第十二話 私は殺人が好きな人

 

茜が死んだ夜は明けた。
 まだ日が昇ったばかりの早朝、貝塚家の娘、香織は玄関先でそのことを知った。茜はワイヤーで首を締められ、庭先の木に全裸で吊り下げられていた。眠たげな虚ろな目をしている。禿げ上がった頭皮には、刃物を刺し込んだ痕が覗ける。
 その異様な光景には、何の慈悲もない、冷徹な殺人者の感情のみが感じられた。香織は声を出せず、身を震わせて固まっていた。
 まだ兄の貝塚剛は寝静まっている。今日は音羽木葉と思われる女性とデートをする予定ではあるが、この茜の死はそんな生易しい日常を一片に吹き飛ばし、これから起こりうる非現実な殺人を予感させるに十分な出来事だった。
 香織の予感を裏付けるかのように、茜の額には殺人者にのメッセージが残されていた。
「月天さん、早く私を探しに来てよ」
 刃物で刻まれた血肉のメッセージを、気配を悟らせずに現れた月天が読み上げた。何の動揺もみせない冷静な顔付きで。
 殺人者の名は記されていない。だが誰に殺されたのかはすぐにわかる。月天は溜息を付いた。とうとう弟子の蛙が馬脚を現した。この肉塊こそが蛙は木葉であるということの何よりの証だ。恐らく貝塚家から帰宅中の茜を狙ったのだろう。
 全てを悟った月天は、ワイヤーを強引に力で断ち切り、茜の死体を下ろしてやった。こちらを見て怯えている香織に、安心させるような笑みを送る。
「このこと、ハゲには黙っとき。今日のデートは中止や」 
 月天がそう親だやかに告げると、香織は黙って小さく頷いた。
 茜の死体を厚手の毛布に包んだ二人は、居間へと戻った。香織はすぐさま朝食の支度に取り掛かった。兄の変わりにデートに呼ばれた月天への、せめてものはからいだ。
 台所に立つ香織の目は泣きそうに潤んでいた。月天は黙って香織を見、無造作にテレビの電源を入れた。
 男性アナウンサーは激しい剣幕で緊急のニュースを読み上げていた。
「異常な光景といえば、いいのでしょうか、百人近い武装集団が街をめちゃくちゃに破壊しています。人々の逃げ惑う声がそこら中に溢れています。一体何がどうしてこんなことに」
 現実を受け入れられないといった様子だ。現場はこの街のものなら大抵知っている商店街の傍だった。凶悪な風貌の男達が銃を乱射している。ただの寄せ集めの集団にしては見事な手際だ。訓練された本職の殺し屋だろう。
「これも、昨日話した音羽木葉の仕業ですか」
「まず間違いないやろ。木葉が仕切ってる殺し屋の集まりやろうな。うちを呼ぶためとはいえ、念の入ったことをしてきたもんや」
 月天は険しい顔付きで言った。朝食を作り終えた香織は悲しげに顔を歪ませる。
「木葉はお兄も殺す気なんでしょうか。茜さんを殺したみたいに」
 そっと不安そうに香織は両手を重ねた。兄の無事を天に祈るように。
「近付けば殺されるかもしれん。でも木葉はうちを呼ぶためにハゲをダシに使っただけやと思う。生かしておく理由もないけど、殺す理由も特にないと思う。ハゲと二人で遠くへ離れたら大丈夫やと思うで」
 あくまで月天の予測に過ぎなかったが、香織は少し安心したようだった。
「どの道この状況では、ここを避難することになるでしょうね。月天さんはどうする積もりなんですか」
 月天は指を振って冷めそうな朝食を持ってくるよう催促し、「勿論、うちは木葉に会いにいく。殺し合いをしにな」と言った。
「そんな、無茶ですよ。厚かましいかもしれないけど、まだ出会ったばかりの私が言うのはおかしいかもしれないけど、月天さん一人じゃどうしようもないですよ。一緒に逃げましょう、わざわざ命を危険に晒さないで下さい」
 目玉焼きとコーヒーをテーブルに置いて、香織はそう言い放った。強引に説き伏せようと、強張った顔をしている。
「生憎やけど、それはできん。香織さんがハゲを想っているように、うちにも大好きな人がおる。もしうちが逃げたらその人は確実に殺される。だからうちは木葉と会って、殺しあわなあかん」
「明日香さんのことを言ってるんですか。それでも逃げていればいつか木葉は諦めるかもしれないじゃないですか。音羽木葉だって永遠に追いかけてくるとは限らないでしょ」
 説得を諦めない香織に、月天は朝食を胃に収めながら不気味に笑ってみせた。
「悪いけど、それはできへん。うちにとってあいつの存在は邪魔なんや。明日香さんとの楽しい生活を邪魔するあいつが憎くてしかたない。逃げるなんて許されへん」
 あっという間に朝食を平らげて、月天はげっぷを洩らした。
「それに、あいつをここまで増長させたのはうちのせいや。あいつはうちの手で殺さなあかん。こればっかりは譲られへん、例え明日香さんに止めろと言われてもな」
 言った瞬間、香織と同じように説得を試みた昨日の明日香が脳裏を過ぎった。月天は最愛の者の言葉よりも、内なる殺戮への高ぶりに忠実だった。
 月天の決意の程を知った香織の口から次の言葉は出なかった。不毛な感情をぶつけ合う殺し合いはもはや止められない。香織はしょげ返って頭を下げた。
「でも、ありがとう心配してくれて。うち、明日香さんの次に香織さんのこと好きになったわ。うちのためにもハゲと一緒に生き延びてな」
 月天は立ち上がり、香織の肩を軽く叩いて玄関の方に向かった。
 香織は慌てて玄関先に走った。すぐにドアを開けて外を見たが、月天の足が異常に速くて姿は見えなかった。
「いってらっしゃいって、言いたかったのに。せめて、おかえりは言わせて下さいね月天さん」
 香織はそう小さく呟くと、平手で顔を強く張って、弱気な自分に渇を入れた。
「お兄、朝だよ。早く御飯食べて出かける支度しな」
 隣家まで響き渡る香織の声が貝塚家に帰ってきた。兄の貝塚剛はそれでも目を覚まさず、香織に叩き起こされるまで本日予定されていた甘いデートの夢を見ていた。
 彼の夢の中には、街を破壊する不条理な悪は存在しえない。いつもの平穏な日常がそこにあった。
 
 二
 
 商店街から始まった破壊活動は、ものの数時間で綺麗な街並みを廃墟に変えた。
 殺人集団は快楽に喘ぎ、躊躇いなく射出される銃弾は肉の塊を増やし続ける。銃から立ち込める硝煙と血の臭いは充満していき、今では数キロ先の駅前にまで及んでいた。
 月天はひたすら悲鳴が大きく聞こえる方向に駆けていた。至る所から立ち込める血の臭いは何処か懐かしく、月天を幼少の頃に返らせる。
 日本に初めて訪れた時、月天は血だまりの飛行機の中で一人、陽気に笑っていた。傍にいた父の死骸に寄り添い、動かなくなった父の右手を持ち上げて、自分の頭を撫でさせた。
 血に塗れた父の手の温もりは、月天を心から安心させた。生命は無くとも、愛情は確かに感じられた。家族以外の人間と接触をもたなかった月天には、父は彼女の全てであり、尊敬する最愛の人だった。父以外の人間の価値を知らなかった。
 そのせいか、父が構築したあの日の光景と重なるこの景色は、月天を戦いの緊張から開放させ、不用意なほどに落ち着かせた。
 殺人集団は意図して、肉塊を踏み分けて駆けていく月天を目撃しても無視していた。まるで月天の存在そのものが見えていないかのように、別の目標物に目を移しては、破壊に取り掛かる。
 簡単に街中を縫った月天は、駅前の広場に辿り着いた。あえて生き残された噴水の向こう側に、集団の長であろう蛙を認めている。くっきりとした大きい瞳に、頭頂部で束ねた黒髪を靡かせ、腰に二本の小太刀を差した可愛いらしい少女の姿をしていた。
 蛙は噴水の縁に腰掛けて、花びらを千切って恋占いをしていた。一枚千切るごとに呟いている。
「愛してくれる、愛してくれない、愛してくれる、愛してくれない、愛してくれる、愛してくれない」
 蛙の目は血走って真剣だった。また「愛してくれる」と呟き、最後の一枚に指を伸ばした瞬間、噴水の水流を身に浴びて現れた月天が背後から手刀を放った。
「愛してくれない」
 月天の手刀は蛙の後頭部から喉元を過ぎて、花の茎を削いだ。千切られた最後の花びらは宙に舞い、地面に落ちる。蛙はその間に空中を一回転して正面に立った。
「やっぱり、愛してくれないんだ」
 蛙は残念そうに俯いた。手刀は完璧に蛙の喉を食い破った筈だが、蛙は無傷だった。人間に復讐を企てる五千人の細胞が霧散して、衝突を回避したのだ。 
「そうや、お前の愛は受け入れん。うちはお前を殺さなあかんのや」
