第十一話 エゴイスト

 
 一
 グルグル、グルグル、止まった筈の不快な歯車が、少女の脳裏で駆動を始める。
 月天流格闘術の門番を務めるその少女、蛙には、師と敬愛する月天にも打ち明けていない重大な秘密があった。彼女を構築する体細胞には意思があり、各自に思考して生きているというものだ。
 蛙は、それらの体細胞を彼らと呼んでいる。彼らは全身を統率する核である蛙の指示を受けると、従順な僕の如く、柔軟に細胞の形状を変化させている。蛙が蛙という人間の造形を保っていられるのは、彼らが蛙という少女の形状になるように細胞を収縮させ、硬質化させ、再び蛙の指示が全身に下るまで、形状を保ったまま待機していることになるわけだ。
 その彼らが鋭利に統率されて完成した小太刀が、虚弱な人間の首を薙いだ。情報伝達の速度が向上するほど動きが鋭くなる蛙の抜刀は、今や人間の域を優に超えていた。
 殺人を遂行したその瞬間、全身を構築する彼らが疼き始めたのに蛙は気付いた。途端に山間に建造された研究所の光景が蛙の脳裏を過ぎる。
 今から、二十年も昔であり、蛙が彼らと出会って間もない頃の出来事だ。残虐な研究者どもが潜んでいたその研究所には、世界各地から無作為に選出された名も知らない五千人の彼らが連れてこられた。詳細な人相まで記憶していないが、存在が消えても誰一人として気に留められない社会的弱者ばかりだったように思える。
 連れてこられた彼らの中には、極度の飢饉で家族を亡くし、砂漠を彷徨っていた哀れな子供まで混ざっていた。だが卑しき研究者には女子供の見境はなく、彼らを研究の材料として使用した。
 防音対策が完璧に施された地下室で、グルグルと歯車の音が爆音染みた軋みを上げていた。円筒形の巨大な機械に押し込まれた生身の彼らが、肉を削がれて骨を剥き出され、体中の水分を搾り取られて磨り潰された。その機械は遠心分離機を人間用に改良したものであり、彼らの質量を細胞単位にまで分解、または濾過する末恐ろしい性能を誇っていた。
 グルグル、グルグル、無情な音が二十四日間も連続して鳴り響いた。機械の前で整列している裸体の彼らは全身を拘束され、目に涙を一杯溜めて機械の中に放り込まれた。地獄を垣間見たような形相をして、人間の限界に差し迫る途轍もない声量で悲鳴を上げていた。
 蛙は、目を覆い隠したくなるそれらの残酷な光景が信じられなかった。
 研究者の中には蛙の父がいて、また、母も参加していた。当時は十二歳だった蛙を、全身全霊の愛情を込めて育ててくれた最愛の両親だった。生まれ付き身体の障害を患ったせいで、蛙は頭部しか動かせなかったが、両親は健常者と同じような微笑みを与えてくれ、蛙が望んだものは何でも叶えてくれた優しい人達だった。
 蛙と両親が十二年間の歳月を掛けて構築してきた信頼関係は、二十五日目を迎えて完全に崩壊した。
 五千人の人間が分解される様子を、いや、蛙はグルグルと解釈している光景を、目の前で強制的に凝視させられた幼少の蛙は、極度の興奮状態に陥って声を枯らして叫んでいた。
 両親は自我の崩壊に陥りそうな蛙に手を差し伸べた。五千人の人間を惨殺してきた異常者の冷たい手だった。肉体を動かせない蛙は、声にならない悲鳴を上げるだけで抵抗できなかった。
 両親は、眉一つ動かさずに、蛙の体を抱き上げると、ゴミでも捨てるように平然と機械の中に放り込んだ。グルグル、聞こえてきた。ギザギザした凶暴な刃の付いた機械が脇腹を圧迫し、歯車のグルグルと供にゆっくり回転する。途端に全身を鋭い痛みが走り抜ける。苦しい、助けて、意識を刈り飛ばす限界を超越する痛みに、蛙は唯一自由にできる首を激しく振っていた。
 蛙の肉体が見る間に削ぎ落とされ、永久の眠りに落ちかけたその時、両親の温室で育てられた蛙に、初めて、憎悪の情が生まれた。
 現在の蛙を構築する彼らが頻繁に唱える感情、愚かな人間を忌み嫌う極大の憎悪だ。人間に恨みを晴らしてやりたい純粋なまでの彼らの願望は、憎悪を抱いた蛙の手足となって今尚生き残っている。
 試験菅の中は、冷たかった。分解されて液状の細胞体になった蛙は生かされ続け、六年以上も試験管の中で時を過ごした。肉体を分解された彼らの試験管から悲鳴が聞こえてきた。痛いよ、寂しいよ、苦しいよ、助けてよ、どうして死んだ筈なのに、こんな酷い目に遭わなきゃいけないんだ。畜生、復讐してやる。
 彼らも蛙も皆、色褪せずに増大する憎悪の叫びを上げ続け、ひたすら反撃の機会を待っていた。
 後に蛙は彼らの細胞体一人一人と結び付き、人智を超えた新たな生命体として復活を果たした。液状の細胞体から彼らと結合を果たした経緯は漠然としていて、蛙自身もはっきりとは覚えていない。ただ、人間に対する憎悪に支配され、愚かな研究者達を一人残らず片付けた甘美な記憶が残っているだけだ。
 お父さん、お母さん、冥府で蛙を見守ってくれているでしょうか。結局のところ、私は貴方達が何の目的であんな惨劇を起こしたのか未だに理解できておりません。ですが今では貴方達に感謝しています。貴方達は皆の憎悪を結集させてくれ、ひ弱な障害児だった私に、人間を滅却できる怪物の体を与えてくれたのですから。
「蛙ちゃん、どうしたの、唐突に小さい子供殺したりして。苛々してるならうちが悩みでも聞いたろか」
 繁華街の通りで少年を殺した蛙に、大柄の彼女が優しく声を掛けてきた。若干十七歳で繁華街の通りに殺し屋の道場を構える、月天=グレイソニアス・マケシトスだった。蛙は、月天を心から愛しく思っている。愚かな人間が支配するこの無情な世の中で、蛙が唯一心を許せる最愛の人だ。
「いえ、ちょっと考え事をしてただけです。それより月天さんこそどうしたんです。ユニフォームなんか着ちゃって」
 大胆に肌を露出した体操着に袖を通している月天は、照れ臭そうに頭を掻いた後、露出されたへそを掻いた。
「以前に言うてたやろ、茜の奴が友達作るのに協力するて。実は今日がその日やねん。綿密な計画を交わした末にこんな恰好させられたんや。満更悪い気はせえへんけどね」
 月天の露出された下腹部には傷痕が残っていた。先日、師範のヨウイチと対峙した際に、肉を貫かれて生じた傷が未だに癒えないようだ。蛙は懐に仕舞っているタオルを取り出して、痛々しい月天の傷痕に心を込めて沿えようとするが、繁華街の通りを駆けてくる忌まわしい声が邪魔に入った。
「遅くなってごめん月天さん、私もやっと準備できたわ。全く、いくら販売の経験あるからってアイスクリーム屋なんて不自然極まりないわよね。まあ、無難に作戦を遂行して、十億円頂きましょうか」
 声の主は、月天の最愛の友である深町明日香だった。宮崎茜の計画に協力した彼女の役割だろうか、フードの付いた藍色のマントを羽織り、右肩からクーラーボックスを提げている。眼鏡面をした醜悪な顔立ちは隠し切れないが、気軽に月天の肩に手を回している図々しい女だ。月天流の門番を任されている蛙でさえ、滅多に月天と肌では接触できていないのに。 
