に回したのよ。まあ気兼ねすることは何もないわ。早く遊びにおいでよ、そろそろ私達の関係に、決着をつけようじゃない」
 明日香は腹の内を探られないよう自信たっぷりにそう言った。月天は警戒したのか、明日香の自信の裏を読み取ろうと必死に考えている様子だった。現に即答していた月天が黙している
 やがて考えるのに飽きた月天は掠れた声を絞り出した。
「まだ何か悪巧みがありそうやが、まあええわ。望み通り決着付けようやないか。言っとくけど、うちに会ったら間違いなく死ぬでお前」
「そんなことわかってるわよこの人殺し。おっと、人殺しは私も同じか。そうそうツキテン、最後になるかもしれないから今言っておくわ。今までありがとう、あなたと過ごしたクソみたいな毎日は、とても湿っぽくて楽しかったよ」
 明日香の大胆な台詞に少年は動揺を隠し切れなかったが、明日香は余裕の笑みで唇に指をあてて、少年を黙らせる。
「別れはうちを殺してから言うもんやで明日香さん。うちも楽しかったよ。あんたの犬となって働いたクソみたいな毎日はな」
 月天はそう吐き捨てて無線を切った。無線が切れる瞬間、月天が雑草を踏み締める音が聞こえた。恐らく頂上の家に向かって真っ直ぐ進むつもりなのだろう。 
「順調そのものだね。ミサイルも効果を得たようだし、あの島のトラップにも気付かなかった。当たり前の結果だけど、母さんが余計なこと言うから焦ったよ」
 少年はほっと胸を撫でおろして満面の笑みを浮かべた。そして催促するように手を伸ばした。
「確か賭けるのは缶ジュースだったよね。これで僕の勝ち、だよね」
 勝ち誇る少年の笑みに明日香は否定も肯定もしなかった。だが財布を取り出して、少年の手の平に黙って小銭を置いた。
「現金しかないから近くの自販機で買っておいで。もうすぐ大きな花火が上がるわよ」
 明日香は窓から満月を見上げて感慨深げにそう語る。背後から勢い良く外に飛び出す少年の明るい足取りが聞こえる。
 獲物が狩る者に反逆する勝算が微かに見えてきた。ここは無人島から百海里以上も離れた和歌山港の灯台の中、今月天が戦場としている無人島とはまるで正反対の方向に位置する、安全な隠れ家だった。
 
 
 四
 その深夜、無人島が大爆発を起こした。
 よっぽど強力な爆発だったのだろう、島の全形は跡形もなく吹き飛ばされ、僅かに残った砂地だけが無人島の痕跡を示していた。
 月天はその時、島の頂上に位置する白い家に潜んでいた。
 無人島の外から確認できるほど、周りの深緑に混じって際立っていたその白い家は、断崖絶壁の崖の上に位置した見晴らしの良い場所にあった。もし明日香がこの島に隠れているとすれば、あの白い家以外に恰好の場所はないだろうと、月天は信じて疑わなかった。
 そう、このような結末を迎えた原因を敢えて挙げるとすれば、月天が獲物である明日香を過信してしまったことにある。
 明日香という人間を知っているが故の悲劇だった。弱者である明日香が小細工を駆使して立ち向かってくることは予想できた。それが彼女の戦い方でもあるし、ミサイルを撃ち込んでくることは予想していなかったが、彼女が起こす行動とすれば十分に想定できる範囲内だった。
 だが月天が白い家に忍び込んだ時、余りにも想定外の出来事が起きた。獲物である明日香の姿が何処にも見当たらないのである。月天は必ず明日香は無人島にいると信じていた。彼女はどんな苦境に立たされても、自分の誇りだけは捨てずに対等に戦ってくれると思っていた。それは月天が明日香を殺すと宣言した時から暗黙の了解で伝わっているものだと思い込んでいた。
 自分のプライドは捨てない明日香を信用したのが月天の過ちだった。彼女は生き延びるためなら、自分の誇りなどかなぐり捨てて月天を殺しに来たのだ。明日香の形を模した蝋人形が置かれたその白い家の中で、月天は明日香の立派な決断に驚嘆し、思わず溜息を付いた。
 月天もまた全力を尽くしていた。実際に白い家に侵入するまでの月天の行動は、ほぼ完璧に近かったのである。
 ミサイルが水上飛行艇に着弾したあの瞬間、月天は運転席の側面の甲板に体当たりして外に飛び出した。コンマ一秒の判断での飛び出しだったが、爆風を完全に防ぐことはできなかった。壊した甲板を盾にしながら海面に落ちたものの、右腕が重度の火傷を負って麻痺し、高熱の黒煙を吸い込んでしまったため声帯もいかれた。それでも月天は冷静に次の行動を考え、モートボートで迫ってくる敵に見つからないよう、大きく息を吸い込んで海に潜った。月天がその気になれば最大で三十分は息継ぎ無しでも活動できる。その間に月天は海中の魚群に紛れて潜水し、落水地点から数キロは離れていた島まで辿り着いたのだ。
 島の高台にスナイパーが潜んでいることは以前から気付いていた。飛行艇から落下する際に島の全景を目に焼き付けて置いたおかげだろう、月天は呑気に海面をスコープで見張っているスナイパーを見つけては、暗殺用に隠していた含み針を口から飛ばし、一撃で額を貫通させて仕留めたのである。
 無数に配置されていた地雷原を回避できたのは、火薬の匂いに気付いた月天の嗅覚のたわものであったが、その半分は運に救われた。結局月天は最後まで気付かなかったが、この無人島は元々核廃棄物を埋め立てて作られた、立ち入り禁止の島なのである。
 廃棄した核を土台にしたこの島には、地質から火薬の匂いが充満していた。月天はそれを地雷だと勘違いし、木の上を移動して爆発を避けていた。
 スナイパーを全員殺した後、月天は高台に登ってスナイパーが着ていた厚手の防弾スーツを奪って変装し、麻痺した右腕の回復に努めた。幼少の頃から月天の治癒力は凄まじく、大概の傷なら半日も経てば回復してしまう。全力で明日香を殺したいという願望も手伝い、月天は間近に迫った白い家を警備している武装構成員に警戒しつつ、深夜まで堂々と眠りに就いた。
 ささやかながら楽しい夢も見れた。それは月天も忘れかけていた懐かしい幼少の頃の記憶を再現していた。