 月天は右の手刀をそのままに、あろうことか、自分の左腕に手刀を突き刺した。
 強靱な筋肉は瞬時に裂かれ、夥しい出血が沸き起こった。引き抜いた手刀は自身の返り血で完全に染まった。臨戦態勢に入った月天を、蛙は哀れむように見ていた。
「どうして、分かってくれないのかな。この世で月天さんのことを理解してあげられるのは私だけなんだよ。本当は月天さんだって分かってるんでしょ」
 蛙の呼びかけに応じず、月天は血塗れの手刀を拳に変えて、蛙の顔面を殴りにいった。
 だが蛙は瞬く間に眼前から消え失せ、いつの間にか月天の背後へと回っていた。無防備になった月天の脇腹に、腰から引き抜いた小太刀の刀身が突き刺さる。
「私が血を嫌ってること、茜ちゃんから聞いたんですね。私のことは信用してくれないのに、どうしてなのかな」
 蛙は疑問を投げ掛けて小太刀を引き抜いた。月天は苦悶の表情を浮べながらも、高く跳躍して逃げた。開いた脇腹の傷口に手を突き入れ、皮膚を捲って強引に開く。大きく覗いたその傷口から多量の血が溢れ、空から鮮血の雨が降り注いだ。 
「お前のことが嫌いやからや」
 逃げもしない蛙に鮮血は降り掛かり、蛙の全身は血に覆い尽くされた。前日に聞いた蛙が血液を拒絶するという呈の良い茜の話を、月天は全面的に信頼していたわけではない。だが吊るされた茜の死体を見ている内に、月天の中で不思議な怒りが湧いてきた。
 それは最愛の父と死別し、新たな親代わりの明日香を守るためだけに人生を費やした月天に芽生えた新たな感情だった。仲間を守りたい、そして幸福になって欲しいと願う人間らしい感情。
 その感情に忠実になった月天の、渾身の拳が空から蛙を捉えた。蛙は咄嗟に避けようとするが、反応が遅れて左耳を削ぎ落とされた。本来ならば細胞が霧散して貫通する筈である。しかし血液の効果があったのか。
 蛙は削がれた耳を押さえて、茜を殺された怒りに燃える月天の瞳を見つめた。茜への信頼と怒りの正体を察して、嬉しそうに唇を広げる。
「立派だよ月天さん。人を殺して生きてきたあなたが、下らない人間の死に感化されて私に戦いを挑むなんて。そういうところ、惹かれちゃうなあ」
 蛙には微塵の焦りも感じられない。殺意の欠片も見せずに、恋する乙女の眼で月天を見つめ続ける。
 当然、月天はその隙を見逃す真似はしなかった。自慢の脚力で一気に距離を詰め、蛙の胸部に手刀を突き入れた。
「でも、間違ってるよ月天さん。人を信頼するそれ自体は素晴らしいことだけれど、信用に足る人間は殆どいないんだよ。あの下らない人間のいうことなんて、信じちゃ駄目だよ」
 間近に迫った月天の髪を蛙は撫でた。手刀は蛙の背中を貫通していたが、胸部の穴は霧状に渦巻いて直撃を避けていた。本来は血の効果で肉を切り裂くはずがなぜ。驚愕に顔を凍りつかせる月天は、地面を蹴り上げ後方に跳ね退いた。離れた駅のホームの屋根に飛び移って、一旦戦況を窺う。
「大丈夫、私が月天さんを殺すことはないから。こうなった理由もちゃんと教えてあげますよ」
 蛙はにこりと笑い、無知な月天にも理解できるよう解説を始めた。
「ほんとは、正解なんです。昔、辛いことがありまして、血を見ることすらトラウマになってたんです。そのせいか、血を浴びると私の全身が、いえ私と体を共有する細胞の皆が怖がって、錯乱状態に陥ってしまうんです。そのせいで、反応が急激に鈍くなる」
 蛙は言いながら、月天に削がれた右耳を拾い上げた。
「だからこれまで血は苦手でした。返り血を避けることを優先して、間合いの長い大きな鎌を使ってました。でも月天さんの背中を見ている内に、私も強くなろうと思いました。血を浴びても平気なように、努力したんです」
 蛙は右耳を元の位置に沿えて手を離した。耳から滴り落ちていた血が瞬時に霧散していき、切れた右耳と結合して、皮膚と右耳とを繋ぎ合わせた。右耳が癒着する様子を遠目に確認する月天に焦りの色が浮かぶ。
「私は人殺しの宿命を背負った月天さんの、健気に生きる姿に憧れました。殺人者として育てられながら、好きな人のために戦う月天さんが本当に羨ましかった。私はただ、音羽木葉という死神になって、人間に復讐することしかできなかったのに」
 蛙は小太刀を腰に差して、全身の細胞を霧散させた。肉眼では判別できない粒子状の細胞は、挙動不審に気配を探ろうとする月天の前方へ集まってくる。再び姿を現した蛙の体は、血が拭い落とされて対峙した当初の状態に戻っていた。
「ありがとう月天さん。おかげで私、復讐よりもっと素晴らしい夢を持てました。この世の人間を全て抹殺し、私と月天さんの二人で新しい世界を造るんです。そして、争いのないよう二人で世界を管理するんです。私と同じ境遇で育った月天さんなら、この世界の醜さが分かって頂けますよね。私はそれを正すことにしたんです」
 蛙はきらきらと目を輝かせて夢を語っていた。驚き留まっていた月天は次第に落ち着きを取り戻し、蛙の純粋な眼を確認した後で、切なげに首を振った。
「えげつないなお前。今更やで、そんなこというても」
 蛙は月天の言葉の真意が分からずきょとんとした。
「どうしてですか。確かに強引なやり方ではありますが、この世界を変えるためには」
「そうやない。うちらみたいなもんが、世界を変えるなんておこがましいと言ってるんや」
 月天は蛙の言葉を遮って語気を荒げた。蛙は当惑した表情になって、押し黙ってしまった。
「そらお前の過去に何があったかは知らんよ。多分、ひどかったんやろうな、うちだってろくな人生やなかった。けどな、所詮うちらは人殺しなんや。いくら理不尽な目に遭ってきても、世界を正すなんて言葉吐く資格はないんや」
 蛙は当惑したまま、月天の話を理解できずにいた。
 月天は溜息を付き、「それにな、お前自分のことしか考えてないやろ。お前ほどの力があれば一人で夢は実現できるもんな。ただ、好きな人と一緒になりたいから、他の邪魔な奴を皆殺しにしたい。そんな我侭言うてるようにしか聞こえへんで」と続けた。
「その通りですよ。私はただのエゴイストです。でも月天さんだってそうじゃないですか。私は月天さんだけが好きだから、他の人間に消えて欲しい。それの何処が間違っているんですか」
 蛙の表情は一変して強張った。嘘偽りのない真っ直ぐな瞳をそのままにして。
「間違ってないかもしれん。何が正しいかはうちもようわからん。でもうちは明日香さんを守るために、お前を殺すことになる。お前の夢には付き合われへん」
 初めからわかっていたことだが、月天は蛙より先に明日香と出会い、強い絆で結ばれている。改めて現実に立ちはだかる障害の大きさに躓いた蛙は、情けなく顔を崩して泣きそうになった。それでも健気に手を伸ばして月天に同意を求めようとする。
「そんな、私の傍にいてよ。あなたとならきっと、辛いことも悲しいことも皆忘れて、楽しい生活が送れそうな気がするの。だから、だから」
「しつこいで、最初からうちとお前は戦う運命やったんや」
 月天は殺気を放って蛙の手を振り払った。打ち砕かれる純真な心に蛙は涙する。しかしそれでも熱烈な告白を止めようとはしない。
「やだ、そんなの、やだよ。お願い、私と一緒にいて。寂しいの、もう一人じゃ生きていけそうにないの。あなたがいないと、私は駄目になっちゃう。もう音羽木葉に戻りたくないの」
「あかんというとるやろが」
 月天も徹底して蛙を拒んではいるが、その声はか細く、後ろめたい悲しみに翳った顔をしていた。
 蛙は変わりつつある月天の心境の変化に気付かなかったようだ。頭の中でグルグルと月天に好意を抱かさせるための手立てを模索しているが、何一つ良案は浮かんで来ない。蛙には人間と友好な関係を築いた過去が存在しない。
「私、何もわからない。月天さん、お願い、たすけて」
 遂に蛙は両手で顔を押さえて号泣し始めた。グルグルと空回りする思惑に疲れ果て、すっかり途方に暮れていた。この深い絶望から這い上がるためには、どうしても月天の助けが必要だった。蛙もそれを待ち望んでいた。
 しかし月天は、沈黙を守り、蛙の姿を正視できずに目を背けていた。月天自身もまた、人の愛に飢えてもがき苦しんでいた時期があった。若しも立場が逆なら、今の蛙のような状況に自分も陥っていたかもしれない。
 月天と蛙は紙一重の差で互いの立場にわかれた。月天はそれを十二分に理解し、蛙に哀れみすら覚えていたが、救いの手を伸ばすことは決して許されなかった。