「そやね、あっさり仕事を片付けて二十億、いや十億円を頂こか」
 月天は言葉を切って慌てて訂正した。眼鏡の女は不思議そうに月天を見つめたが、蛙はその真意を把握している。月天は宮崎茜がカツラである弱味を握って報酬を十億から二十億に倍増させたのだ。蛙は月天を傷付けた愚かなヨウイチの死体を回収した帰り道に、月天と茜のやり取りを興奮気味に見ていた。しかしそれだけではない。蛙は月天のことなら何でも把握している。
「ほな、蛙ちゃん、うちと明日香さんは茜のとこに集まるさかい、道場の留守番よろしく頼むわ」
 月天は蛙に別れを告げて、仲睦ましそうに明日香と肩を並べて駆け出した。
 蛙は嫉妬混じりの愛情に飢えた瞳を、去り行く月天の背中にじっと浴びせた。月天は蛙の視線を感じていながら立ち止まらなかった。月天を欲している蛙の一途な感情が締め付けられる。
 月天は幼少の頃から明日香に育てられた。孤独な月天を養った明日香には深い恩義と忠誠を誓っていて、命を賭してでも守り抜きたい強い情で結び付いている。ぽっと出の他人が、二人の関係に割って入る余地は残されていないのは自明の理。
 だが、幾ら時間を掛けて信頼を深めていようが、愛情なんて、容易く壊れるものだ。自分を作り変えた愚かな両親が、それを身を持って蛙に教えてくれた。
 グルグル、グルグル、私を構築する体細胞が共鳴している。月天さんが欲しい、恋しい、手に入れたい。最愛の人、ああ、グルグル、グルグル、この世は無常で壊れ易いんだよ月天さん。胸が張り裂けんばかりの私の片思いに、どうか応えておくれ。
 月天への歪んだ情欲に支配された蛙の体細胞は、粒子状に霧散して空気中に溶け込んだ。
 
 二
 
 七月も半ばを過ぎた大安吉日、貝塚剛友人計画と称する宮崎茜の初めての友達作りは、雲一つない晴天に恵まれた。
 極一部の関係者にしか全貌を知らされていない貝塚剛友人計画とは、貝塚に密着させた探偵の情報を元手に、精神学の権威ある学者達が、如何に貝塚が茜に好感を持つようにするかを議論を交わした末に作成した計画案だ。
 学者達は綿密な計画の体裁を立てようと、計画の作成には一ヶ月以上を要したが、貝塚剛当人の思考が余りにも単純なため、大よそな方針は三日と経たずに粗方決定していた。
 探偵の調査報告によれば、貝塚は私利私欲に身を委ねる全く抑制の効かない男である。空腹を覚えれば自宅に帰って飯を食らい、睡眠を欲せば平気で路上で寝てしまう、極めて本能に則った行動を取っているようだ。それは妹独りを風俗店に働かせて、自分は全く労働意欲を見せずに遊び惚けているところからも、貝塚の責任感の無さは明確に感じ取られる。
 つまり貝塚が求める理想の友人とは、自分のエゴを何でも叶えてくれる都合の良い人間なのだ。彼は本能に従うが故に、大富豪の令嬢である茜の資産にはすぐさま飛び付くだろう。計画は茜が大富豪の令嬢である時点で、九割方成功を収めていると言えるのだ。
 だが茜の重圧が掛かった此度の計画に失敗は許されず、確実性を増すための手段も用意された。
 貝塚は無類の好色家らしく、特に端正な美女には涎を垂らして尻を追い駆け回しているそうだ。整形で容姿を完璧にした茜にも興味を示すと思われるが、茜の美貌をより惹き立てる手段として、特別に二人の協力者を用意した。
 それがカバディ好きの外国人という配役を渡された月天と、路上でアイスクリームを売っている眼鏡の女という役割に付いた明日香である。
 本来なら敵対すべき二人を敢えて選んだにも理由がある。茜の個人的な見解では、二人は性の悪い人間であり、自分より遥かに容姿に劣った愚民であると認識されている。性格と容姿の欠如した人間を、都合の良い人間を欲する貝塚に鉢合わせれば、貝塚は醜悪な女に幻滅して、自分を励ましてくれる美女を強く欲することだろう。
 そこで、傷心を求める貝塚の前に、圧倒的な金銭を身に着けた美女が登場すれば、貝塚は半狂乱の野獣と化して、茜の従順な奴隷と成り下がる展開が容易に予想される。此度の月天と明日香には、貝塚の自尊心を地の底まで突き落とす単純かつ、二人が尤も得意とされる最適な役目を与えられた。
 更に、計画を円滑に進める案内人として、貝塚の妹である香織も招かれた。身内という立場上、交渉は難航すると思われたが、両親が負債した多額の借金の返済を報酬に持ち出すと、二つ返事で協力してくれた。
 そしてこの計画を決行する当日の朝、貝塚が通行すると予測される場所に、月天と明日香及び、協力者達各自は配置に付いて主役の登場を待ち侘びていた。貝塚を迎え入れる万全の体勢が整っていたわけである。
 だが、完璧に進行する筈の計画には既に狂いが生じていた。茜の友達作り計画とは異なる別の因子が、無防備であった計画の前日を脅かしたのだ。
 計画の微妙な狂いに逸早く気付いていたのは、案内人の香織だった。
 その決行日の前日、香織は勤続する風俗店の帰りしな、川原で熱唱している不出来な兄を見付けて呼びかけた。
「おーい、ハゲの貝塚剛君、早く帰りますよー」
 妹の香織に頭の上がらない貝塚は、慌てて土下座を繰り返し、香織に誘導されるがまま土手の方に駆けてきた。「ごめんなさい香織さん、すぐに行きますう」
 そこまでは普段と何ら変わらぬ貝塚家の日常だった。だが香織の後に着いて帰路を辿る貝塚の妙な含み笑いが香織には引っ掛かっていた。普段なら歌の練習に飽きて黄昏ている場合が多かった貝塚が、その日に限って笑っているなど不吉の前兆としか思えなかったのだ。香織は違和感を感じつつも、明日の決行日に備えて、何も聞かずに貝塚を早くに寝かし付けた。
 そして計画決行日に当たる今日、香織は両親の墓参りと称して貝塚を早朝から叩き起こした。両親が実際に息を引き取った命日に決行日を重ねたので、貝塚も特に疑念は抱かなかったようだ。常識では量り兼ねるバケツを頭に被るという奇異な行動は取っていたが、貝塚は香織に誘導されて両親の墓前に足を運んだ。
 香織は当初の予定通りに両親の墓に線香を上げ、バケツを被っている呑気な兄に水を汲みにいくよう命じた。「いつまでもバケツなんか被ってねえで、さっさと水汲みに行けよ」
 頭に被ったバケツに愛着を抱いた貝塚は、「僕とバケツの愛を引き剥がそうというのか」と、最初は妙に渋っていたが、やがて水道へと走ってくれた。だがそれが本格的に計画を狂わせる結果へと繋がった。
 水汲みから一向に戻って来ない貝塚を心配して、香織が遠目に確認できる水道へと走った時だった。
 貝塚自身は香織の言い付けを守り、バケツに水を注いではいたのだが、貝塚の隣で水を汲んでいる可愛らしい女性と、何やら親しそうに会話をしていた。香織は計画には記されていない女性の出現に驚き、手頃な墓石に身を隠して二人の会話に耳を澄ませた。全体連絡用に渡された高性能のトランシーバーの電源を入れて、茜を含めた協力者達全員に会話が届くよう、予め設定された周波数に合わせた。