 月天は夢の中で、父に買い与えられた沢山の人形と戯れていた。当時の月天は言葉も喋れず、自力で立つこともできなかったので、カーテンの閉まった薄暗い部屋でいつも一人きりだった。唯一の家族である殺し屋の父は、仕事の関係上しばしば出張していたので、友人のいない月天と遊んでくれたのは部屋に溢れた人形だけだった。
 それでもあの頃はとても楽しかった。人形は腕を抜かれて頭を千切られても決して怒りはせず、いつも傍にいてくれたから。何も語らず動けない未熟な自分と人形は同じ種類の生き物だったから。
 お父さんも、人形になればいいのに。月天は夢の中で当時考えていたことをふと思い出す。そうだ、父さんが人形になってくれたら、ずっと私の傍にいてくれる。腕を取っても首を千切っても怒らずに私を愛してくれる。でも当時の私は無知で何もわからない。月天は声にならない口を動かして、沢山の人形に語りかける。
 ねえ、教えてよ。人間を人形に変えるには、どうすればいいの。
 懐かしい人形との戯れを終えた月天はそこで目覚めた。既に月明かりだけが頼りな夜になっていた。月天はまだ自分が発見されていないらしいことに気付くと少し拍子抜けした。至る所に地雷原があるせいだろうが、島内の警備はスナイパー任せでお粗末もいいところだった。
 とにかく気を引き締めて目標の白い家を見ると、昼には数十人はいた警備の姿が丸ごと消えていた。あそこに明日香がいるなら警備を解くはずはないのだが、これは一体どういうことなのか。
 その時、月天は傍らに転がっていた無線機を手に取った。何処に通じているかわからないが、音を立てれば何らかの反応を示すかもしれない。月天はスナイパーのライフルを空に向けて発砲した。
 それが功を奏して、無線からいきなり明日香の声が聞こえた。月天はすぐに応対しようとするが、声帯が未だに回復しておらず、声を絞り出すまでにかなりの時間を要した。
 やっと声を出して返ってきたのは、あの少年の声だった。月天はその少年を優秀な殺し屋だと疑った。警備をおろそかにする理由は、優秀な殺し屋を雇っている以外に考えられなかったから。
 その少年のせいで、月天は明日香があの白い家に潜んでいることに確信を抱いた。明日香の切り札がその少年であると勘違いしてしまった。無線を切った月天は、迷わず一直線に白い家に駆けて行った。沖合いから島に引き返してくる武装構成員が何やら無闇に喚き散らしていたが、月天は全く意に介さなかった。
 しかし月天が扉を破って入ったその家には、真ん中にテーブルが置かれただけのもぬけの殻に過ぎない。テーブルに元から動かない明日香の蝋人形が置いてあるだけだ。月天はその時になってやっと明日香がこの島にいないことに気付いた。
 深い溜息を付いた月天の視線の先に窓があった。窓の向こうの数十キロ先にはもう一つ島があった。夜目に優れた月天だからこそ発見できたその島には、パトリオットミサイルの発射台が置いてあった。それも二台。
 頭の隅に引っ掛かっていた疑問を月天は思い出した。そういえばあのミサイルは一体何処から発射されたのだろう、この島には発射台がないのに。 
 その疑問がはっきりと溶解して、新たな別の疑問が月天の頭を支配する。二台目のミサイルは既に発射されている。いつ発射されたのだろうか。月天は新たなその疑問を自力で解いた。
 この白い家は、離れたあの島を隠すための壁に過ぎなかったのだ。二発目のミサイルは、月天がこの家に攻め込む際に発射するように仕組んでいたのだ。月天にミサイルの発射音を気付かせないために、明日香は仲間である武装構成員を無闇に騒がせ、この島が安全であることを信じ込ませるために島に引き返させたのだ。
 明日香の罠に気付いた月天は、急いで島を出ようと思ったがもはや手遅れだった。ミサイルは発射してから十秒とかからず着弾するだろう。白い家で考えごとをしている間に、その猶予は既に使い果たしてしまっている。
 覚悟を決めた月天は両腕を上げて身を固めた。全身に神経を集中させて致命傷だけは避けるつもりだった。しかし明日香の狙いは別にあった。白い家に撃ち込んで来ると思ったミサイルは、検討違いの方向にそれて、島の中心部を爆撃したのである。
 月天の頭の中は、全く訳がわからなくなっていた。だがその数秒後、足元から濃密な爆発音が這い上がってきた。そして次の瞬間、白い家が真っ白な閃光に包まれた。
 月天の想像を遥かに超えた爆発が起こった。ミサイルとは桁違いの爆風に月天は包まれる。耐え切れない衝撃に月天の質量は脆くも地面を離れて遥か彼方に弾け飛ぶ。
 この強大な爆発こそが明日香の真の狙いだった。外れたと思わせたパトリオットミサイルはこの島の最下層を爆破していた。すなわち核廃棄物を土台にしたこの島に火を放ったのだ。ミサイルはただの導火線であり、この島自体が月天を殺すための巨大な爆弾だったのだ。
 明日香を殺すことで頭が一杯の月天に、この罠を見抜けるわけがなかった。いや恐らく誰も島自体が爆弾だと予想することはできなかっただろう、武装構成員もろとも爆発に巻き込まれた月天は、それから現在に至るまで消息を絶っている。
 和歌山港には平穏な空気が流れていた。明日香の傍にいる少年は勝利に酔い痴れ、明日香と二人きりの生活を存分に満喫していた。月天が消息を絶ってから一ヶ月、島のあった場所に捜索隊を連日送っているが、遺体の発見には至らないので、少年が喜ぶのも当然のことだった。
 だが明日香は何処か上の空で、月天を殺した実感も掴めないまま悪戯に空虚な毎日を送っていた。月天の遺体をこの目で確認するまで安心できない。結果的に予定通りに計画は進んだが、明日香は自分の判断をどうしても信じることはできなかった。この止まない嫌な胸騒ぎの原因は何だろう。
 それからさらに一ヶ月経った頃、明日香は買い物籠を提げて、和歌山港の灯台へと帰っていた。田舎の土地で不便も多々あるが、住民の人柄が良く、空気も心地良いので、相変わらず胸に渦巻く不安を紛らわせるには、ここは最適な場所だった。現在も行われている月天の捜索をいつ打ち切るかは決めていないが、気持ちを切り替えれる余裕ができるまで、明日香はここに住むつもりだった。