 辺りは相変わらず血に飢えた殺人者の喘ぎと、狩られる被害者の声で満たされていた。銃弾が無邪気に飛び交い、蛙と月天の間近を掠めては消えていく。号泣する蛙の泣き声はその喧噪に混じって見事に溶け込んでいた。被害者の悲鳴と蛙の泣き声はなんら変わらぬ同一の、人間のものだった。
「蛙、もうええやろ。お前は運が悪かったんや」
 月天はいつまでも泣き止まない蛙の腕を掴んで無理やり立たせた。その瞬間、蛙の目から涙が引いていき、代わりに邪悪な意思が宿った。
「運が悪い、違うよ月天さん。悪いのはこの世界だよ。両親が私を殺したのも、月天さんが私と一緒になってくれないのも、全部この世界が悪いんだ。この世界は私から何もかも奪っていじわるばっかりするんだ。どうして、私がこんな目に遭わなきゃいけないんだろうね月天さん、あは、あははははは」
 月天は蛙の豹変ぶりに驚いて身を引いた。先ほどまで大人しかった蛙の瞳は充血して深紅に染まり、愛しの月天さえ殺しかねない極大の殺意を放っていた。
「あは、あはははは。そうさ、どうせ私はエゴイストだ。こんな世界、今から人間の血で覆い尽くしてやろう。私にはその力があるんだった。あは、あはははははは」
 冷徹な殺人者の乾いた笑いが響き渡る。それは何処か泣いてるようにも聞こえた。
「蛙、それがお前の答えなんか」
 月天は悲しげに顔を歪めて蛙に尋ねた。破壊衝動に陥ったもう一人の自分に問いかけるように。
「殺してやる、人間は全て殺してやるよ。あは、あははははは」
 蛙は月天の声を聞き入れずに笑い続けた。全身の五千人の細胞は、蛙の憎しみに呼応して活発に活動していた。蛙の全身から湯気が立ち昇っている。細胞を霧散させて別の場所に移動しようとしているのだ。
「もうやめろ、お前は一生救われへん、いくら人殺しても何もかわらんぞ」
 月天が再び訴えた直後、眼前の蛙は霧状に消えて駅前周辺を飛び回った。  
 小太刀で人の頭を叩き削る不快な音が断続的に響く。音が聞こえる方向から人間の血肉が飛散して、陰気なコンクリートの街並みを血で赤く染めていった。悲鳴を挙げる暇さえ許されなかった殺し屋集団の死に様は、同じ人間とは思えないほど原形を破壊されて醜悪な肉の塊と化していた。
「あは、あはははははは。私は人殺し、人を殺して、生きてるのお、あはははは」
 月天は血肉の飛散する方向に目を配らせるだけで精一杯だった。それほど蛙の殺戮は常軌を脱した素早さだった。
 やがて駅前の人間を全て殺し終えたのか、血肉の飛散は駅前から遠のいていき、別の場所へと進行していった。月天もそれに気付いて殺戮の後を追いかける。
 蛙が進む道のりは、紛れもなく月天が元きた道だ。このまま道なりに進めば貝塚家に辿り着くだろう。
 蛙の後を猛追する月天は、迫りくる嫌な予感に胸の高鳴りを禁じ得なかった。
 
 三
 
 蛙の凶刃が迫ってきた頃、香織とその兄、貝塚剛は二人きりの逃避行の最中だった。
 両隣に軒を連ねる民家の壁に挟まれた、遥か水平線に川原の堤防が覗ける路地を進んでいた。数時間前までは避難民であぶれたこの路地だが、今は人気もなく、川のせせらぎが澄み良く聞こえる平穏な空気が流れていた。
 避難に必要な荷物を背負った香織は、貝塚の手を繋いで前に進んでいた。自分の足で歩こうとしない貝塚を引き摺るように。すっぴんの可愛らしい香織の顔立ちには、焦りと夏の陽気で汗が滲んでいた。
 辺りの人気が消えたのは、家を出るのが遅かったせいだ。それは貝塚がデートをしたいと駄々を捏ねて説得に時間を要したせいなのだが、香織自身にも責任があった。
 香織は避難を決心するまで、この場所に留まろうと考えていたのだ。一時は、月天の意志を汲み取り、生き延びようと心に誓った香織であったが、彼女の清らかな良心が月天を待った方がいいのかもしれないと囁いた。
 月天だけを危険に晒しておいて、このままおめおめ避難することが許されるのか、と。
 香織は後ろを振り返って、子供のように甘える貝塚に微笑みかけた。香織の迷いを断ち切ってくれたのは、他でもない兄の貝塚剛だった。
 彼女は、香織は、貝塚のことを心から愛していた。両親を失い、風俗で身を売って生計を立てる以前から、香織は貝塚に初恋を覚えていた。自堕落でどうしようもない駄目な人間だったが、貝塚の生き方に何処か惹かれたのだろう。二人きりの生活に入ってからの毎日は、香織の恋心を徐々に膨らませ、単なる兄妹への親愛だけではなく、一人の男性として意識する禁断の愛情をも抱いていた。
 今の香織は貝塚のためなら手段を選ばない女性と化していた。例え世界中の人間が木葉に惨殺されようとも、貝塚だけは守り抜く覚悟を決めていた。
 しかし殺人者と化した蛙には、兄を真摯に想う彼女の気持ちなど、これっぽちも考えていない。そんなことは、考える必要もない。通り道に肉の塊が歩いているという程度の認識だ。
 この時、蛙はすでに、香織の傍まで迫っていたのだ。兄と一緒に逃げることしか頭にない一般人の香織には到底気付くはずもない粒子状の姿で。
 ふと、香織は汗だくの顔を上げた。真っ直ぐな道のりの先を何気なく確かめる風に。
 香織の目の端に、路肩のミラーが見えた。ミラーから照り付ける強い光が、線上に延びて香織の目を一瞬、閉ざした。
 眩い目を開けた次の瞬間、香織はミラーが赤く染まっているのを見て、あっ、と声を洩らした。考えるより先に優れた第六感が状況を察して、背筋が凍り付いた。これまで感じたことない恐怖がはっきりと自覚できる。自分が、最愛の兄が殺されることへの恐怖。香織の背後から、人間の血が飛び散る不快な音が断続的に聞こえてくる。
 香織は立ち止まり、息を呑んだ。もう完全に状況を把握できている。ミラーの赤い血が現実を克明に示している。だが香織は後ろを振り返ることができない。もし後ろを振り返ってしまったら、自分は正常ではいられなくなり、これからの生きていく希望を全て失ってしまうことがわかってしまったから。
「いやあああああああああ」
 突然、香織は声を限りに叫んだ。男性的な悲鳴が耳に聞こえてきたのがわかった途端、全身が声帯となって口から悲鳴が飛び出した。どんな男性が悲鳴を上げているのかなんて知りたくはない。香織には貝塚さえ無事でいてくれればそれでいい。では、なぜ香織はその後も、背中に生温かい血肉を浴びた時も、握っていた兄の手が自分の手から離れた時も、悲鳴を上げ続けていたのだろうか。本当は、全てを理解しているのだけど、その現実は現実ではあって欲しくないから
 悲鳴を辞さない香織にやがて、背後の殺人者が悪戯っぽく声を掛けた。「どうして後ろを見ない。お前の兄がぐちゃぐちゃになって死んでいるのに」
 香織の顔は悲痛に歪み、大粒の涙が目に浮かんだ。そして兄の姿が変形しているなら正視することができるだろうかと、一瞬頭の中で思ったが、香織はそれでも決して後ろを振り返らず、無意識に全身を脱力させた。
 香織は意識を失ってその場に崩れ落ちた。地に伏せる直前に、殺人者を野放しにした月天に裏切られたような気分になったが、すぐに苦笑いして自分の甘さを責めた。月天さん一人じゃ無理だと言ったのは私自身だ。
 現実はその通り厳しく、何処までも無情だった。倒れた香織の背後には顔の原形が崩壊した無惨な貝塚の死骸と、殺人の愉悦に大声で笑い狂う、哀れな殺人者の姿があった。
 
 
 四
 
 蛙を追っている緊迫した状況の最中、余計なことを考えている場合ではないのかもしれない。だが今の月天は、どうしても深く考えを巡らせていた。
 善と悪について。この世の倫理観について。人を殺す行いについて。それらを順番に考えては納得いく答えも見つからず、月天は足を速めながら苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
 蛙自身が月天に望んだ通り、恐らく月天はこの世でただ一人の蛙の理解者である。 
 大好きな人に拒まれて、暴走して、大勢の無関係な人間を巻き込みたい気持ちが月天には十分わかる。月天には蛙の行為を否定することはできない。もし蛙の行いを否定するなら、これまでの自分の人生をも否定することに繋がってしまう。