『あの……昨日は、ほ、んと、ごめんなさい』貝塚の声だ。ブツブツと途切れる不明瞭な音声が流れて聞き取り難い。やはり初対面ではなさそうだ。
『もう、いいわよ……』こちらは相手方の女性だ。会話を傍聴している月天と明日香だけは、この声に何処か聞き覚えがあるようだった。
『ありがと……』『そんなに、嬉しいのですか』『も、ちろ……ん』『おかしな人ですね……』何気ないやり取りが続く間、明日香は早急に月天個人に電話を掛けて、問題の場所へ向かうよう指示を下した。
 明日香から月天への個人連絡とは別に、香織の電話にも連絡が入った。通話主は思わぬ女性との接触に激怒する茜だった。「何してんのよ香織さん、早く止めに行かないと借金払ってやんないわよ」
 茜に脅された香織は慌てて姿を現した。丁度、正体不明の女性がバケツの水を被って身を清めていた時だった。香織は突拍子もない女性の行動に目を丸くして、貝塚との関係を暴こうと探りを入れた。「お兄、この人と知り合いなのか」
 貝塚は達観したような面持ちで、今回の計画そのものを脅かす重大な返事を返した。「うん、近い将来、香織のお姉さんになる人だよ」
 トランシーバー越しに会話を傍聴していた全員の顔色が変わった。貝塚は無類の好色家であったが、彼の容姿と利己的な性格は嫌悪の対象とされていて、彼のこれまでの人生で恋仲を築けた女性は誰一人としていなかったからだ。突如として現れた謎の女性と、将来を約束したとも受け取れる貝塚の言動には、関係者一同唖然として困惑するばかりだった。
「あの、本当にお兄と付き合っているんですか」香織は恐る恐る謎の女性に真相を尋ねた。
「いえ、そのことに関してですが、私は貴方とお付き合いする気にはなれません」女性はきっぱりとそう返答してくれた。関係者一同の安堵の溜息が墓地まで聞こえてくるようだった。先ほどの発言は貝塚が作り出した妄想の類だったのであろう。
 貝塚は悔しそうに顔を歪めて謎の女性に食い下がるも、謎の女性は亡くなった彼氏を引き摺っていて交際する気にはなれないと貝塚を跳ね除けた。香織は女性の一言一句に感激して頷いていたが、貝塚を拒否する内に女性は目を輝かせてしまい、貝塚が名前を尋ねると快く教えてくれた。
「私は高野晶と言います」高野晶という女性の名を聞いて貝塚は歓喜に舞い上がった。「あの、晶さん、もし良ければ明日デートしてくれませんか」
 唐突な貝塚の申し込みを、香織は鼻で嘲笑ったが、晶という女性は思わぬ返答を貝塚に授けた。「いいですよ、明日は空いてますから。よろしくお願い致しますね」
 香織の頬の筋肉が自然と引き攣った。晶の返答は、貝塚を拒絶した先ほどの主張とは明らかに矛盾していた。携帯電話の受話器からは、茜が語気を荒げて香織に指示を出している声が洩れてくる。だが香織は、唇を吊り上げて悪戯っぽい笑みを作った晶の表情に釘付けになって動けなかった。
 女性特有の第六感が香織に囁きかけた。この晶という女性は貝塚に好意は持っていない。子供染みた剥き出しの悪意で貝塚に接しているだけだ。それは愚民を軽視する茜より底が見えない冷たい感情を奥に孕んでいて、香織は模造品のような晶の表情に悪寒を走らせた。
「はい、頑張ります」貝塚は歓喜に舞い上がって、晶の本質には気付いていないようだった。元より楽観的な貝塚の思考に、危険を察知する能力は期待できない。
 貝塚と晶は明日の十時にデートの約束を取り付けて、晶は人気の無い裏道へと去って行った。未だに悪寒に駆られる香織は、受話器から洩れる茜の『計画続行』という強い指示を受けて、当初の予定通りにここで貝塚と別れた。極めて単純な貝塚の次の行動は知れている。無職の貝塚が余暇を埋める手段は、自身が絶賛する歌の熱唱と、悪友との交流ぐらいだ。自宅からやや遠い墓地までくれば、家に戻るのを億劫に感じて悪友の家に向かうのは自明の理だった。
 何度かテストを重ねて確かな裏付けも取れていたが、本当に貝塚は予定通りに友人宅の方向へと歩き出した。敢えて香織に貝塚を友人宅へと誘導させなかったのは、貝塚に此度の計画を悟られぬようとする配慮から。やがて貝塚と接触するであろう明日香と月天、そして本筋の茜との出会いは、飽くまで貝塚の日常に突如として訪れた偶発的な出会いでなければならなかった。
 駆け足で持ち場を離れた月天は、トランシーバー越しに聞こえた声の正体を探りに墓地に移動していた。貝塚と鉢合わせしないよう墓石に隠れて、明日香の待機場所へと足を運ぶ貝塚を見送る。
「信じられへん、どんな積もりであんなハゲをたぶらかしたんや。そんな趣味が悪いと思わんかった」
 貝塚の後ろ姿が消えてから、月天は背後に届くように言った。月天の背後で佇んでいる少女に振り返る。
 ミカンを供えた墓石の傍らには、貝塚と別れたばかりの晶が立っていた。デートの約束を受け入れた貝塚には見せていない、月天を敬愛する潤んだ目をしていた。
「月天さんに会いたくなったからです。他にも事情はありますけど、それは私にとって果たすべき一番の目的。ごめんなさい、でも、私は月天さんが好きなんです。心から、お慕いしています。御願い、私を、受け入れて下さい」
 晶はそう言って華奢な腕をそっと伸ばした。晶の腕が真っ直ぐに伸びたその瞬間、茶に染まった艶のある髪が黒に戻り、清楚な晶の衣服が濃淡のある臙脂の軽装へと早替わりした。小振りの尻には二刀の小太刀が交差して張り付き、晶を名乗っていた女性は、月天流格闘術の門番である蛙へと早代わりした。
「今更何を言うとるんや。うちかて蛙ちゃんを気に入ってるから門番を任せてんで。改めて告白してくれんでも、蛙ちゃんの気持ちはとうに分かってるよ」
 月天は、服装はおろか、髪の色まで瞬時に変化させた蛙の正体には触れず、当たり障りのない笑顔を返した。求愛の合否を求めてるように伸びた蛙の手を、自身の右手で優しく握り返す。
「これからも仲ようしよな。そやけど今後告白する時は、うちを直接呼び出してくれへんか。今回みたいに勝手な行動されたら困るからな」
 蛙は凄んだ顔になった。適当な答えで逃げようとしている月天の心境は、当惑しているその顔から容易に見て取れた。
「嘘を、つかないで下さい。月天さんは、私が弟子入りを願った時からずっと私のことを疑ってた。私の求愛の視線を感じて、内心、厄介者だと思ってたんでしょ。邪魔になるようなら殺そうと考えていたんでしょ。ずっとそうだ。月天さんが私を受け入れてくれたことなんて、一度もなかったじゃないですか」
 蛙が訴えかけると、平静を保とうとする月天の顔は険しくなった。殺意を抱いた際に表立つ冷たい目付きに変わっていく。
「それは、蛙ちゃんがいつまで経っても正体を明かしてくれへんからやろ。むしろ疑うなという方が無理あるで。誰にも名を知られてへんのに、異様に腕は立つし、異様にうちに執着してる。そうや、蛙ちゃんを見てると嫌な胸騒ぎがするんや」
 本音を打ち明ける月天の右手が堅く握り締められた。不安に慄いているのか、或いは戦いへの昂ぶりからか、異様に興奮状態に陥り、息遣いが荒くなっている。