 灯台へと延びる細長い野道を歩いていると、あの少年が灯台から何やら嬉しそうな顔をしてこちらへ駆けて来た。不思議そうに見ている明日香に、少年は声を張り上げて叫んだ。
「母さん、ついに見つかったよ。すぐに月天の遺体をこっちに運ぶってさ」
 明日香の顔が一瞬にして凍り付いていた。力なく買い物籠を手から落とし、傍まで駆け寄ってきたその少年に問いかける。
「今、なんて言った」
 無機質な目を剥いて尋ねる明日香に少年は恐怖し、半ば脅迫的に答えた。
「だから、月天の遺体が見つかったって」
「何処で、誰が、一体いつ見つけたの」
「三時間前だよ。見つけたのはもちろん捜索隊さ、今こっちに輸送ヘリで運んでるって連絡が来たんだよ」
「運んでるって何、どういうこと。肉体はバラバラなんでしょ」
 段々と明日香の語気は荒くなっている。胸に渦巻く不安が増大していく。
「いや、それが不思議と原形は留めてるって。欠損や外傷はいくつかあるみたいだけど」
 それを聞いた途端、明日香の血の気が一気に引いた。膝から地面に崩れ落ちて、死の恐怖に肩を震わせる。
「どうしたの母さん、遺体が見つかったんだよ。嬉しくないの」
 言った少年の胸倉を明日香は掴んだ。情けなく怯えた表情をして、凄まじい剣幕で少年に訴える。
「駄目よ、生きてる。死んでなかったのよ。こっちに運んじゃ駄目。そうだ、すぐにヘリを撃ち落すのよ。ミサイルでも核兵器でも何でもいいからすぐにあの子を殺して。殺すのよ。殺してぐちゃぐちゃにするのよ。ねえ、お願いだから早くしてよ。一生の、お願いだから」
 少年がこれほど取り乱す明日香を見たのは初めてだった。少年には理解できなかったが、明日香の目には確かに見えていたのである。
 少年の背後で大鎌を振り被る、冷徹な死神の姿が。
 
  
 五
 小さな子供が顔を泥塗れにしていれば、他人はその子が泥遊びをしてたのだろうと想像するだろうし、その子を泥で遊ぶような汚らわしい性格の持ち主だと、勝手な先入観を抱くこともあるだろう。つまり外見での第一印象というのは、他人に与える影響が非常に大きいということだ。この心理は人殺しにも応用できる。実際のところ殺し合いなんていうのは、騙すか騙されるかの世界だし、先に騙したものが大抵勝つからね。と、亡き月天格闘術の創始者がそう語っていたのを月天は思い出す。
 このような殺し屋の技術は多岐に渡り、実際に殺し屋として活躍していた月天にあって、明日香にはないものである。単純な知恵と機転の良さを比べれば明日香が優れているのだろうが、こと殺し屋の技術に関しては明日香は無知に等しい。だから表面的なことでしか殺し屋を計れないし、核爆弾並の爆発に巻き込めば月天を殺せるだろうと甘めの計算をしてしまう。
 それは輸送ヘリで月天を運んでいる、東南アジア系の顔をした乗組員七人にも当てはまる。彼らは爆発した無人島の数十キロ先にある別の無人島の入り江で月天を発見した。特に医学には精通してないが、彼らは全身黒焦げで、右腕の肘から先を消失していて、頭髪もなく、右目が放射能で白濁していたその動かない月天を見て、真っ先に死んでいると思った。DNAを照合して月天本人だとわかり、心臓の停止を確認することによってその先入観は確信へと変わった。その安心感があるからこそ、彼らは月天に聞こえるように平然と会話している。
「本当に陸に打ち上げられているとは思わなかったな」「前々から俺が言ってたろ。潮流が激しいから島に流れ着いてる確率は高いって」「しかしこれで発見した俺達の班が三千万もらえることになったわけだ。ほんとついてるな」「明日香様はがめついが、成果主義者だからな。きっと俺達のこれからの面倒も見てくれるだろう」「だとすると一気に億万長者か」「そりゃあ良いや。おい、もっとスピードでねえのか。早く和歌山港の明日香様にこいつの遺体渡して祝杯を上げようぜ」「あはははははははは」
 そうして全員が一様に喜んでいる。タンカに載せられて薄手のビニールで全身をすっぱり覆われている月天は、彼らの会話から明日香の居場所を探ろうとしている。当然、月天がまだ生きていて、死んだ人間を装っていることなど彼らは想像だにしていない。
「はい、こちら捜索隊第七班ですが、いかようですか明日香様」
 突如として明日香からの無線が入った。月天は死んだ振りを続行しながら聞き耳を立てる。和歌山港にいるということはわかったが、正確な居場所が欲しい。
「生きてる。月天が、ですか。まさかそんなことありませんよ」
 生きていることがばれている。恐らく理屈ではなく直感だろうと月天は考える。明日香はこれまで大勢の殺し屋に狙われながらも生きてこれたのは、この動物的直感が背景にあったからだ。月天は明日香が必死に頑張る様を想像して、心の中でほくそ笑む。
「遺体をバラバラにですか。今すぐ。はい、わかりました。バラバラにしてから運びます」
 どうやら死んだ振りもここまでのようだ。応対した乗組員からすぐに明日香の指令が伝えられる。「バラバラにしてから運ばないと安心できないとのことだ。すぐにやってくれ」
 言われた残りの六名は、気だるそうに月天を隠していたビニールを取っ払い、腰に差した凶暴なナイフを各々が手にする。月天は全員がナイフを握ったのを見届けてから、ゆっくりと重い体を起こす。
「あれ」
 起き上がった月天を見て、一人が間抜けな声を発する。他の連中もナイフを握ったまま唖然としている。月天はその間に胃に詰めていた右腕の肘から先を口から吐き出し、それを切断面に当てて、舌の裏に隠した糸と針で乱暴に縫い付ける。黒焦げだった全身の肌は、月天が起き上がると同時に表面が剥がれ落ちていき、綺麗な白人の肌へと変わっていく。さらに仮面のように顔に被っていた別の人間の皮膚を脱いで、女性の容貌を保った美しい金色の髪を披露する。これらは全て月天を遺体に見せるための極めて高度な変装であり、死んでいると思い込んでいた彼らには驚愕の光景に映っただろう。だから月天を攻撃せずに、月天は余裕を持って彼らを眺めながら戦うための準備を整えている。
「変装は月天流の得意とするところや。バニーガールの恰好させられてショーパブに潜り込んだこともある。なんせ師匠の性格が悪かったからな。といっても、滅多に使う機会はないんだけど」