 このまま蛙を殺めたとしても、きっと後悔してしまうような気がする。己の欲望に身を任せる冷酷な殺人鬼ならそれでいいのかもしれないが、今の月天には他人のことを考えるだけの器量が備わっている。蛙を哀れな暴走に導いた罪悪感を受けて、出来れば蛙が納得する形で殺人を終えることができれば最良だと思っている。偽善めいた生易しい考えに過ぎなくても、その案は月天の頭を支配して離さない。本当は明日香の命を第一に優先させるべきなのだろうが。
 もう日はとっぷり暮れて、民家が軒を連ねる通りには死体がそこら中に転がっていた。逃げ遅れた避難民であろうが、皆一様に顔を刃物で切り裂かれておぞましい容貌に変わっていた。もし死体の中に顔見知りの人間がいたとしても、注意深く鑑定しなければ見過ごしてしまうかもしれない。
 月天は駆けながら辺りを見渡して香織と貝塚を探していた。貝塚の家は既に通り過ぎたが、相変わらず嫌な予感は増幅していき、月天は二人の捜索を怠らない。
 通りには、相変わらず大勢の断末魔が響き渡り、月天の鼓膜を痺れさせる。全力で追いかけているにも拘らず、蛙との距離は少しも縮まない。むしろ開いていく一方だ。
 他人への心配事と焦りのせいで、月天の体力もかなり消耗している。今の月天では本来の実力を十分に発揮することはできないだろう。それでも足を止めるわけには行かず、月天は息を乱しながら蛙の後を追い続ける。
 月天はふと、粒子状になった蛙は疲労を感じないのだろうかと考える。殺人の実力では蛙に劣るものの、体力面では蛙に負けない自信があった。その月天を疲労困憊にさせるまで動き続ける蛙には改めて脅威を抱く。持久戦に持ち込む覚悟もしていたが、これだけ能力の差を見せ付けられると、僅かに残った精神的な支柱さえも失ってしまいそうだ。
 そんなことを考えている内に、やがて郷里から随分離れた小さな町までやってきた。大きな山が聳え立つ田舎の景観に、悲鳴を上げながら公民館へと避難する住民が窺える。この辺りの住民は蛙に殺されてはいないようだ。先ほどから聞こえていた断末魔もいつの間にか小さくなっている。
 ようやく暴走の終わりが見え始め、月天は安堵の溜息を洩らす。だがすぐに表情を強張らせて咄嗟に足を止めた。山に延びる曲がりくねった坂道の途中に、香織が月天に微笑みかけていた。
「香織さん」
 月天は息を整えながら大声で名を叫んだ。香織は笑顔で手を振り返し、注意深く足元を確認しもって坂を下りてきた。
「こんな遠くまできてくれたんだ。嬉しいよ月天さん」
 香織は陽気な声でそう言ったが、月天の顔は険しくなった。再会の喜びに浸る場面の筈が、何故か先ほどからの嫌な予感が増幅している。香織は両手を背中に回している。恐らく何かを隠し持っている。
「ハゲは、どうしたんや。香織さんだけか」
 迫ってくる香織を牽制するように月天が言った。香織は月天の疲れ切った顔を眺めながら、うんうん、それはね、と頷き、後ろ手に隠していた物体を月天に明かした。
「邪魔だったから、殺しちゃったの。二人とも」
 香織が持っていたのは、原形が崩れきった貝塚の生首と目の前にいる香織と同じ顔をした女性の生首だった。月天の血の気は一気に引いていき、顔面蒼白になった。
「嘘やろ」
 月天は後ろにたじろぎながら悲痛に顔を歪めた。目の前の香織は月天の悲しげに見つめて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「蛙、お前二人を殺してもうたんか」
 月天は目の前の香織の正体を悟った。蛙は快活な笑顔で頷き、自分の顔に軽く手を触れて本来の蛙の姿に戻った。月天が追いかけて来てくれて本当に嬉しそうだった。
「この二人には前から嫉妬してたんだ。月天さんと仲が良さそうだったから。そのせいかな、この人間を殺した時の快感と言ったらそれはもうたまらなかったよ」
「もうええ、それ以上何も口にするな」
 月天は聞く耳を持たないほど激昂していた。また好きな人を殺されたその怒りは、先ほどまでに見せた蛙への同情心を吹き飛ばした。
 蛙はごくりと息を呑んだ。「ごめんなさい、でも私不器用だから、人のこと何も知らないから、殺すことしかできないんです」
「もうええって。わかってる、全部うちのせいや。うちが最初にお前に出会った時にお前を殺されへんかったから皆死んでもうたんや」
 月天は手を伸ばして蛙の襟首を掴んだ。圧倒的な筋力に自分への怒りが満ちていき、蛙の体は呆気なく宙に浮かんだ。
「苦しいよ。やめて月天さん。私、月天さんのこと諦められないの。まだ死にたくないの」
 この状況から逃げることは容易かったろう。しかし蛙はあえて逃げることを選択しない。月天が好きな人を守るために戦っているように、蛙もまた好きな人を得るための戦いから降りる気は毛頭ない。
「喋るな、うちがお前を殺して全部終わりや」
 月天はこの不毛な争いに終止符を打つべく、宙吊りになった蛙の腹部に拳を突き入れた。悶絶する蛙の呻き声と供に小柄な体が折れ曲がった。細胞を粒子状に変えて避けない限りは、物理的な攻撃が通用するのだ。
「月天さんは、そんなに私が苦しむ姿が見たいの。私、もう疲れたよ。今まで散々辛い目に遭ったよ。親にも裏切られて、粉末みたいにされて、何一ついいことなんてなかったよ。ねえ、わかるでしょ月天さん」
 蛙は息も絶え絶えにしながら求愛を諦めない。月天の手が襟首に深く捩れ込み、気管を圧迫して呼吸を困難にしている。全身が痙攣して満足に体を動かすこともできない。月天は苦痛に喘ぐそんな惨めな蛙を悲痛な顔付きで見ている。好きな人を殺されて爆発した怒りが早くも引き始めている。蛙が自分と同じ境遇の人間であるというただそれだけの同情心が月天の判断を鈍らせる。
 だが攻撃の手だけは決して緩めない。今こそ蛙を確実に仕留める千載―遇の好機なのだ。怒りで体力的にも充実している今をみすみすと逃がすわけにいかない。
 骨と内臓が砕ける感触、拳の鈍い衝撃に耐えかねて上がる蛙の悲鳴、月天が見慣れたいつもの光景だ。だが今日に限ってそれは、月天を不快のどん底に陥れる。なぜいつもと違うのかはもうわかっている。この好機を迎えてもなお、月天の本心は蛙を殺したくないのだ。例えどんなに怒りに打ち震えていようとも、蛙を殺すことは自分を殺すのも同じなのだ。
「付き纏われるのは、もう迷惑や。うちじゃなくても、ええ人おるやろ」
 月天の怒りが完全に萎んだ。月天の拳は勢いを失くし、蛙の腹に食い込む直前で静止した。その瞬間、生と死の境界線を彷徨っていた蛙の虚ろな瞳に生気が宿った。蛙の中に強大な生への執心が芽生えてくる。難攻不落だった月天の気持ちを変えられるかもしれない。蛙は希望を持って粒子状に体を霧散させた。
「いえ、私には月天さんしか、月天さんしかいないんです」
 蛙は損傷した肉体を再生させて月天に告白した。月天の目を真摯に見つめながら。
 だがその告白も、精魂尽き果てた月天には無意味な念仏に過ぎない。月天は自分が攻撃を止めた時点で終わりを予感した。もう打つ手は何も残されていない。二度と蛙を殺せる機会は訪れない。例え殺す覚悟を万全に整えたとしても、生きる希望を抱いた蛙に攻撃を当てることはできない。
「月天さんには迷惑掛けて、本当に私のエゴを押し付ける形になって申し訳ないと思います。でも私はこの世で月天さんしか信じられないんです。愛しているんです。他の人は信じられない。だから、二人だけでずっといたい」
 熱心に思いを打ち明ける蛙を、月天は上の空で見ていた。攻撃を止めた瞬間、人生を賭けて貫いてきた明日香との約束を破ったことになったのだ。その罪悪感に苛まれて、現実を遠くに切り離し、生きていることすら億劫な気分になった。
「時間はかかるかもしれないけれど、少しずつお互いの距離を縮めていきましょう。私達は同じ種類の人間です。きっといつか分かり合えるはずです」
 蛙は魂の抜けた人形と化した月天に言った。一方的で傲慢な求愛ではあったが、今の月天に反抗する力は残っていない。実力で蛙に劣り、更に私情を挟んで絶好の機会を逃がした愚か者だ。そもそも明日香との約束を無下に扱った時点で月天は負けていたのだ。歴然たる敗北を喫した月天には、反抗する資格すら奪われていた。
 蛙は慰めるように月天の髪を撫でながら、「今からもう一人の邪魔者を殺してきます。いいですね、月天さん」と告げた。
 途端に月天は怯え切った情けない表情になった。恐る恐る何とか蛙の顔を見上げるが、それ以上の言葉を発することはできなかった。蛙は哀れな月天をしばらく抱き締めてあげた。