「やっと、素直になってくれましたね。現時点で私が月天さんと親密になれる確率は無に等しいでしょう、それはこのまま門番を続けていても恐らく変わりない。残念ですが、私に突きつけられた現実は残酷なものです」
 蛙は悲観的な見解を述べながらも、薄っすらと笑みを浮かべて見せた。
「ですが、私には現実を覆せる力があります。どうしますか月天さん、私は目的のために力の行使をするべきでしょうか。多分、これが最初で最後の意思確認になると思うので良く考えて下さい。改めて要求しますが、私は月天さんの肉体と心さえあれば本望です。月天さんが欲しい、その願いさえ成就すれば、他には何も奪いませんから」
 蛙は今後に拘る重大な決断を持ち掛けた積もりだったが、月天は即座に決断して足早に動いていた。
 人間の破壊を目的に練られた月天の業が、息も付かせぬ速さで繰り出された。月天の決断は、蛙の策略を打破する極めて単純な殺人だった。蛙を物言わぬ肉塊に変えてしまえば本人の意向は無になる。月天は、正体不明ながらも門番を務めてくれた蛙の肉体に全力で暴力を振るった。
 墓石に叩き付けられて顔を潰された蛙は、虚ろに視線を泳がせながらも嬉しそうに笑った。殺意をぎらつかせる獰猛な眼光で、拳や蹴りを振り下ろしていた金髪の猛獣は、恐怖に駆られた冷や汗を流して、不用意にも一瞬、動きを止めてしまった。
 蛙は反撃の暇が生じたその間に抵抗しようとはせず、肩で息を吐きながらじっと、月天を見つめていた。
「痛いです、月天さん。彼らが激しく損傷する悲鳴が聞こえてきます。これなら、今まで生き延びてこれたのも頷ける。月天さんの怪力は本物ですよ。普通の人間なら、まず耐えられません」 蛙は血塗れの顔をした瀕死の状態で月天を賞賛した。再び始動した月天は、その哀れな顔を無言で殴打する。蛙の華奢な肉体が人形の如く、遥か後方に吹き飛び、見知らぬ他人の墓石を何個も薙ぎ倒して漸く止まった。 
 月天は感情を排除した形相で、起き上がれない蛙の傍へと足を忍ばせた。大胆に股を広げて倒れている蛙の、啜り泣きする声が無情にも響き渡っていた。
 だが月天は、無表情に蛙の喉を踏み砕いた。器官が潰れる殺人の感触に熱狂して、悶絶する蛙の顔を何度も踏み付ける。
「痛いよ、グルグル、グルグル、月天さんのエゴが聞こえてきます。あなたはまた力任せに人を殺め、愚かにも私利私欲に身を任せて生きていくのですね。でも、私だけは許してあげます。月天さんエゴだけは、許せるようになったんです」
 蛙は痛みのせいではなく、月天を心から哀れに想って涙を流していた。呼吸器が潰され、歯列を根こそぎ砕かれても、不思議と蛙は正常な発声を行えていた。
「私は、普通の人間じゃないけれど、月天さんの気持ちを分かってあげられて、誰よりも、愛して」
 涙ながらに求愛する蛙の口は、完全に紡がれた。呼吸器を潰された蛙の肉体は限界を越えて、一介の肉塊として朽ち果てたようだ。
 月天は自分を慕って過剰な求愛に及んだ蛙の遺体を、複雑な心境で見つめていた。早計にも彼女がもっと狡猾な存在であり、反撃すら仕掛けないほど、一途に慕われているとは思わなかった。
「ごめんな。蛙ちゃんの言う通り、うちはエゴを押し通して生きてる勝手な人間や」
 月天は結局、無惨にも殺す羽目になった蛙に呟き、返り血で穢れた体を水道で清めた。
 貝塚剛友人計画の持ち場へと引き返す、去り際の月天の顔は何処か淋しそうだった。墓地から離れたスーパーの屋上で、蛙と月天のやり取りを傍観していた宮崎の部下達は、茜本人にそれらの状況を事細かく報告していた。
 やがて茜から蛙の遺体を回収せよとの命令が下され、宮崎の部下達は早急に現場へと足を運んだ。
 墓石の荒れ模様はそのままだったが、墓石に凭れていた筈の蛙の遺体は何処にも見受けられなかった。数時間後に鑑識官を招いての捜索に乗り出しても、血痕はおろか、蛙の指紋すら検出されることはなかった。
 発見に至らなかった不穏因子の影響か、多少の狂いを生じながらも続行された貝塚剛友人計画は、見事な失敗に終わってしまった。
 
 三
 
 近隣の住民が寝静まった深夜、貝塚剛友人計画の反省会は、皮肉にも貝塚家で行われた。
 計画の首謀者である茜は、余りの悔しさに怒り心頭で、計画失敗の原因になったとされる協力者を臨時に召集していた。
 茜に呼び出されるまでもなく、貝塚家を住処とする香織を始め、貝塚との接触に当たった月天と明日香の協力者三名は、照明の消えた薄闇の台所が奥に覗ける居間のテーブルに腰掛けていた。
 上座で腕組する茜の叱責は留まるところを知らなかった。既に一時間も一方的な金切り声を聞かされ、集まった協力者の顔には疲弊の色が窺える。
 標的とされた貝塚剛当人は、明日に約束を取り付けた高野晶とのデートを信じて床に入っていた。明日香や月天に予定通り自尊心を傷付けられ、全身にも数多くの内出血が見受けられる。頭皮には針で刺されたような痕跡が残っていたが、この傷を付けたのは協力者ではなく、茜本人だった。
 失敗に終わった計画だが、高野晶の登場以外は、台本の流れに沿って進行していた。茜に叱責されるばかりの協力者の誰しもが、自分にそこまで咎められるまでの否はないという内心を隠していた。黙って茜の怒りを受け入れているのは、報酬という最優先すべき事項に忠実になっているからだろう。
 が、夜通し終わりそうにない茜の独りよがりに、曇った眼鏡のレンズを拭いていた明日香が異を唱えた。
「いつまでも支離滅裂になってないで、そろそろ真剣に原因を究明しましょう。大まかな状況は聞いてるけど、現場に当たった本人の詳細な体験も聞いてみたいしね。今後の方針も兼ねてさ」
 本来は宴会用に用意されていた筈の、土鍋で熱せられた熱燗の湯気が、俯いていた協力者の顔に血色を与えた。口火を切ってくれた明日香に賛同して、香織と月天も前向きな議論に参加する意欲を取り戻した。
「聞く必要なんてないわ。あんた達のせいで上手くいかなかったのは明白よ。懺悔するだけじゃ許さないからね」
 鬼面を張り付かせる茜は態度を硬化させたが、月天が茜の口ごと羽交い絞めにして、明日香が計画の大まかな経過を振り返った。
 香織と別れてディスコに向かった貝塚は、バケツを頭に被るという奇行を続けながらも、無事に明日香が待ち受けるアイスクリーム屋の露店にやって来た。
 明日香に与えられた主要な役割は、貝塚の精神面に置ける自尊心を傷付ける目的だったので、明日香は手っ取り早く貝塚から金を騙し取る方法を選択した。
 まず、露店を通過してしまいそうな貝塚に、拳大のサイズにもなる大きな鈴を振り鳴らして自分の存在に気付かせた。貝塚はバケツを被っていたせいか、音に鋭敏に反応して露店で足を止めてくれた。初めは明日香を警戒して、お前は坊主なのかと、理解しかねる言動を発していたが、明日香が何故バケツを被っているのかという質問を繰り返すと、漸くバケツを頭から取り去ってくれた。