 月天は言いながら両腕を振り回した。神経の繋がっていない右腕まで強引に振り回したその暴力は、周りの六名の生首を一瞬にして床に転がしていた。
「しかし不覚を取ったのもたしかや。瀕死の重傷を負って二十日は生死を彷徨ったし、実際に今生きてるのは思ったより頑丈にできていたうちの体と運のおかげ。明日香さんは知らんやろうけど、爆風に身を任せて衝撃を和らげる受けの業があるんや。それ使って威力を最小限に留めたおかげでもあるけど、あれ、もう無線きれとんのか」
 月天は喋りながら運転手の方に近寄っていた。無線はまだ切れてはいないが、明日香が返答することはなかった。放射能を浴びて白濁した月天の右目に、のっぺりとした運転手の人形が映し出される。
「化け物か、なぜ生きている。心臓は止まっていたはずなのに」
 人形が月天に語りかけてくる。月天はその愛らしい人形に感極まって思わず左腕を千切ってしまった。獣じみた悲鳴が聞こえてくる。しかし人形は相変わらず無表情で月天を怒りはしない。月天は調子に乗って人形の頭を鷲掴みにし、手首を捻って首の骨をへし折ってしまった。左手を人形の胸にそえながら。
「ほら、こうすると心臓が弱まっていくやろ。人は動けなくなると心臓が止まるんや。動ける状態を保ったまま心臓を止める方法はいろいろあるけど、うちの場合は胸の筋肉を体の内部に入れて無理やり止めてる。ふふ、でも明日香には少し難しいかなあ」
 月天は無線が切れていないことに気付いて笑って見せた。明日香は無線を繋げたままにして探りを入れているつもりなんだろうが、所詮それも無駄な悪足掻きにしか過ぎない。
「明日香、もうええやろ。悪いようにはせえへんから、直接会って殺し合おうよ。うちら友達やんか」
 月天は揺さ振りをかけながら、ガラス越しに見えてきた和歌山港を注意深く観察する。プライドを捨ててまで生き延びようとした明日香のことだ、きっと逃げ出すに違いないと月天は睨んでいた。
 だが明日香は黙したまま逃げようとしなかった。やはり単純な知恵比べでは明日香は月天の一歩先を行くようだ。対応に困った月天は仕方なくへりを直進させ、和歌山港の段々畑に突っ込ませた。ヘリが畑に減り込んで爆破する瞬間に壁を破って退避する。元よりヘリの操縦法を知らない月天はこうするしか脱出する方法はなかった。
 波止場に下り立った月天は、ヘリの爆破に驚いて民家から飛び出してくる住民を見つめていた。全てのっぺりとした人形に見える。しかしその人形は全てヘリの爆破に驚くような質の低いものであり、良質な人形は無関心を決めて爆破の現場に現れないだろうことを直感した。特に予め爆破することを知っていた人形なら尚更だ。
 月天は民家から視線を移して、波止場から離れたところに位置する灯台の方を見た。目に見える範囲の民家からは全て人形が飛び出している。そしてその灯台からも一匹、華奢な少年の人形が飛び出しているのが見えた。
 あの人形も質が低いのは確かだが、どうして灯台にいたんだろう。それに何処となく見覚えのある顔付きをしている。月天は考えていく内に、その人形が明日香の飼い犬だと察し、冷酷な笑みを浮かべて見せた。
 とうとう狩る者は獲物の居場所を突き止めたのである。明日香はあの灯台の中に潜んでいる。そう確信した月天は逃げる暇を与えぬよう全速力で灯台に駆けて行く。
 黙していた明日香の深くて長い溜息が、炎上する輸送ヘリの無線から静かにもれる。
     
 六
 僕が初めて月天と出会ったのは十年以上前にさかのぼる。
 当時五歳だった僕は旧東ドイツの孤児として施設に収容され、子供の奴隷を求めている裏の人間に買われる日を待っていた。毎日のように施設の子供は裏の人間に買われていったけれど、僕を買ってくれる人はなかなか現れなかった。元々僕は人一倍怖がりで体も弱かったから、裏の人達に気に入って貰えなかったんだと思う。
 そんな僕を買ってくれたのが今の母さん、深町明日香さんになる。明日香さんは僕を奴隷にするつもりで買ったわけではなかった。僕に日本で生活するよう言い渡し、ある人物の監視を続けながら強くなる修行を積めと言った。
 そのある人物が、月天だった。あいつは明日香さんと気軽に会話していて、とても仲が良さそうだったから、僕はいつもあいつを陰から妬んでいた。明日香さんを独占された憎しみを糧に、僕は高名な殺し屋に弟子入りして修行に励んだ。
 全ては明日香お母さんのためだった。本当の父さんと母さんのことは知らないけれど、明日香さんは僕を信用してくれるこの世でただ一人の大切な人だ。明日香さんはいつか必ず月天を殺す日が来るから、その時はお前が月天を殺すんだよと言ってくれた。僕はその日を信じて、明日香さんに会えない苦痛の日々に耐えながら幾度となく鍛錬を繰り返した。僕は母さんのために月天を殺す。それが僕に課せられた使命であり、それだけが僕の生きる理由だ。
 灯台を飛び出したのは月天の注意を僕に引きつけるためだ。初めて母さんの命令に背いた僕の勝手な行動だけど、母さんにはもう手立てが残されていない。月天を止めれるのはもう僕しかいないんだ。だから僕は決して逃げない。例え月天がどんなに強くて僕の手に負えない相手だったとしても。
「月天、僕がお前を止めてやる。かかってこい」
 明日香の潜伏する灯台を背にして少年は吠えた。月天は肉食動物のような前傾姿勢で雑草を踏み潰しながら駆けてくる。薄ら笑いを浮かべる月天の目に、少年は映っていない。完全に少年を無視して、灯台の中にいる明日香に夢中になっている。
 少年は腰に差した日本刀を抜いて上段に構えた。十年以上に渡る血の滲むような殺し屋の修練に耐えて得たものは、人間の反射能力を凌駕する最速の剣術だった。少年は大きく息を吐いて、間合いに入った月天の首筋に刀を振り下ろした。
 首筋に刀が減り込もうとしたその瞬間、少年の体はなぜか宙に浮かび上がっていた。少年の顎に強烈な痛みが走る。最速の剣術を極めた少年より月天は後から動いたにも拘らず、左拳が顎を捉えて跳ね上げていたのだ。宙空で無防備になった少年を、月天はすかさず滅多打ちにする。