「これから二人で生きるためには仕方ないんです。あなたを悲しませるのはこれで最後にします。だからお願いです、どうか耐えて下さい」
 蛙はそう言い残して体を霧散させた。蛙の腕から解き放たれた月天は無気力に倒れ込んだ。思考が全てからの逃避を行い、現状を忘れそうになってしまう。それでも蛙に敗北したことは、生涯忘れられない記憶して残っている。月天は悔しさに涙を滲ませて、誰ともなく呟く。
「ごめんな明日香さん。うちってやっぱり、最低な人間やわ」
 絶望した月天の嘆きは、逃げ惑う民衆の悲鳴に押し流されて儚く消える。
 
 五
 
 あれから数日の時が経った。もむけの殻となった月天は、廃墟と化した雑居ビルの一室で、行儀良く主人の帰りを待っていた。
 今頃はもうとっくに明日香を始末し終えたのだろうか、蛙は随分とのんびり月天を待たせている。
 月天は日に数回、窓から外を覗いて世間の情勢を眺めることが日課になっていた。人間の死体が散見される変わり映えのない光景ではあるが、美しい鳥のさえずりと、窓枠一杯に彩られた緑の山々は月天を落ち着かせてくれた。こんな状況でなければ静養には最適な町なのだろう。
 できれば明日香と一緒にこの景色を見たかった。生き残された月天の後悔の念は募るばかりだ。若干の心の余裕が生まれる度に、明日香のことが頭を過ぎり、悲痛な顔付きになってしまう。
 月天にとって、長年連れ添ってきた明日香の存在は、余りにも巨大だったようだ。それを今更思い知らされて後悔する自分への怒りも禁じ得なかった。結局最後には、約束より自分の我侭を優先させて蛙に立ち向かえなかったのだ。後悔すること自体が身の程を弁えぬ愚かな行為なのだ。深まる自己嫌悪は自分という人間そのものを憎悪の対象とし、月天は投げ遣り気味に死を望んでいた。
 主人が帰ってきたら、月天は今の自分の気持ちを迷わず伝えようと考えていた。今心から望んでいる自分の死を。
 退屈そうに慢性的な欠伸を洩らした後、月天は壁に背に預けて目を閉じた。次に目を開けた時に主人が帰って来ていることを期待して。    
 その願いが叶ったのか、すっかり夜の静寂に覆われた頃、眠たげな目を擦る月天の視界に蛙の姿が飛び込んできた。
 蛙は目覚めた月天を認めると、溢れんばかりの笑顔を弾かせた。
「おはよう月天さん、よく寝てたみたいですね」
 月天は複雑な表情を浮かべて、おはようと返した。蛙は嬉しくなって月天の背中に腕を回し、しばし再会の喜びに浸っていた。
「お待たしてごめんなさい。ちょっと手間取っちゃいました」
 妙にへりくだった蛙の態度に月天は顔をしかめた。常人に過ぎない明日香の何処に梃子摺る要素があったというのか。
「明日香さんを、殺してきたんか」
 月天は真っ直ぐ蛙を見据えて問い質した。蛙は不気味に輝き出した月天の目に疑問を覚えながらも、頷いてみせた。
「はい、深町明日香が紀伊半島を南下中のところを偶然発見し、小太刀で頚動脈を断ち切り、死に至らしめました」
「そうか、明日香さんはそんなところに逃げとったか。そりゃ探すのも大変やったろう」
「ええ、まあ」
 月天のあっけからんとした口振りがそうさせるのか、親友を殺した話をしているのにも拘らず、この場には緊張感が全くなかった。蛙も月天の意外な反応に当惑してる様子だった。まさか苦痛に耐えかねて精神が崩壊したのだろうか。
「明日香さんはどんな苦しみ方をしとった。その時の様子を詳しく聞かせてくれへんか」聞いた月天の目にはすっかり生気が戻っていた。
「どうしてそんなこと聞きたいんですか」
「うちの大好きな人のことやからな。聞いておきたいんや」
 好きな人の最期を知りたいものなのだろうか、蛙には月天の真意が読めない。しかし月天たっての頼みとあれば断れず、蛙は思い出すような素振りを見せて事の顛末を語り始める。
「明日香は数人の護衛を雇って、犯人の搬送に使われる大型の装甲車に乗っていました。これは後で明日香に聞いた話ですが、和歌山からタンカーに乗って南の島に行く予定だったそうです。私は装甲車を横転させて、護衛を取り除くと、すぐに車内で倒れている明日香に詰め寄りました。横転の衝撃で顔に大あざを作っていましたが、その時はまだ生きていました。私は明日香を車外に連れ出し、せめてもの情けで思い残すことを話して言いといいました」
 月天は、丁寧に正座して蛙の話を聞いている。紙芝居を聞かされている純真な子供のような目で、じっと蛙の顔を捉えて離さない。
「明日香は私に、やっぱり月天さんは私を殺せなかったかと言いました。そして不敵に笑ってみせると、淡々と今後の予定を語りだしたんです。私は聞いてもいなかったのに」
「やっぱりうちがお前を殺すことなんて全く信じてなかったんやな明日香さん。せやけど、ちょっと安心したわ」
 月天が安心した理由はわからなかったが、蛙は続けた。
「明日香はその島にしばらく滞在して、私の動向を見る積もりだったそうです。私は月天さんを放って行く積もりだったのかと尋ねると、明日香は冷たく、あの子はもう死んだんでしょって言いました」
 月天に気を利かせて、最後の部分は蛙の口調も弱くなっていた。
 裏切りとも取れる明日香の痛烈な言葉に月天は物怖じしていなかった。むしろ嬉しそうに手を叩いて微笑んでいた。
「そんで、むかついたから殺したんか」
 嫌に落ち着いた質問の仕方だった。蛙は異質な月天の雰囲気に恐怖すら感じ始めていた。どうしてこうも冷静に親友の死を受け入れることができるんだろう、最愛の人ではなかったのか。
「はい、一応その前に月天さんに伝えたいことを聞いておきました」
「だから死んでるんでしょ。何もないわよってところかな」
 間髪入れず、月天は迷わず明日香の台詞を予想して答えた。
「よく分かりましたね」
 蛙はその的確な答えに驚いて目を剥いた。実際にも蛙の記憶でも同様の台詞を述べていたのである。
「長い付き合いやから、あの人の言いそうなことは大体わかる。切り替えも早いし、自分のことを何より重視できる人や、うちを切り捨てたんも当然やろ。ま、そこは人間やからうちも同じやったんやろうな」
「月天さんも、明日香を切り捨てていたということですか。だから、平気な顔をしていられるんですか」
 本質を見極めようとする蛙の問いに、月天は不思議そうな顔を浮かべた。
「うちが、何で明日香さんを切り捨てなあかんの。いったやろ、好きな人やて。せやからお前ともちゃんと戦ったやないか」
 月天の可笑しな返答に蛙は訳が分からなくなった。先ほどからの月天の態度は、凡そ好きな人に対して取るべき行動とは逸脱している。それとも単に月天が壊れているだけなのか。
「そんなことより、明日香さんはどんな最期を遂げたか、はよかたってえなあ」
 月天は子供っぽく駄々を捏ねて続きを催促した。
「あ、はい。月天さんを軽視する明日香の言動に耐えかねた私はまず、小太刀で明日香の首を刎ね落としました」
 そう言った瞬間、蛙はしまったと思った。月天は蛙の焦ったその顔色の変化を見逃さなかった。
「あれ、お前頚動脈を切って殺したとか言ってなかったっけ、さっきと違うこといっとるやん」
「それは」
 月天の詰問に蛙は言葉を詰まらせた。ろくに目も合わせられず、視線が虚空を彷徨っている。月天は明らかな蛙の嘘を見透かして、溜息を付いた。
「どういうことや、最初から全部嘘やったんか」
「違います、信じて下さい。最後のところは確かに嘘を付きましたが、それまでは本当のことです」
 月天は真偽を判定するため、蛙の瞳を覗き込んだ。
「どうやら、本当みたいやな。せやけど何で最後だけ嘘ついたんや」
「それは、そのですね」
 蛙は答えに窮して再び黙ってしまった。月天に知られるとよほどまずいことのようだ。月天は考えを巡らせて答えを探している内に、ある一つの恐ろしい答えに思い当たった。
「まさかお前、まだ明日香さんを殺してないんか」
月天が言った瞬間、蛙の顔が凍り付いた。
「今、なんて言いました」
 蛙は平静を装ってとぼけた振りをするも、月天はその仕草で確信を深めた。蛙が明日香を殺していないことに。
「なんでや、お前がてこずる相手やないやろ。明日香なんか口先だけで、何の力もあらへん。なんで殺されへんかったんや」
 明日香を殺さなかったことに月天は激しい怒りを覚えたようだ。厳しく叱責するような月天の怒声に蛙はたじろぎ、頭の中が混乱して何を答えていいのか戸惑った。