 結局、バケツを被っていた理由は語られなかったが、貝塚は相手が女性だった事実に驚いたようだ。そして、僅かながらも邪な感情が頭を掠めたようだ。それは明日香が醜悪な女性だと踏んだ茜の見解とは大きく異なっていた。
 貝塚は、明日香を美女の範疇に入ると認識している素振りになった。明日香は下心を丸出しにした亡者の視線をすぐに察知できた。これに焦った明日香は、アイスクリームを購入しようとする貝塚を挑発した。五千円札で百円の代金を払おうとする貝塚を咎め、コンビニで両替するように言い聞かした。「お釣りに困るから両替して下さい」「早く行かないと溶けてしまいますよ」
 だが貝塚は、男の意地にでも駆られたのか、露骨な不満顔で行動に移そうとしなかった。明日香は頭に血が上った様子の心境を察して更に畳掛けた。
「自分が見えてないようですから占いをしてあげますよ」と、唐突な提案で歩み寄りながら「あれえ、毛根が死んでますねえ」と、ふざけて禿頭を指摘してやると貝塚は怒り狂った。どうやら尤も気にしている欠点らしかった。
 そこまで激昂させれば後は簡単だった。明日香は無料で占いをして貰っていると思い込んだ貝塚に決定的な台詞を突き付けた。「それでは、見料五千円になります」
 貝塚は開いた口が塞がらない心境だったのだろう、諦め切れずに猛然と詐欺を訴えてきたが、単純な罠に掛かった自身を省みて酷く落ち込んだ。手持ちの全財産らしい五千円を投げ捨てて、去り行く貝塚の背中は哀愁に満ちていた。
「これが大まかな私と貝塚との経過よ。占いの辺りは予定にはなかったけど、貝塚の自尊心はこの時点でかなり傷付いた筈よ。勿論、赤髪と金髪の女性には気を付けろと、単純な貝塚に茜と月天さんを注目させる言動もしておいたわ」
 明日香は自身の経過を発表し終えると、貝塚が次に出遭ったとされる月天に目を移した。その頃になると、羽交い絞めにされていた茜も人心地を取り戻しており、反省会に集った一同は真剣に月天の体験談に聞き入った。
 月天に与えられた主要な役割は、貝塚の肉体面に置ける自尊心を傷付けることだったので、月天はカバディ好きの外国人という設定を守り、貝塚にカバディの仕合を申し込む手段を選んだ。完膚なきまでに貝塚を叩きのめせば、女性に敗れた屈辱を味あわせられると踏んだからである。
 蛙を殺して持ち場に戻ってくるさながら、月天はアイスクリーム屋の露天に置き忘れていた貝塚のバケツを明日香から受け取り、市民グラウンドのベンチで寝ていた貝塚と接触を図った。
 貝塚は明日香に自尊心を傷付けられて相当参っていた様子だった。月天は何とか貝塚を奮い立たせるために頭にバケツを被り、明日香とは親友だという事実を絡めて交流を図ったが、貝塚は妹に怒られるからバケツを返してくれの一点張りだった。月天は仕方なくカバディの勝負に勝てばバケツを返却する運びに持っていった。
 月天の能力を知らないせいもあり、貝塚はあっさりと勝負に乗ってきた。月天を醜悪な女だと踏んだ茜の見解とは異なり、貝塚はまたもや月天を美人の範疇だと認めて下心を丸出しにした亡者の目付きに変わっていた。
 月天は亡者の目を背けようと、急いで勝負の方法を説明した。本来のカバディは人数を要するが、生憎と一対一になるため、鬼ごっこのルールに則って勝負をすることにした。攻守交替は二分間で、攻め手が相手の体に触れれば一定の点数が加算されるというものである。
 貝塚は迷わず攻め手を選び、月天は持ち前の脚力を活かして逃げた。広いグラウンドを縦横無尽に駆け回って翻弄していたが、貝塚の動体視力では捉え切れなかったようで、月天はネットによじ登って上空から貝塚を貶した。「高いとこが怖いんかハゲ、はよ登ってこんかい」
 貝塚は必死に反論して自身の高所恐怖症を誤魔化したが、一向に登ってくる素振りを見せなかった。痺れを切らした月天はネットを蹴って十メートルに及ぶ跳躍を果たし、貝塚との格の違いをまざまざと披露した。
 常軌を脱した光景に唖然とする貝塚の自尊心は、その時点で揺らぎ始めていた。月天はわざと間近まで接近して、貝塚に再三タッチするよう挑発した。安易な挑発に乗った貝塚は何度も接触を試みたが、その度に月天の手加減された打撃が全身を打ち砕いた。
 幾ら手を抜いたとは言え、常人では持ち越えられない攻勢にも拘らず、貝塚は無謀にも何度も立ち上がってきた。妹に怒られたくないだけの目的意識が貝塚を奮い立たせていた。芝居だけの積もりが、月天も次第に殺意の衝動に駆られていき、貝塚の頭皮を鷲掴みにして握り潰してやろうと思い立った。
 だが、貝塚の流した屈辱の涙に感化され、月天は先ほど始末した蛙の最期を頭に過ぎらせた。殺人は利己主義の極め付けであることを、月天は己の人生と照らし合わせて熟考していた。師範のヨウイチの殺害を一度でも躊躇ったことが影響を及ぼしたのだろう。この頃の月天は、死の淵に立たされた人間を妙に思い遣り、殺人の決断を鈍らせる殺し屋としては深刻な悪癖が目立っていた。
 くしくも本来の趣旨に立ち返った月天は、果敢に挑んできた貝塚に敬意を表して、バケツを貝塚家に配達してやることを約束した。貝塚はそれで自尊心を取り戻したような笑みを見せたが、肉体の酷い損傷は隠し切れず、覚束ない足取りでディスコへと歩き出した。
「バケツを返したのはうちの判断ミスやったかも知れん。けど、うちの役割は十分に果たしたはずやで。赤髪の女に気い付けろとも言うたしな。でもまあ、あのハゲの熱意に押さえて肩入れしたのは事実やから、その辺は謝っとくわ。ごめんな茜」
 月天の素直な謝罪を受けて、茜は怒っているような、容認したような複雑な表情を作った。月天だけには自身の頭髪の秘密を握られているので立場を弁えている。
「香織さんの経過はもういいわね。高野晶が現れたのは香織さんの過失にはならないわ。ここまでの経過を聞いている限りでは、高野晶が邪魔をしたとは言え、計画が大きく脱線したとはとても思えないのよね。となると、問題はやはり、茜自身にあったんじゃないの」
 明日香は、明らかな疑惑の眼差しを茜に向けた。
「明日香さんと香織はんからは、頻繁に連絡があったのに、茜からは殆どなかったしな。ハゲに逃げられたとしか。詳細な報告はしたくないやろうが、うちはバケツを届けにこの居間におったから、帰宅したあのハゲからディスコの惨状はよう聞いとるで。随分と茜に苛められたそうや」
 月天も不信感を抱いた顔付きで茜を睨んだ。月天と妹の香織だけは、就寝前の貝塚本人から、本日の悲惨な体験を聞いていた。明日香と月天にも自尊心を傷付けられたが、茜は手に負えない我侭な振る舞いで、踊りの下手な貝塚にヒヨコのきぐるみを着せた挙句、踊りながら頭皮に爪楊枝を刺し捲くって親睦を深めるという、人間の尊厳を無視した暴挙に及んでいたようだ。