 月天の暴力に苛められながら少年は思う。長年月天の動きを研究し、月天が猪突猛進を繰り返す雑な殺し屋だと思っていたがそれは間違いだった。剣術を極めた僕が反応することすらできない。動きが速すぎて見えない。何発殴られてるかどうかもわからない。母さんがあんなに月天を評価したのはこういうことだったのか。こいつには戦法なんて必要ない。こんな化け物に人間が勝てるわけがない。紛れもなく人を殺すために生まれてきた生粋の殺人鬼だよ。
 宙空で滅多打ちに遭った少年が地面に落ちる。月天は地に伏した少年を怪訝そうに見下ろしている。先ほどまで眼中に無かった低質な人形だったはずだが、戦いの中で違和感を覚えたようだ。
「驚いたな、お前ただの人間やないやろ。うちの攻撃がちっともきいてへん」
 月天は悔しそうに倒れた少年に言った。月天は本気で何十発と打ち込んだが、少年を気絶させただけで、打撲の跡すら残すことができなかったのである。圧倒的な破壊力で殺し屋を蹴散らしてきた月天にとって、これほど手応えがない相手は初めてだった。
「そんなことはないわよツキテン。あんたを人間とするならその子もただの人間とすべきよ。体が頑丈なのは多分血筋なんでしょうね」
 懐かしい声がそう言った。月天が咄嗟に正面を向くと、別れた当時と変わらぬ明日香の姿がそこにあった。久し振りに再会した月天と明日香は、妙に嬉しくなって互いに笑みを零した。
「元気そうやな親友。とうとう観念して、うちとまともに殺し合う気になったんか」
「まあ、見つかっちゃったからしかたないわよねえ。どう、つもる話もあるだろうし、中に入って少し話さない。もちろん私を殺したいならいつでもかかってきていいわよ。あ、その子も連れてきてね」
 明日香は意地悪っぽくそう言って無防備に背を向けた。月天は食えない明日香の行動を微笑ましく思いながら、明日香の後ろに着いて灯台の中に入っていった。倒れた少年を担ぎ上げて。
「一番上まで行きましょうか」
 灯台の内部は螺旋状の階段が上に延びていた。展望台まで延びた螺旋階段の各踊り場には部屋が設置されており、まるで蟻の巣を思わせる構造になっていた。明日香は階段をゆっくり登り、試写室やら無線室と書かれた様々な部屋を通り過ぎて、楕円形のドームに覆われた展望台まで登っていった。
「ここは元々殺し屋から身を隠すために作った私の隠れ家よ。灯台には通常防人しか住み着かないからね。灯台下暮らしってやつかしら、あんたに対して使う日がこようとはね」
 明日香はシャレを言いながら展望台の奥に置いた玉座のような椅子に腰掛けた。壁際に置かれたパイプ椅子を月天に勧めるが、月天は展望台まで担いできた少年を乱暴に落として、その背中の上に坐った。
「なるほど、ここからあの島に連絡を取ってたんか。情報屋はあの島にいるっていうてたけど、グルやったみたいやな」
 月天は新たな罠を警戒して展望台を見回した。楕円形のドームにはぽっかりと丸い窓が覗いている。恐らくあの穴は巨大な望遠鏡の先端を外に出すためのものだろうが、明日香は望遠鏡を設置していないので、強い日差しが丸い窓から差し込んでいる。それ以外はパイプ椅子と丸めた布団が置いてあるだけで、別段変わった仕掛けもなさそうだ。
「今更警戒することはないわよ。私の持ち札は全部使ったわ。月天を殺すためにやれることは全てやったつもりよ。今の私が何をしたところで戦局は覆せない。あなたならいつでも好きな時に殺せるでしょう」
 明日香は玉座に頬杖を着いて言った。真摯な瞳でそう語る明日香の言葉に嘘はなさそうだった。長い付き合いのおかげで明日香の気持ちが良く分かる。彼女は全力で戦い切れたことに満足しているようだった。
「覚悟は決めてるみたいやな。個人的にはもう少し足掻いてくれても良かったんやけど。そういやこのガキは一体何者なんや。明日香の手札にしては、随分中途半端やったな」
 月天はそう言って椅子にしている少年の顔を指差した。明日香はその光景を見てクスリと笑った。
「随分と気になってるみたいね。知りたいなら教えるわよ」
「聞いてみたいな。うちと明日香の殺し合いに立ち合わせるぐらいや。ただの捨て駒やないんやろ」
 攻撃が効かなかったこともそうだが、月天は明日香がその少年を連れて来るように言った時、この少年に何らかの使命、或いは月天との因果を背負わせていることを見抜いていた。明日香は御明察と言わんばかりに、大きく頷いていた。
「その子は私の切り札になる予定だった子よ。ツキテンより三歳下で、ドイツ人の父と日本人の母から生まれた孤児だわ。名前を覚えていなかったみたいだから私はアキラって名前を付けた。丁度、あなたが月天流に入った時ぐらいに、保険として買っておいたのよ。なんせ殺し屋を飼うのは初めてだったからね。万が一、ツキテンが私に牙を剥いた時には、アキラにツキテンを殺させるつもりだった」
 明日香は平静を装いながらも、内心は極度の緊張で逃げ出してしまいそうな心境だった。月天とのささやかな会話を終えた時、確実に自分は殺されることになる。
 明日香は、せめて少しでも長く、友達の月天と喋っていたいと思った。
「恐ろしい人やな。その頃からうちとの殺し合いを想定してたんか」
 月天は明日香の心境を知ってかしらずか、友達との最後の会話に付き合っていた。
「飼い犬に手を噛まれても不思議じゃないからね。アキラには殺し屋の訓練を積ませたけど時間が足りなかった。いや、厳密には月天という殺し屋が強くなり過ぎたのよ。木葉を殺してからのあなたは、私が計れる次元のものじゃなかった。今こうやって追い詰められているのも、必然なことだわ。ツキテンの強さを計れない私がいくら策を練ったところで、通用するはずないものね」
「そう捨てたもんやなかったけどな。うちがこんなに手傷を負ったのは初めてや。もし島を爆破させた直後にうちを発見できてたら、うちは間違いなく死んでたと思う」