「なんでって、それは、月天さんが悲しむと思ったから」
 蛙は取り敢えず降参して、問われた質問にそのまま答えた。それを聞いた月天の眉間に深い皺が刻み込まれた。
「うちが、悲しむやと。お前なめとんのか、うちが欲しかったんとちゃうんか。うちが欲しいなら明日香を殺さなあかんやろ。うちを孤独にして追い詰めなあかんやろうが。なんで最後の最後で下手な温情をかけるんや」
 怒りを通り越して呆れた月天は、蛙の行為を嘆いていた。蛙は開いた口が塞がらない様子で静観していた。月天が何で怒っているのか、さっぱり理解できない。
「それの何処が気に食わないんですか。私は月天さんの好きな人間を生かしてあげたんですよ。まさか月天さんは殺して欲しかったとでもいうおつもりですか。あなたが守るべき人なんでしょ。大好きな人なんでしょ」
 蛙は逆上して月天を叱り付けた。好きな人間を侮蔑するような月天の態度は許せなかった。相手が好きな人なら、全身全霊をかけてその身を案じるのが当然のことだ。
 月天は怒りに打ち震える蛙を冷めた目で見ていた。蛙になぜ叱られなければならないのかも理解できなかった。
「お前、本気で人間が好きなんか」
 少しの静寂が流れた後、月天はそう蛙に尋ねた。殺人鬼の本性を剥き出しにした冷酷な目付きをして。
「意味が、わかりません。それに私は月天さんだけが好きだと言ったはずです」
 蛙は当惑しながらも答えた。相変わらず月天の論理は乱れている。狂ってしまったのか、正論を述べているのは私の方ではないのか。
「じゃあお前の好きって一体何や。人と手を繋いで歩くことなんか、一緒に遊んだりする友達のことなんか」
 月天は、蛙にとっての、好きの根源的な意味を聞いているようだった。蛙を素直に頷いて見せた。
「当たり前じゃないですか。他に別の意味でもあるんですか」
 蛙は月天なりの冗談なのかと疑い始めていた。余りにも理解の範疇を超えている。好きな人を愛し敬うこと以外に何が存在するというのか。
 月天は蛙の答えを聞いて考え込んでいた。そして月天は、自分の中にある好きな人間の認識と蛙との根本的なずれに気付いた。
「お前は、うちを好きになってから、うちを殺したいと思ったことないんか」
 一応、月天は自信なさげに尋ねていた。まさか蛙が自分と違う解釈を持っているとは思えなかったから。いや、思いたくなかったから。
 蛙はそんな月天の顔色を窺いながらも素直に答えを述べた。「はい、月天さんを好きになってからは、一度も思ったことありません」
 何の疑念もなく返されたその答えは月天の心を鋭利に切り裂いた。傷付いた月天の目に思わず涙が溢れた。月天は常人には到底理解できない次元の考えで、蛙と自分は全く別の生き物だったことに気付かされたのだ。
「そんな、酷いわ。お前は人が憎くないと殺さへんのか。それじゃあただの人間やないか。正常やないか。殺人鬼やいうからうちと同じやと思ったのに、お前うちと違うやないか」
 月天は裏切られた気持ちで一杯だった。殺人鬼の良き理解者だと思ったから殺人を躊躇ってまでさず生かして置いたのに、ここに存在する自称殺人鬼は只の人間に過ぎない。
「何を言ってるの」
 月天の涙の訴えも、やはり蛙の理解の範疇には遠く及ばなかった。蛙自身も月天という好きな人間を、根本の部分から疑問に思い始めた。
「あなたは、例え好きな人間でも殺せる、いや殺したいと思えるんですか。そんなこと、私にはできませんよ。理解できません。どうして、好きな人を殺さなくちゃいけないんですか」
 蛙が言うと、月天は子供のように大声で泣きじゃくった。本来の素顔を取り戻した月天には、耐えられない言葉だった。ただの人間に気安く話しかけられていること自体、屈辱でもあった。
「だって、うちは、殺人鬼やもん。人を殺すのが好きな異常者やもん。殺したくて殺したくてたまらないから、人を好きになろうとしてるんやないかあ」
 殺人鬼の月天は悲痛にそう訴えた。蛙は頭を混乱させたまま好きな人の本意を悟ろうとする。ゆっくりと時間をかけて、今までの月天の台詞を噛み砕いていく内に、やっと月天という人間の本質が見えてきた。
「まさか、あなたは、今まで一度も人を好きになったことがないんですか」
 蛙の問いに月天は泣きながら頷いた。想像を絶するその答えに蛙は背筋を凍らせた。
「じゃああなたは、人殺しが好きなだけの人なんですか。人を好きになれないから、せめて人を好きになろうとして、許しを得ようとしてたんですか。それじゃあまるで、傲慢で愚かな、ただの殺人鬼と変わらないじゃないですか」
 冗談でも暴走でもなかった。この人は最初から紛れもない本心を私に語りかけてくれていたのだ。蛙は好きな人の気持ちを汲み取れなかった悔しさに涙を流し、全力で月天を軽蔑する目付きになった。
「誤解してた。あなたは自分の運命を呪っていて、人を殺すことに抵抗がある優しい人だと思ってた。それでも健気に生き続けて、人を好きになることができて、人のことを考えるだけの器量ができたのかと思った。でもそれは全部違うんだね。あなたはただの殺人鬼なんだから。私の憧れた月天さんは、初めからいなかったんだね」
 蛙もまた月天に裏切られた気持ちだった。憧れの対象であった好きな人は崩壊していく。両親に殺された蛙にとって、人間を許すことができた月天は偉大で超えられない存在のはずだった。でも気が付けば立場は逆転していて、醜悪な殺人鬼が蛙を恨めしそうに見ている。人間の土俵にすら上がることができない殺人鬼が、人間の蛙に嫉妬している。
「お前にうちの気持ちはわからへん。人を殺したくて殺したくてたまらない殺人鬼の気持ちは、人間のお前には何もわからへんわ」
 月天は吐き捨てるように言った。蛙は負け犬めいたその台詞に呆れ果て、先ほどまで好きな人間だった月天に対して憎悪を抱いた。月天の正体に気付いた瞬間から蛙の脳裏を過ぎっていたのだ。犬畜生にも劣るこの醜悪な殺人鬼を、生かしておいてはならないと。
「殺人鬼のあなたの気持ちなんて、知りたくもないよ」
 蛙の憎悪に呼応して、全身の五千人の細胞が活発に動き始める。可愛らしい少女であった筈の蛙が徐々に変形していく。
 全身が瞬時に黒尽くめの服で覆われる。頭頂部で束ねた黒髪がほどけて、金一色に染まり、腰の方まで伸びていった。二重のぱっちりとした目は西洋の青い虹彩を放ち、可愛らしさは薄れて人形のように精巧な顔立ちになった。手足は異常にすらりと伸び、腰に差した二本の小太刀は変形して合わさり、一本の細長い死神の鎌になった。それは憎むべき両親を抹殺する際に使われた、音羽木葉への変身だった。
「お前には失望したよ。死ね、月天」
 音羽木葉に戻った蛙の無情な死の宣告が突き付けられる。月天は殺す気満々になった木葉を見て、殺人鬼特有の冷酷な笑みを浮かべて見せた。
「はは、お前みたいな正常な人間にうちを殺せるわけないやろ」
 涙はもう枯れていた。邪悪な本性を取り戻した月天は、機先を制して木葉に向かって跳躍した。木葉は目の前に迫ってくる月天に死神の鎌を横殴りに振るった。
 湾曲した鎌の刃は、月天の右脇腹に突き刺さった。だが月天は笑みを張り付かせたまま木葉の前顎を蹴り上げた。当たり前のように木葉の細胞は霧散し、月天の蹴りは肉体を貫通して天井の壁を破壊した。
「当たらんよ、殺人鬼ごときの攻撃ではね」
 木葉は長く鋭い左足で月天の顔面を蹴った。強烈な蹴りの打撃で月天の顔面が潰れ、強引に脇腹の刃が抜けて向こう側の壁まで弾き飛ばされる。壁で背中を強打する月天の苦痛の声が洩れる。木葉はその隙を見逃さず間合いを詰めて、鎌を大きく振り被った。
「終わりだ」
 死神の鎌が月天の頭頂部に振り下ろされた。月天は潰れた鼻を手で治しながら、微動だにせずにその光景を見ていた。
 鎌の先端が硬質な床にぶつかる鈍い音が響いた。振り下ろされた鎌の刃は月天の額を僅かに掠めて股の間の地面に突き刺さっていた。木葉はその綺麗な目を剥いて、驚愕に凍り付いた。完璧に狙いを定めて振り下ろした筈がどうして。
「まだまだ、終わりとはいかんみたいやなあ」
 月天は額から滴り落ちる血を舐めて、嬉しそうな笑み零した。人殺しが何より好きな殺人鬼の目は不気味に輝いている。
「黙ってろ、すぐに殺してやる」
 根拠のない殺人鬼の余裕に激昂し、木葉再び鎌を振り上げた。だが鎌を振り下ろす時を待たずして月天の左拳が木葉の腹部を貫通していた。当然、木葉は腹部の細胞を粒子状に霧散して直撃をかわすよう命じている。