「厳しいようだけど、失敗の八割方は茜の自業自得じゃないの。いざこざはあったけど、私と月天さんには大分好感を持ったみたいだし、特別に嫌われたのは人間の接し方をしらな過ぎる茜だけだものね。私は詳しい話を聞いてないけど、そのディスコでの過失は致命的だわ」
 明日香の残酷な結論に茜はたじろいだ。現実として、計画の目立った失敗は、茜が独断と偏見で改稿を加えた部分ばかりだ。しかし茜は、人間性に欠落のある月天と明日香にさえ貝塚が興味を示したこともあり、自身の過ちを認めようとはしなかった。
「茜は悪くない。もし仮に、百万歩譲ってそうであったとしても、高野晶の出現は月天と明日香に責任があるわ。いえ、月天流お仕えの蛙というべきかしら」
 協力者の内情を隅々まで把握している茜はにやりと笑った。
「確かに蛙ちゃんはうちのもんや。せやけど、責任とってうちが殺したからもうええやろ。失敗の大部分は茜にある以上、いつまでもあの子のこと引っ張らんでくれんか」
 月天は悲愴めいた顔付きで責任の矛先を変えようとした。蛙の抹殺を後悔しているようなその口振りを、明日香は不思議そうに聞き入っていた。快楽で人を殺せる月天なのだが。
「そうはいかないわ。月天が高野、いえ蛙を殺害した報告は全体連絡で伝えたと思うけど、実は遺体の方は未だに発見できてないのよ。それどころか蛙の痕跡を示す証拠さえ何一つ残ってなかったわ」
 初めて明かされた事実に協力者一同の顔が凍り付いた。顕著な表情の変化を示した月天は息を呑み、愛情に飢えた蛙の視線を思い出して身震いした。
「痕跡すら残ってないのは異常ね。自ら名乗りでた相手が証拠隠滅するのも考えにくい。飛散した血液と肉片を元通りに戻し、肉体を粒子状に散らして逃亡したというなら、有り得なくもないけど」
 月天も薄々は感付いていたのだろうが、明日香は蛙の正体に検討が付いた。明日香と同じ結論に辿り着いた茜は、椅子に寄り掛かった鰐皮の鞄の蓋を開き、二枚の資料を取り出した。
「これは極秘に調べた、音羽木葉と蛙に関しての資料よ。木葉には大切な人を奪われた恨みがあるから、随分前から調査していて、目撃情報が入る度に記録を取っていたの。蛙は月天流に在籍していたから調べたに過ぎないんだけどね。資料を見比べて貰えれば、二ヶ月前の殺し屋五百名を支配下に置いた大量虐殺を最期に木葉の消息は途切れ、その二日後に蛙が月天流に弟子入りを志願していることが分かるわ。偶然一致した可能性もあるけど、蛙が現れてからというもの、木葉は全く表沙汰に現れなくなっているのよね。他にも怪しい点がある。先日この市内で発見されて話題にもなった三百七十四人もの斬殺死体についてよ。未だに犯人の検討すら付かずに迷宮入りしてるけど、被害者の身元を割ってみると、全て木葉の傘下に下っていた殺し屋の連中だったことが分かったわ。三百人以上の殺し屋を一夜で殺せる荒業が可能な人物は限られてるわよね。そして肉体が消えたとしか思えない今日の蛙の消失、木葉が姿を消して移動する能力を持っているのは、あんた達も知ってるでしょ」
「要するにお前は、蛙ちゃんが木葉やとでも言いたいんか。蛙ちゃんはうちに愛を打ち明けたんや。うちと明日香さんを殺そうとしてた木葉がそんなこと言う筈ない。うちが本気で殺しに掛かったのに、全く敵意を向けずに黙って倒されるなんてことするわけないやろ」
 月天は語気を荒げて必死に反論した。黙って二枚の資料に目を通している明日香の口からは、溜息が洩れる。二人とも逃れられぬ木葉の襲来から逃避したい心境は同じだ。
「苦しいわね、不可解な点は幾つか残ってるけど、同一人物としか思えないわ。もしかしてあんた達、木葉を味方に付けて茜に復讐しようとしたんじゃないの。そうよ、きっとそうだわ。だから完璧な計画が失敗したのよ。あんた達は真剣に友達を作ろうとしている茜を嘲笑いたかったのよ。だからあんな疫病神を招いてきた。そうなんでしょ、いい加減に白状したらどうなの」
 計画失敗の痛手を引き摺る茜は、被害者意識に駆られて協力者を問い詰めた。
「ちょっと、蛙ちゃんが木葉だという部分は納得してあげるけど、私達が木葉と手を組んでるなんて只の被害妄想だわ。メリットや根拠も薄弱で、言い掛かりに過ぎないわね。それに失敗の原因はどう考えても茜にあるわ。例え蛙ちゃんが木葉であっても、失敗に及ぶような真似まではしてこなかったんだからね。いつまでも責任転嫁してないで、これからどうするか考えたら。あんたまだ、貝塚と付き合う気あるの」
 明日香が反論を交えて話を進めた。発狂していた茜は、途端にしおらしくなり、協力者の顔を気弱に見渡した。
「勿論、あるよ。貝塚には、どうしても茜の大切な人になって欲しいの。今日の失敗は、水に流してあげるよ。報酬も、もっと上乗せしてあげる。だから皆、計画を練り直して、また茜に協力して」
 声を震わせた高飛車な要求だったが、頭を下げた茜の態度は、彼女なりの誠意に溢れていた。
 協力者一同は、茜の素直な行動に驚いていた。各自が返事に困った顔付きになる。
「待って。計画を練り直すなら、生き延びている蛙ちゃん、いいえ木葉の存在を無視できないわ。思い出してもみなさいよ、木葉は貝塚と明日デートする約束をしたらしいじゃない。月天さんに全く反撃しなかったところから、何らかの心境の変化は起きたと考えられるけど、木葉がその気になればいつでも貝塚は殺されるわよ。最悪の場合、ここにいる全員皆殺しにされるかもね」
 冷静に状況を判断した明日香が苦言を呈した。死線を潜ってきた月天であっても、木葉の脅威には太刀打ちできないと明日香は悟っていた。
 己の無力を痛感して、俯いてしまった月天を他所に、茜は自信満々の笑みを零した。
「心配ないわ。木葉については、茜に任せといて。いつ木葉に襲われても対抗できるように、以前からずっと対策を練っていたの。資料に載っている情報収集と供にね」
 木葉の対抗策と聞いて、月天と明日香の目の色が変わった。数少ない木葉の情報を調べて見抜けなかった木葉の弱点を、殺し屋とは程離れた茜が発見したとでもいうのだろうか。
「どないする積もりや茜。あいつに物理的な攻撃はきかへんで」
 尤も木葉の弱点を欲している月天が尋ねた。
「確かにそこが木葉を脅威に見せていた最大の特徴だわ。でも木葉が生物である限り、必ず死は訪れるものよ。肉体の損傷が起こらない生物はいない。すなわち全く攻撃が効かないと生物というのは現実的に有り得ない。それを証明するビデオを持ってるんだけど。高峰、持ってきて」
 茜は玄関口に向かって叫んだ。主人の命が響いて数分後に、巨躯の体を折り曲げて玄関を潜ってきた懐刀の高峰が、右手にビデオテープを持参して居間にやって来た、居間での反省会の様子は、貝塚家の外で待機している茜の部下に監視されているようだ。
 高峰は居間の中央に大型のテレビを引っ張ってきて、木葉盗撮ファイルと記されたビデオテープを画面に映し出した。
 協力者が固唾を飲んで見守る中、モニターに現れたのは、大鎌を振り回して人間の首を狩る、音羽木葉の殺戮場面だった。画面右端の日付を読めば、今から二ヶ月前に行われた大量虐殺の日付と重なる。