「たらればの仮定に意味はないわ。殺し合いには結果が全てよ。負ければもう次はない。生か死かの事実だけが残る世界よ。私もツキテンも、今まで数多くの人を虫けらのように殺して、数多くの仲間の死を乗り越えてきたでしょう。ツキテンは自分のことを殺人鬼だと思っているみたいだけど、私に言わせれば素直で明るい普通の人間だよ。この世界には倫理観も善悪の感情もいらないの。例えどんなに犠牲を払っても、私達は人を殺して自分が生き延びるという事実を求めて戦ってきたんだから」
 そう語る明日香の目には涙が浮かんでいた。月天も話を聞いている内に泣いてしまいそうだった。明日香と協力して戦ってきた殺し屋の日々には非情な結末のみが待ち受けていた。殺し合いの果てに生み出されるのは負の感情だけだった。そんな世界に月天と明日香が飛び込むことになったのは、きっと他人よりも臆病で哀れな生き物だったから。
「うちらはずっとそれの繰り返しやな。どんなに人を殺しても生き延びて、結局は大切な人をも殺してしまうんやから」
 今月天の白濁した右目には、明日香の形をした人形が映っている。それは過去を振り返って自分の犯した行為をどれだけ嘆いても、月天は明日香を殺したいと渇望している何よりの証拠だった。もう引き返すことはできないし、月天はその道を行けるとこまで進むことを望んでいる。
「なあ明日香さん、うちと出会って、後悔してへんか」
 月天は声を落として申し訳なさそうに尋ねた。
「後悔なんて一度もしたことないよ。ツキテンに出会えて本当に良かったわ。きっとツキテンに出会えなかったら、人の死についてあれかれ思い悩める人間らしい気持ちも持てなかったし、かけがえのない楽しい思い出も与えてくれたしね」
「偉い簡単に断言するなあ。仮定の話に意味はないやろ。うちと出会わへんかった方が幸せやったかもしれんで」
「ふふ、そうかもしれないわね」
 月天と明日香はお互いに笑い合って、同時に重い腰を上げた。明日香は玉座の後ろに隠していた二本の出刃包丁を構える。月天は神経の繋がってきた右腕を回して、明日香に殺意の目を向ける。
「さて、殺し合いますか」
 月天が開戦の合図を告げる。だが明日香は包丁を十字に交差させて待ったをかける。
「その前に一つ言っておくことがあります」
 言った明日香が左手に持った包丁を投げた。月天は動じることなく、飛んでくる包丁を叩き落とす。その間に明日香は一気に距離を詰めてくる。
「アキラはあんたの腹違いの弟よ。起きなさいツキテンアキラ、母さんの命令よ」
 命令という言葉に反応したその少年は、瞬時に意識を取り戻して月天を後ろから羽交い絞めにした。アキラ少年との繋がりを告げられた月天が一瞬動揺してしまったせいだ。突っ込んでくる明日香の包丁の刃先は、そのまま月天の腹部を突き刺していた。 
「お気に召したかしら。これが私の全力よ」
 明日香は突き刺した包丁で腹を引き裂こうとするが、刃先が内臓には達しておらず、月天の腹筋に絡め取られて微動だにしなかった。月天は感心したように嘆息を付き、背後のアキラの頭を掴んで強引に投げ飛ばした。そして自由になった左腕を伸ばして明日香の髪を掴まえる。
「ようやったわ明日香さん。あなたのこと心底尊敬するよ」
 月天は手元に明日香を引き寄せて、無防備な腹部に右拳を叩き込んだ。
「おぶええっ」
 声に成らない断末魔が展望台に響き渡る。月天の顔に明日香の吐いた多量の血がへばり付き、明日香は腹部を押さえて膝から崩れ落ちた。内臓が破裂して砕けた骨が肺に突き刺さっていた。それでも明日香は虚ろな目を彷徨わせて、何とか仁王立ちする月天を見つめる。
「ツキテン、まだ、終わったわけでは」
 息を乱して喋ろうとする明日香の顔を、月天は蹴った。舌を噛んだ明日香の体が簡単に吹き飛び、楕円形のドームに叩き付けられる。明日香は床に落ちて悶絶するも、月天は顔色一つ変えずに近寄っていき、明日香を仰向けに引っくり返して陥没した腹部に足を乗せた。
「うちの勝ちや。すぐに殺さんよう加減したけど、何か言い残したことはあるか」
 月天は息も絶え絶えの明日香に問うた。明日香は虚ろな目を地面に這わせて床に転がっているアキラを見た。
「一つだけ、頼みが。アキラに、時間をあげて欲しい。あの子は、私達の希望なの。今はわからないかもしれないけど、いつかきっと、アキラはツキテンの力になってくれる」
 明日香が何とか声を絞り出してそう懇願した。月天は思いも寄らない台詞に動揺して、思わず明日香と一緒に倒れたアキラの方を見た。
「あいつがうちらの希望。それって一体どういうこと」
 月天が再び明日香に視線を戻した時、明日香は虚ろな目を開いたまま動かない人形に変わっていた。
 人形に変わり果てた明日香を見た瞬間、月天の胸の内に怒涛のような悲しみが押し寄せてきた。長年連れ添ってきた大切な親友を、とうとう殺してしまったのだ。月天は大粒の涙を目に溜めて悲壮感一杯の顔をするが、人形となった明日香の顔面を容赦なく殴った。
「希望って何や明日香。思わせ振りな台詞残してうちに考えさそうと思ったんか。人形のくせに生意気や。うちが勝ったんや。お前はもう二度と動くことはできへん、二度と、動かないうちだけのものなんや」
 月天は嗚咽をもらしながら、馬乗りになって明日香の人形を殴り続けた。明日香を無抵抗な動かない人形に変えて、救いようのない哀れな快楽を得ていた。
 人形を得た月天がやれることはその人形を破壊することだけだった。月天は何時間経っても、子供のように泣き喚きながら明日香の人形を壊し続けていた。頭を千切っても、腕を裂いても、足の骨をへし折っても、明日香の人形は文句一つ言わずに月天を受け入れてくれた。月天はそれが途方もなく嬉しく、胸が張り裂けそうなほど悲しかった。
 やがて倒れていたアキラの意識が戻った。アキラは号泣しながら大好きな母さんを甚振り続ける殺人鬼を見て、苦渋の涙を零した。
「月天、もうやめろ。明日香さんは、お前にとっても母さんだったんだろう、どうして、そんなことができるんだよ」
 アキラの悲痛な叫びが響き渡った。月天は明日香の首筋の肉を噛み千切り、情けなく泣き崩れた顔でアキラに振り返った。