 確実に攻撃を免れているはずなのに、木葉はそのまま鎌を振り下ろせない。怒りで我を忘れていたが、先ほどからどうも顎の調子がおかしい。骨がぐしゃりと折れたような感覚がする。それは殴られた腹部も同様だ。内臓ごと肋骨が破壊されたように、腹部全体の細胞が燃える感覚を発信している。木葉の骨や臓器は五千人の細胞が擬態したものに過ぎないが、なぜ通常の人間と同じような痛みの感覚に陥ったのか。
 訳も分からず木葉が体を動かせないまま、月天は左拳を腹部から引き抜き、強烈な回し蹴りを腹部に当てた。
 月天の蹴りが木葉の腹部に直撃した瞬間、本来は貫通する筈の蹴りは木葉の重量を押し上げて壁まで弾き飛ばした。無防備に構えていた木葉の肉体が壁に減り込む。
「馬鹿な、どうしてかわせない」
 幾多もの殺人鬼を滅してきた木葉が驚愕に顔を歪める。木葉の主人格である蛙が全身の細胞と連絡を取り合って早急に原因を掴もうとするが、攻撃を受けた細胞からの返答が一向に返って来ない。混乱する木葉に構わず、凶悪な眼光をぎらつかせる月天が追い討ちをかけてくる。
「あはははは、お前は所詮ただの人殺し経験者や。本物の殺人鬼相手に勝てるわけないやろ」
 突進してきた月天の蹴りと拳の乱舞に木葉は滅多打ちに遭った。足や腕や首筋、脇腹、股間に至るまで体のどの部分にも的確に攻撃は命中する。廃ビルのもろい壁は常軌を逸する衝撃に耐え兼ねて崩落し、木葉の体は壁を突き破って外に弾き飛んだ。
 地上二階からの高さから落ちていく最中、木葉は音信不通となった全身の細胞に肉体を修繕するよう命じた。攻撃をかわせぬ原因こそはっきりしないが、肉体は通常の人間と同じように動作してくれる。細胞そのものが死滅しているわけではないことは確信している。
 地面に激突する直前に、木葉は空中にふわりと浮かんだ。命令が通じたのか、月天の打撃であざや陥没を作った肉体が尋常ではない速さで修復されていく。修復を急ぎながら電柱の近くに着地した木葉は、穴の開いた壁から、下界の人間を見下すように立っている月天を見上げた。
「あはは、あれだけ食らってまだいきとんのか」
 月天はにたにたと笑いながら木葉の様子を観察していた。追い詰められた獲物の姿を嘲るように。木葉はその余裕に触発されて顔を強張らせる。憧れだった月天が殺人鬼らしくなればなるほど木葉の憎悪は激しさを増していく。
「負けられない。私はもう二度と、お前達のようなエゴイストに殺されはしない」
 木葉は自分を殺した両親を思い出した。そして両親と月天を重ね合わせた。両者とも何ら変わりないエゴの塊である殺人鬼だ。エゴイストに殺された五千人分の細胞はいつも以上に木葉の憎悪に呼応してくれる。五千人の正常な人間の意見が一致したのだ。目の前の殺人鬼をこの世から抹殺しろと。
「さよか。せいぜいあがいてくれや人間さんよ」
 月天は電線を引き千切りながら飛び降りた。着地した瞬間に電線をロープのように巧みに操り木葉に投げる。木葉は細胞を霧散させず、その場で跳躍してロープをかわした。月天は狙い通りといわんばかりににたりと笑い、傍にある電柱を根元から引き抜いて空中の木葉に投げる。人間離れした強肩から繰り出されたそれは、木葉に回避する暇を与えず腹部に減り込んだ。
 ぐう、と木葉から小さな呻きが洩れる。肉体の修復はまだ完全に終わっていない。全快の状態ならかわせるはずだが、致命打を食らった直後ではそれもできない。
「痛いやろ、ただの人間が」
 月天は木葉の落下地点を予測して先回りし、無防備な木葉目掛けて天空に蹴りを放った。背中の中心部を捉えた蹴りの衝撃に木葉の体が弓なりに曲がる。その蹴りの圧倒的な破壊力に木葉は口から泡を拭き、もんどりうって頭から地面に落ちた。全身が無意識に痙攣して指一本動かすことすら困難な状態だ。
 木葉の意識が遠くに薄れていく。薄れ行く意識の中で、月天が木葉の顔面を狙って拳を放とうとしているのが見える。執拗で容赦のない殺人鬼の攻撃だ。えもしなかった信じ難いことだ。一見、細胞を粒子状に霧散させて攻撃を回避していたようにみえたが、実際はそうではなかった。月天のは粒子化した細胞に拳の風圧を当てていたのだ。蛙の細胞はバズーカ砲の衝撃にも耐えうるものであり、風圧程度で機能木葉はその時になってようやく、肉体を粒子状に霧散できない原因を悟った。今まで考が麻痺するやわな細胞ではない。しかし月天の怪力は蛙の想像を遥かに超越していたようだ。月天は単純な怪力だけで蛙の完璧な防御を将棋板ごと引っくり返していたのだ。
 大地が震えた。それは月天の拳が木葉の顔面に減り込んだ瞬間のことだった。木葉の顔面は潰れて拳型に陥没していた。後頭部からトラウマになっていた血液が波紋を広げた。木葉の意識が完全にこの世から隔絶した。
「もろかったなあ人間」
 月天は蛙の顔に減り込んだ拳を引き抜いた。木葉がただの人間だと悟った時から月天は木葉に物理的な攻撃を当てれると確信していた。だが蛙が悟った通りの理屈が分かったわけではない。獲物である人間が殺人鬼に勝てるわけがない。月天はそれだけの思い込みで攻撃を当てていた。自分を殺人鬼だと改めて認識した時に月天は、殺人鬼の理屈を貫き通すだけの強大な力を呼び起こした。
 戦いが終わってからも月天はしばらく木葉の死骸を眺めていた。今後のことを頭で少し考えながら。やがて月天は覚束ない足取りで踵を返した。思い出した重要な用事を果たすために。
「待て、何処へ行くつもりだ」
 背後から低い声が聞こえた。月天は特に驚いた様子もなく振り返った。そこには死んだ筈の木葉が、いや可愛らしい少女の姿に戻った蛙が立っていた。全身の打撲と顔面の陥没が完全に消えている。しかし右腕が変色して深紅に染まっていた。蛙は大鎌を二刀の小太刀に変形させて、迷わず深紅に変色したその右腕を肩の辺りから切り落とした。噴き上がる出血と供に深紅の右腕が地面にぼとりと落ちる。
「まだ死に足りんかったか」
 そう言った月天を、蛙は正義感に燃えた瞳で睨んだ。
「負けられない。私の中には五千人の憎悪が宿っている。お前ら殺人鬼をこの世から殲滅するまで、私は死ぬわけにはいかない」
 蛙は左手に持った小太刀を前方に構えた。音羽木葉として敗れたものの、蛙にはまだ五千人の憎悪が残っていた。大量殺人を繰り広げてきた蛙の矛盾するような正義感にも五千人の細胞は応えてくれる。死滅した細胞は全て右腕に寄せ集めてくれた。深紅の右腕は五千人の中にいた犠牲者だ。月天によって何人殺されたのか正確には把握できない。しかし再び殺し合いをできる状態まで五千人の細胞達は蛙を復活させてくれた。
「それなら死ぬまで殴るまでや」
 月天は蛙の意など一蹴して攻めてきた。一気に間合いを詰め、右腕を失った蛙の左側面から蹴りを放つ。蛙は後ろに身を引いて寸でのところで蹴りをかわし、左手に持った小太刀を月天の首筋に向けて振った。だが月天は鋭い反応で蛙の右手首を掴んで止めた。
「悪いけど、五千人対殺人鬼一人じゃあ、話にならへんで」 
 月天は掴んだ右手を全力で握り締めた。桁外れた握力が腕に食い込み、蛙は手首を襲う激痛に悲鳴を上げた。その間に月天の握力は蛙の肉を押し潰した。蛙の左手首が握力だけで引き千切られた。
「私は絶対に、負けられない」
 蛙は歯を食い縛り、千切れた手首に構わず蹴りを放った。月天は身を屈めて蹴りを簡単にかわし、小太刀を握り締めたまま地面に落ちた蛙の左手首を拾った。
 月天は拾った左手首を持ったまま蛙の顔に右手を振り下ろした。蛙は懸命に身を捩るが、握られた小太刀の刃先がそれより速く蛙の左目を貫き、根元まで押し込められた。左目から入った小太刀の刃が後頭部まで突き抜ける。
「お前は立派な奴やけど、五千人もおったら、間違って仲間を殺すこともあるやろ」
 蛙は思わぬ攻撃に驚き留まって動けなかった。蛙自身の細胞から生み出した小太刀と同士討ちしたのだからその衝撃も一塩なのだろう。月天は間髪入れずに蛙の襟首を掴んで地面に叩きつけた。そして地面に減り込んだ蛙の後頭部を何度も容赦なく全力で踏み付けた。
 いき過ぎた踏み付けのせいで声帯を壊されたのか、蛙は悲鳴も上げずにじっと地面に伏せていた。月天は殺人の愉悦に笑い、右手を手刀に変えて蛙の首筋に振り下ろした。