「これは我が宮崎が派遣したカメラマンが捉えた、木葉が動いている世界にたった一本しかない貴重な映像です。音羽木葉を率いた、殺し屋五百人による北京での大量虐殺の模様ですが、皆さんにまず見て欲しいのは、病的ともいえる木葉の戦い方です。返り血を浴びないように気を付けているのが、すぐに御理解頂けるでしょう」
 高峰は指し棒を手に取り、大鎌を伸ばして遠方から人間の首を刎ねている木葉を指した。木葉の大鎌は三メートルにも及び、鎌の間合いから人間を殺害した場合、木葉自身に殆ど返り血は付着しないようだ。高峰は、木葉が大鎌を愛用しているのは、返り血を浴びたくないがためだと付け加えた。
「言われてみればそう見えるけどさ。木葉が返り血を嫌う理由は何なの」
 返り血を一向に浴びない映像を見つめながら、明日香が代表して質問した。
「それは次の映像を御覧頂ければお解かりになるでしょう。現在の映像を頭に描きながら、木葉の動きに注目して下さい」
 高峰は早送りを押して次の画面に切り替えた。モニターには殺し屋が誤って手榴弾を投下した映像が流れる。手榴弾は木葉の目の前に転がり落ち、木葉もろとも周辺の人間を粉砕した。爆破による木葉への損傷は見受けられなかったが、四方八方から飛散する血飛沫に、木葉の全身はたまらず返り血に塗れていた。高峰は、この先の映像を注視して下さいと訴えかけた。
 協力者の顔が驚きと興奮に包まれた。先ほどまで芸術的な殺人を繰り広げていた木葉の動きが、返り血を浴びた辺りから急激に鈍くなっている。それは戦場を優雅に跳ね回る蝶が羽をもがれて、愚鈍に地を這う芋虫への退化に等しかった。心なしか、木葉の荒い息遣いが画面から聞こえてくるようでもあった。
「明らかに動きの質が変わった。これなら三下の殺し屋とええ勝負や」
 並居る強者と対峙してきた月天が、殺し屋としての見解を述べた。高峰は協力者の納得した表情を眺めて頷いた。
「我々はこの現象を分析してみました。その結果、木葉の体細胞が血液に拒絶反応を示し、凝固したものという結論に至ったのです。この結論に至った前提には、木葉が人間ではないことを証明しなければなりませんが、木葉が肉体を粒子状に散らし、再び結合して肉体を取り戻す点から納得頂けるでしょう。我々は木葉を人間だとは考えておりません」
 月天は咄嗟に明日香の顔を見た。宮崎の結論は、以前に推測を発表していた明日香と同じ仮定が前提にあるようだ。
「血液に含まれる何らかの成分に反応したというわけね。映像を見る限りでは、服に覆われた部分まで血液の影響が及んでいるようね。まるで服まで自分の肉体みたいに」
 明日香は嬉しそうに見解を述べた。木葉を打倒できる可能性に気分は高揚していた。
「仰る通りです。恐らく木葉は、衣服を含めた全身全て、特殊な細胞で構築された生物かと思われます。サーモグラフィーを通して木葉を見ると、木葉の体温は常に一定の十五度で保たれており、激しい運動を起こしても変動することはありません。しかし血液を浴びた途端に五十度近くまで上昇することが解りました。これは細胞が血液を嫌っている何よりの証拠であり、木葉の細胞は無機質なものではなく、生物活動を行っていることがわかります」
「木葉の素性の方は解明できてないわ。だけど、木葉の細胞が生きている限り、必ず死滅する手段はあるということよ。血液のどの成分で凝固するかは、木葉を始末した後に調べるとして、当面は血液を大量に浴びせるに最適な兵器を用意して、木葉に対抗するわ。既に兵器は完成してるし、明日のデートで木葉が現れるようなら早速使ってみる。最低でも瀕死の状態まで追い込めれば、退散するだろうしね」
 茜と高峰は説明を終えて微笑を浮かべた。明日香は半分納得した様子で感嘆の唸りを上げる。
「血液だけで死滅させれるかどうかは実際に試す必要があるのね。まあその線を信じるしかないわね。血が嫌いな只の殺人鬼なら助かるんですけど」
 月天は木葉の映像を真剣に見つめながら、蛙と対峙した墓地での光景を思い返していた。
「でも蛙ちゃんは、うちに殴られて血塗れになっても嬉しそうやった。自分の血液やから平気やったかも知れへんけど、血を嫌う割には、間合いの短い小太刀を武器に使ってるのも疑問や。蒸し返すようで悪いけど、木葉と蛙ちゃんはほんまに同一人物なんやろか」
 声を落として意見を述べた月天は、答えを求めるように高峰と茜を見つめた。
「不可解な点はある。同一人物だという、明白な証拠もない。でも別の人物である可能性を考慮する必要はないわ。相手が木葉以外の人間なら、それこそ簡単に倒せるでしょ」
 目的に忠実な茜の答えに月天は顔を曇らせた。蛙が木葉と無関係な人物であるなら、殺さずに済む方法を月天は模索していたからだ。
「それで、木葉はあんたに任せるとして、私達はこれからどう動けばいいの。計画を練り直すまで待機してればいいのかしら」
 明日香が月天の気を知らずに本筋を進行させる。茜は片眉を上げて腕を組み、暫く考え込んだ後で、今後の方針を告げた。
「貝塚剛友人計画を練り直す間、木葉と思わしき蛙は何らかの接触を図ってくる筈だわ。そこで、皆には貝塚の護衛に当たって貰うことにするわ。特に明日は危険だから、全員貝塚に同行して頂戴。茜も木葉迎撃用の兵器と部下を連れて尾行させて貰うわ。蛙がのこのこ現れた場合は、月天、あなたが蛙を貝塚から遠ざけて説得してみて。蛙が月天に好意を抱いているなら、平和的な解決も望めるかもしれないしね。戦いを望むようならこっちで血液を浴びせてみるわ」
 茜が即席で考えた方針に、協力者の大半は頷いたが、明日香だけは異を発した。
「駄目よ、賛成できないわ。要は月天さんを囮に使うってことでしょ。蛙ちゃんは殆ど黒なんだし、説得するだけ時間の無駄。何より私達を平気で危ない目に遭わせようとするあんたのやり方が気に食わないわ。元より死の危険を犯してまであんたに付き合う義理もない。悪いけど、私と月天さんは計画から抜けさせて貰うわ」
 激しい口調で言い切った明日香は打算的な笑みを浮かべた。月天はその顔で明日香の本音を読み取った。明日香は木葉が登場した時点で計画を下りる意志を固め、茜と木葉を対決させて潰し合わせようと考えていた。仮に茜の策が失敗に終わろうとも、火の粉が降り掛からない距離まで離れていたいのだ。
 茜は面食らった様子で、返す言葉に窮していた。協力者の了解は得れたものだと、安心しきっていたせいだ。
「じゃあ、月天も護衛してくれるだけでいいよ。蛙が現れたら、こっちで対処するからさ。抜けるなんていわないで協力してよ。私達、友達じゃない」
 機嫌を取り繕うとする茜に対して、明日香はわざとらしくそっぽを向いた。どちらも目的に忠実だ。
「すいません。私からも、お願いしていいですか」
 今まで黙っていた香織が沈黙を破った。居間にいる全員の驚いた視線が向けられる。