「だって、だって、明日香はうちが殺したんやもん。お前のもんやない、うちだけのもんやもん。どうしてうちを責めるの。うちはただ、明日香の人形で遊んでるだけやろ」
 月天はそう言ってまた泣き喚いた。千切れた明日香の頭部に頬を擦り寄せ、明日香の手を持ち上げて自分の髪を撫でさせていた。
「そんなに悲しいのに、どうして殺すの。どうして母さんの遺体をもてあそぶんだよ。訳がわかんねえよ。お前は一体何なんだよ」
 アキラには月天の異常な行動を到底理解できるはずもなかった。だが月天が明日香の死を本当に悲しんでいるのは傍目にも伝わってきた。訳が分からなくなったアキラは泣くしかなかった。今の自分ではどうすることもできない。月天の人形遊びをただじっと見ていることしかできなかった。
 月天の異常な人形遊びは深夜まで及んだ。その頃には二人の目から涙は枯れ果て、明日香の死体はぐちゃぐちゃに破壊されて肉の塊がそこら中に散乱していた。遊び終えた月天は寂しそうに明日香の肉片を見ていた。
「明日香さん、死んでもうた。もううちと遊んでくれへん、これからどうしよう、寂しくなるな。なあ、お前もそう思うやろ」
 月天は、明日香の散らばった肉片を掻き集めているアキラに同意を求めた。しかしアキラは何も言わずに無心で母の肉片を一箇所に集めていた。月天は真剣な目をして後片付けに取り組むそんなアキラを見ている内に、初恋のような胸のときめきを覚えた。
「お前、アキラって言うたな。腹違いのうちの弟って明日香は言うてたけど、あれほんまなんか」
 月天は肉片を集めるアキラの手を握って尋ねた。アキラは溜息を付いて、母を殺した憎き敵を睨み付けた。
「知らないよ。僕も初めて聞いた。でも母さんが言うなら本当だろうね。お前が義理の姉だと思うと反吐が出るよ」
 アキラが悪態を付いて答えると、月天は嬉しそうな笑みを浮かべて手を離した。そしてアキラはまた黙々と母の肉を集めて骨壷のような陶器に詰め込んでいく。
「青くて綺麗な目をしてる。そういや見覚えがあると思ったけど、お前うちのお父はんに何処となく似てる。そうか、お前がうちの弟かあ」
 月天は弟の存在を嬉しく思うと、自分が散らかした明日香の肉片を掻き集め始めた。アキラは薄気味悪そうに侮蔑した目で月天を見ていたが、二人はそれ以上何も言わずに協力して明日香の肉片を集めていた。
 早朝の光が展望台の丸い窓に差し込んだ頃、二人は灯台の外に出て、断崖絶壁の岬に明日香の墓を作っていた。明日香の肉片を詰めた壷を地中に埋めて、月天がその上に適当な大きさの石を乗せる。月天は仕上げに垂直の石に軽く指を押し当て『深町明日香の墓』と名を刻み込んだ。
「礼は言わない。お前は母さんの敵だからな。けど、ありがとう。母さんと全力で戦ってくれて」
 アキラは明日香の墓前で拝みながらそう告げる。隣で一緒に拝んでいた月天は義理堅いアキラの黒髪をそっと撫でる。
「素直に泣いてもええねんで。うちにとっても明日香さんは母親やった。殺したうちが言えたことじゃないけど、感謝してるよ」
 月天に言われて、アキラは押し殺していた感情を爆発させた。改めて母の死を受け入れて目に大粒の涙を溢れさせる。月天はそんなか弱い少年に過ぎないアキラの瞳を見つめる内に、明日香が最後に残した言葉を思い出した。 
「うちらの希望て、そうか、そういうことやったんか。じゃあ明日香さんは戦う前からうちに希望を見い出して。なんや、それじゃあうちの負けやないか。ほんまえぐい人やなあ」
 明日香の真意を汲み取った月天は溜息を付いた。無造作に明日香の墓に背を向けて、波止場の方に歩いていこうとする。
「待て、何処へ行くんだ月天。僕を殺さずに逃げる気か」
 アキラはすかさず後を追って月天を呼び止めた。月天は歩きながらアキラの方を向いて頷いて見せる。
「ああ、逃げる。今のお前じゃどうせうちに勝たれへんやろ。うちは殺し屋稼業に励んでるから、いつか遊びに来いよアキラ。うちはいつでもお前を歓迎するで」
 笑顔で別れを告げた月天は全力で駆け出した。アキラも逃げさぬよう後を追いかけるが、月天の脚力には到底追いつけなかった。やがて波止場に一人取り残されたアキラは、姿の見えなくなった憎き敵に叫んだ。
「いいか月天、良く聞け。僕は強くなる。お前よりずっと強くなってみせる。だから今は逃がしてやる。だが僕が強くなるまで生きていろ。僕に殺されるまで絶対に生きていろ。僕が必ずお前を探し出して、母さんの敵を取ってやるからな」
 和歌山港中に響き渡るアキラの決意は、民家の裏手に隠れていた月天の胸を至福に躍らせた。月天は明日香の遺言通り、アキラに時間を与えることにした。アキラが月天を超える殺し屋になれるかはわからないが、月天はアキラに希望を託すことに決めた。
 きっと明日香も月天に希望を託していたはずである。殺しに寄り添って生きている人間は、いつかふと足を止めて人生を終えることを考える。散々無闇に人間を殺してきた殺し屋がだ。
 人間を人形に変える月天の哀れな破壊活動は、恐らくこれからも続くだろう。だがそんな月天も歩みを止めたくなる日がいつか訪れるかもしれない。月天はそんな時、アキラに自分の命を絶って欲しいと切に願う。それこそが月天が抱いた明るい希望、人殺しの私を殺してくれる存在だった。
 いつ果てるやも知れない殺しの渇望が続く限り、月天は殺しの世界に寄り添い、そしていつか殺されることを願って歩みを止めない。
 
 
 
最終話 人の形

 
 
 死んだ母さんの部屋を整理していると、僕宛の手紙が見つかった。母さんはその手紙に僕と僕の義姉になる月天について記していた。
『アキラへ。あなたがこの手紙を読む頃には私はこの世にいません。もし私が生き延びているならあなたにこの手紙の内容を教えないつもりです。しかしあなたが今この手紙を読んでいるということは、あなたは私を殺した月天を憎んで強くなる修行に励んでいるのでしょうね。私は母親としてあなたの一途な行為を嬉しく思うし、月天のためにもあなたには強くなって欲しい。けど、いざ月天と殺し合う日が来た時に、あなたは自分の犯す行為について深く考えて欲しいのです。人間を殺すということの意味を考えれる優しい人間になって欲しいのです。これは私だけの希望ではありません。あなたの家族も望んでいることなのです。それを知ってもらうために私はあなたの家族のことをこの手紙に記します。