 一瞬の出来事だった。刃と化した月天の手刀は蛙の首を見事に両断した。胴体から分離したその生首を月天は拾い上げる。
 生首になった蛙の目は、まだ生きていた。正義感に燃えた瞳で月天を未だに睨み付けていた。
 月天は嬉しそうににこりと笑い、切り落とした蛙の生首を胴体の切断部分に戻してやった。すると蛙は唇を動かして声を発した。「負けない、例えどんな苦痛にあっても、どんな困難が訪れようとも、私は殺人鬼を殺さなければならない。もう二度と、あんな酷いことはさせないために」
 蛙は自分を殺した両親のことを言っているようだった。月天は蛙の事情など全く興味もないが、気分が変わったのだろうか、先ほどまでの容赦ない攻撃をぴたりと止めて蛙の話に聞き入っていた。
 蛙は自分の顔を覗き込むように立ち尽くしている月天に睨んだまま言った。「どうした殺人鬼、かかってこいよ」
 挑発する蛙にもはや戦う力は残っていない。五千人の細胞の過半数は既に死滅している。更に両足も麻痺しており、両腕を失った今となっては反撃する手段もない。それでも蛙は言葉通り戦う意思を失っていない。燃え滾るような憎悪が蛙を最後まで支えてくれている。
 月天は蛙を見つめたまま言った。「うちの負けや。お前は本当に立派な人間やと思うよ。素直にな」
 突拍子もなく負けを認めた月天は蛙の体を抱き起こした。理解に及ばぬ突然の台詞に、蛙は驚いていた様子だった。月天はそのまま蛙の背中を路上の壁に預けた。
「何を考えている、私とお前、どちらか死ぬまで終わりじゃない」
 無抵抗のまま壁に凭れた蛙がそう叫んだ。聞いているのか聞いていないのか、月天は強張った蛙の表情をただ眺めているだけだった。
 暫しの沈黙が流れた後、月天は悲しげな顔をして少し涙ぐんだ。そして蛙に言った。
「人間として、うちは完全にお前に負けた。お前は人間のことを好きになれるし、人間のために戦える。どんなにうちに殴られても諦めへん心の強さもある。全部うちにはないもんや。そんなお前が、ちょっと羨ましい」
 蛙には、それが月天の本心から出た言葉のように聞こえた。敵対する状況に陥ったとはいえ、先ほどは憧れの対象であった月天のことだ。傲慢な殺人鬼をやめて、至極真っ当な人間になって欲しい。月天には殺人鬼でいて欲しくない。月天の言葉は蛙の願いだでもあった。
 蛙は瀕死の状態から無理に笑顔を作った。この人は改心を望んでいる、本当は殺人鬼を辞めたくて仕方がない人なのだと思った。
「なら人間になればいいじゃないか。これからやり直せばいいじゃないか。私もあれほど憎んでいた殺人鬼のあなたを一時は好きになれたんだ。私にできたことは、あなたにもきっとできるよ」
 蛙は万感の願いを託すようにそう言った。だが月天は空を見上げてあまり蛙の話を聞いていないようだった。或いはわざとそうしたのかもしれない、十分に空を眺めた後、月天は無造作に蛙の肩を掴んで壁に固定し、顔面を殴った。蛙が肉体を動かさなくなるまで、何度も、容赦なく。 
 拳の衝撃に押されて瞬く間に壁は瓦解した。拳が減り込む度に蛙の顔は首から千切れそうに何度も跳ねた。蛙の全身が、足元から深紅に染まり、顔の半ばまで達していた。五千人の細胞が死滅していく証だった。やがて死滅をする深紅が蛙の顔全体を覆った頃、月天は漸く殴るのを止めた。
 月天は壁の瓦礫の上に横たわった蛙の姿を見て、深い溜息を付いた。
「もう死んでるなら聞き流してもええけどな、蛙、お前も感じてたんやろ。人殺しがそれほど特別なことじゃないことを。むしろお前は楽しんでやってたはずや。殺人鬼のうち以上にな」
 蛙は深紅に染まった重い瞼を薄っすら開いた。生きも絶え絶えにしながら。
「うちはお前ほど純粋に楽しんでなかった。お前に偉そうなこといってたけど、正直いってほんまは自分のことすらよくわからへん。人殺しは好きで、殺したくて殺したくてたまらへんけど、時々虚しくもなるし、心が痛い時もある。相手次第なのかもしれんけど、お前を殺すことは素直に楽しいと思った。お前を死に追いやる行為は快感やった。なあ、蛙、うちってほんまに殺人鬼なんかなあ」
 月天は血塗れの拳を見つめたままそう問い掛けた。人殺しが好きな気持ちに嘘はない。だが殺人はどうしても自分から切り離せないものなのか月天には分からなかった。
 蛙は立ち尽くす月天の顔を睨み付け、必死に唇を動かした。
「どうして私に聞くの。自分が何者かあなたは分かってるんでしょ。私は、殺人鬼の声なんてもう聞きたくない。ただ、悔しい」
 月天は蛙の言葉に聞き入ると、足を大きく振り上げて蛙の喉を踏み砕いた。蛙は悲痛な呻き声を上げ、眠たげな深紅の瞼をゆっくり閉じた。
 深紅に染まった蛙の全身に亀裂が走った。乾燥した粘土細工の人形のように、亀裂は蛙の隅々まで広がっていき、蛙の肉体は粉々に砕け散って小さな破片となった。
 やがて蛙の破片は、風に煽られ遥か彼方へと流れていった。大量殺人を繰り返し、数多くの殺し屋の頂点に立っていた蛙の最期だった。蛙を殺した当の月天は、澄んだ目でじっと蛙の破片が流れていく様子を見届けていた。
「人を殺すと妙に落ち着く。師匠を殺した時も、蛙を殺した今も。おとうはんを殺したあの時も、うちは落ち着いてたな」
 月天は不気味な気配を察して咄嗟に顔を上げた。誰かに見られているようなその気配の先は電柱にあった。断線した電柱の上に一羽、不吉な鳥と目される黒鳥のカラスが佇んでいた。不自然なまでに黒光りするカラスの瞳の奥から、微かにテープの擦り合わせる音が漏れている。
 黒光りするカラスの目はカメラのレンズだ。月天はそれに気付くと、自分を撮影している人物のことを考えた。
「そういえば、明日香さんは生きてるんやったな」 
 答えは単純にして明快だった。明日香がカラス型のカメラを使って月天と蛙の様子を探っていたのだ。撮影者の正体を悟った月天は嬉しそうににこりと笑い、跳躍してカラスのレンズの間近まで寄ってきた。
「明日香さん、見えとる。うち蛙を殺したで。そんで今後のことやねんけど、うち早速明日香さんのところへ行こうと思うねん」
 嬉しそうに明日香に結果を報告する月天だったが、徐々に顔付きが冷たく色褪せていった。
「ただ、うちは明日香さんの約束守れんかった。守れんかったんやない、守ろうとせんかったんや。うち、無我夢中で今まで明日香さんを守るためにと思って、そう思い込んで戦ってきたけど、もうできへんわ。明日香さんなら、うちがいうてることの意味、わかってくれるよな」
 月天の冷たい表情は紛れもなく殺人鬼の本性を露呈していた。蛙を殺したその瞬間から、月天の頭を過ぎってはいたのだ。それは今まで好きだからという理由だけで、決して実行に移せなかった恐ろしい考えだった。
 月天は蛙を殺した時、蛙の頭部から広がる血溜りの中心に立ち、また幼女の頃の自分を思い出していた。亡き父が大量殺人を飛行機の中、無数の人間の悲鳴と生温い血の感触、月天はそこで初めて自我を持ち、自分で望んで父を撃ち殺した。あれは無知な幼女の過ちではない。当時の月天が本気で大好きな父を殺したいと願っていたことを、月天は今になってはっきり思い出したのだ。
自分の正体を知った月天は、明日香に向けて重いメッセージを送った。
「約束破ってごめん。ちゃんとケジメつけようと思う。うちが明日香さんを殺してな。どうやらうちは、最低の人間でいるのが居心地いいみたいなんや」
 月天はそうはっきりと明日香に決別の言葉を告げた。大好きな人を殺したい願望に身を委ねることに決めた。結局蛙には理解を得られなかったが、月天は好きになればなるほどその相手を殺したくなるのだ。蛙が明日香を殺していればその願望は断ち切れたかもしれない。しかし生き残った明日香がこのレンズを通して月天を見ている以上、月天は殺人鬼の本能に従って明日香を殺さねばならない。
 カラス型カメラは月天のメッセージに反応して空に飛んだ。恐らく主人の元へと帰っていくのだろう、月天はカラスの行く先を想像して笑みを浮かべる。結局、大好きな人をまた殺すことに決めたその殺人鬼の顔は、一点の曇りもないすがすがとしたものだった。
 人間に寵愛され、一時はまともな人間を目指した月天であったが、蛙の子はやはり蛙にしかなれないのか、殺人を生業とする人間へと成長を遂げたのだった。
 
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