 あなたの父は、ドイツの殺し屋として名を馳せていたツキテン=シュバルツ・ベスメントという方です。彼は月天流の創始者、ハナフサ・ヨウイチと対等に渡り合った経歴があり、ヨウイチは彼との友情の証にファーストネームであるツキテンを文字って現在の月天流格闘術を立ち上げたそうです。そしてあなたの母親は民間人の小林麻美さん。麻美さんはあなたの父の殺しのターゲットだったそうですが、死を恐れない麻美さんの気丈なところに惹かれて恋に落ちたそうです。
 麻美さんは恋に落ちてまもなくして子供を授かりました。それがアキラ、あなたです。ですがあなたの父は麻美さんが子供を産んだことを知りませんでした。殺し屋という仕事柄のせいでしょう、麻美さんは女手一つであなたを育てるつもりだったそうです。そしてあなたの父はアキラの誕生を知らないまま、自身が殺した前妻との娘である、ツキテン=マケーシー・グロリアス、現在の月天と日本へ渡航中、実の娘である月天に殺されました。
 麻美さんは元々体が弱い人だったそうです。あなたを生み落として二年もの間必死で働いていたそうですが、無理な過労がたたり命を落としてしまいました。親族との交流の途絶えた麻美さんの息子として生まれたあなたを引き取ってくれる人は誰もいなかった。あなたはすぐに孤児として裏の施設に入れられ、人身売買を目的とした競りにかけられるようになったのです。その頃のことはあなたも覚えていますよね。
 私がドイツであなたを買った経緯には、あなたが月天の腹違いの弟だということを知っていたからです。私は数多くの殺し屋を見てきて、自分の眼力には絶対の自信を持っています。そんな私が惚れた最高の素材である月天を超える人間を探して、やっと見つけたのがアキラ、あなたなのです。
 私はあなたを実際に見た時、あなたの底知れぬ才能に怖くなりました。あなたは紛れもなく月天を超える殺し屋に成り得る素材だったからです。育て方さえ間違わなければ、あなたは必ず月天を超えることができる。私はそう確信しました。
 ですが、今度の戦いではあなたは月天に勝てないでしょう。彼女は私の予想を覆す強さを手に入れました。正直驚いています。成長したあなたでも彼女を止めることができるどうか。
 さて、これからが肝心なところです。忘れないよう一字一句を目に焼き付けて置いてください。亡くなったあなたの父親は、殺し屋でいながら、娘には清く正しく美しい子であって欲しいと願っていました。殺し屋に弟子入りして。あなたも何度も人を殺したことがあるからその気持ちがわかりますよね。そう、殺し屋は強くないと生き残れないのです。憎しみは新たな憎しみを生み、あなたが殺し屋を止めたくなっても決して周りはそれを許してくれない。殺し屋は殺し屋になった時点から、命を落とすまで殺しの世界から抜けられないのです。
 私はあなたと月天に謝らなければなりません。あなたの本当の父親と母親は、あなたを殺しの世界で生きることを望んではいません。麻美さんもまた優しくて素直で人と共生できる立派な子になって欲しいと願っていたのです。私はアキラと月天を殺しの道に進めてしまったことを今、本当に後悔しています。ごめんなさい。私は自分の利益のためにアキラと月天を利用しました。ごめんなさい。駄目な母親と叱ってください。私は今度の殺し合いで死ぬでしょう。もちろんわざと殺されるなんて虫のいいことは断じてしませんが、私は死にたいと願っています。ごめんね、アキラ、月天。私は、あなた達に何もしてあげられなかった。二人とも優しくて明るい私の大好きな子供なのに。
 アキラ、あなたが憎んでいる敵は、本当は優しいあなたのお姉さんです。彼女は殺し屋でありながら、人を殺すと傷付くし、悲しみを抱ける優しい子なんです。でも彼女は殺し屋である以上、死ぬまで戦い続けなければなりません。お願いですアキラ、いつか月天を殺してあげてください。そしてあの子に伝えてください。あなたを殺し屋として育てて明日香は後悔していると。本当にすまなかったと。
 私があなた達に伝えたいことは以上です。できれば、二人とも最後まで人間らしい気持ちを抱いて人生を終えることを心より願っています。深町明日香』 
 母さんの手紙を読んで三年後、僕は義姉さんと再会した。
 彼女は相変わらず強かった。僕は彼女に対抗すべく、持ち前の体の頑丈さを生かして戦いに望んだ。意識さえ保てれば僕は彼女の怪力に耐えることができる。それでも彼女の牙城を崩すことはできず、後一歩のところで僕は敗れてしまった。そんな不甲斐ない僕に、彼女は優しく手を差し伸べてくれた。
 その時の義姉さんの無邪気な笑みは、とても殺し屋には見えなかった。僕は彼女を憎んでいたけど、母さんの言う通り、彼女は本当に繊細で優しい人なんだと思う。ただ道を誤ってしまい、終わりのない殺しの螺旋で哀れにもがき続けているのだ。
 僕にはもう憎しみはない。彼女のことを尊敬しているし、早く彼女を助けてあげたいと思う。
 彼女自身も殺しの世界に疲れてきているのか、僕との別れ際にこんなことを呟いていた。
「アキラ、人形が怒って見えるようになったんや。どの人形を殺しても、皆怒った顔をしてる。うち、もう人形にも愛想尽かされたんかなあ」
 彼女の見ている世界は僕には理解できないけど、きっと限界が近付いているのだろう。放射能の汚染が進んで両目とも白濁した彼女の目に映る世界は、とても空虚で寂しいものになったんだと思う。
 明日香さん、義姉さん、後少しだけ僕に時間をください。僕は必ず義姉さんを殺します。そして最後まで人間らしい気持ちを持った殺し屋でいることを誓います。僕の家族と明日香さんの思いは、愚かな殺し屋の一人に過ぎない僕が責任を持って背負っていきます。それが殺しの世界に生きた僕ができる唯一の恩返しです。
 
 完
 
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