「いくら借金があるとはいえ、兄を売って計画に協力した私が頼むのは、虫の良すぎる話かもしれません。けど、私はどうしても兄に死んで欲しくない。あいつは凄く駄目な奴で、皆さんも同じように感じたかもしれません。それでも、あいつはたった一人の兄妹で、私にとって、かけがえのない存在なんです。お願いします、月天さん、明日香さん、あいつを護衛する件、引き受けてくれませんか」
 香織は兄を想う純粋な心で協力を嘆願した。明日香の顔が迷惑そうに引き攣る。
「心配せんでええよ香織はん。うちは計画を下りへん。茜が貝塚と結ばれるまで、とこんと付き合うたる。ただし、一つだけ条件がある」
 月天は決意めいた顔付きで勝手に決断を下した。隣に腰掛ける明日香の顔が異常なまでに険しくなる。
「条件って。報酬なら幾らでも上乗せするわよ」
「報酬の問題やない。もし明日、蛙ちゃんがデートに現れた場合、うちに説得を任せてくれへんか。つまり、お前がさっき言うた作戦通りにさせてくれることが条件や」
 蛙を殺めたくない甘さが災いして、月天は身を危険に晒す覚悟を決めていた。怒りを烈火の如く燃え上がらせる明日香には、月天の心中が到底理解できないだろう。
「ありがとう、月天。よし、これで話はまとまったわね。皆には貝塚の護衛を頼むわ。今日はここで仮眠を取って、明日は貝塚に同行して頂戴。茜は一旦お家に戻って、戦いの準備を整えてくる。心配することはないわ。木葉は必ず茜が仕留めてみせるから」
 計画に反対した明日香に言い聞かせるように茜は告げた。明日香は不満げに顔を強張らせて月天を睨み付けていたが、茜は過半数の意見を優先して反省会を終了させた。「今日は集まってくれてどうもありがとう。また明日会いましょうね」
 高峰を先頭に茜が貝塚家を出払うと、居間に重い空気が張り詰め出した。香織はそっと席を立ち、「あの馬鹿のためにありがとうございます。私、お二人のお布団を敷いてきますね」と告げて、逃げるように客間へ入った。取り残された月天と明日香は、十分間もの間、無言の睨めっこを繰り広げていた。
 釈明を求める明日香の顔を見つめながら、月天は思いを巡らせた。明日香という最愛の友は、自分の命と月天の命を最優先する慎重な人物だ。その次に優先される金銭に釣られる傾向はあるが、勝算のない音羽木葉相手では、流石に保身の方を選んだのだろう。月天は、彼女が怒れる理由を十分に承知していた。
 だが、明日香には月天が茜の算段に乗った理由がさっぱり理解できない。常に目先のメリットを考える彼女には、友をも危険に晒す愚行としか映らない。
「どうしてなの」
 やがて痺れを切らした明日香が問い詰めた。月天は緊張を解かそうと大きく息を吐いた。
「大丈夫、明日香さんには迷惑かけへん。絶対にうちが守るから」
「だからどうしてなのよ。木葉が目前まで迫ってるのよ。幸いにも茜が木葉とやり合ってくれるんだから、その間に遠くまで逃げておくべきよ。今戦っても勝ち目がないのは、実際に戦ったあんたが一番よく分かってるでしょ」
 突き付けられた明日香の正論に、月天は下唇をぐっと噛み締めた。
「勝てる。勝ってみせる。うちかて着実に強くなってるんや、例え蛙ちゃんが木葉でも、勝ち目はあるよ。それに、茜が言ってた返り血のこともある」
 月天の返答に心底驚いた明日香の瞳孔が開いた。
「なにそれ、あんた、茜をあてにしてるの。あんな奴を頼るなんてどうかしてるよ。正気なの月天さん」
 明日香が月天の肩を揺さ振って訴えかける内に、月天は臆病に目を背けた。そして重い口振りで呟いた。
「明日香さんは見下してるやろうけど、茜もうちと同じで、孤独に生まれ育った可哀想な奴なんや。香織はんにしても、あのハゲにしても、社会的にみれば弱者かも知れへんけど、一生懸命に生きようとしてる。それに蛙ちゃんだって木葉と決まったわけやない。うちを慕ってくれてるだけならまだ、救えるかも知れへんやろ」
 余りの衝撃を隠し切れず、明日香の顔が凍り付いた。月天が他人の命を考えているなど、予想だにしていなかった。
 二人の間に再び重い沈黙が訪れた。言葉に詰まった月天は、悲しげな顔付きで遠くを見ている明日香を見つめていた。
「情が、芽生えたの。そんなの、今更過ぎる。今まで散々人を殺してきたくせに、ヨウイチまで殺して私を守ってくれたのに、今更他人を思い遣るなんて虫が良すぎるよ。月天さん、あなたは私が無事ならそれでいい人だよね。あなたは、私を守るために強くなったんだよね」
 明日香は席を立ち、暗闇を映し出す窓の外を眺めながら言った。怒りのためか、背中が小刻みに震えている。
「勿論、明日香さんを最優先する。うちにとって明日香さんは、かけがえのない大切な人やから」
「嘘つき、私を想ってくれてるなら、危険を犯してまで他人を助けようとはしない。私だけの命を考えてくれているなら、絶対にそんなことはしない」
 月天の必死の弁明にも、明日香は窓から振り返って反発した。
「お願いや明日香さん、うちのこと信用して欲しい。何も無謀な挑戦やないんや、相手が木葉でも勝ち目はある。明日香さんは今まで通り、安心して見守ってくれたらええ」
 席を立った月天は、明日香に歩み寄って壁に手を着き、不安を振り払うように説得を試みた。
「また嘘をつく。震えてるよ、月天さん」
 明日香は死の恐怖に震える月天の臆病な顔を見上げた。明らかに言動とは異なる不安げな顔。
「はあ、思えば、こうなるのも必然だったのかな。月天さんは、殺し屋に向いてなかったのかもね。気分任せに殺人をこなしながらも、落ち込んだり、罪悪感に苛まれたことが何度もあったわね。正義感とか、善悪に頓着はないようだけど、月天さんは十分に人間らしい心を持った人だった。私を慕ってくれたのも、きっとそのお陰ね」
 月天との思い出を振り返る明日香の目には涙が溢れていた。月天はその涙の意味するところがわからず、胸を締め付けられる嫌な感覚に陥った。
「明日香さん」
 月天は真意を聞き出そうとするも、明日香は玄関へと歩き出した。
「明日香さん」
 追い縋る月天が大声で呼び掛けた。丁寧に靴を履いている明日香は、月天に振り返って笑顔を作った。
「私は計画を下りる。できれば月天さんと一緒に逃げたかったけど、もう止めないわ。無理に殺し屋にして、月天さんの人生を台無しにしてごめんなさい。これからは、月天さんの好きに生きて」
 明日香の笑みには寂しげな翳りが差していた。明日香の頬を伝い落ちるのは、今生の別れを嘆く涙だった。
「うちは、うちは何も後悔してないよ。明日香さんと出会えて良かった。殺し屋になって本当に良かった。お陰で、明日香さんとの楽しい思い出が一杯。うちが今まで生きてこれたのは、全部明日香さんのお陰なんや。だから、そんなこと言わんといて。うちは絶対に、生きて帰ってくるって約束する。だから、そん時はまた、仲良う一緒に暮らしてな」
 月天は泣きそうに顔を歪めて気丈に言い放った。明日香は頼りない月天の顔付きを名残惜しそうに眺めてから、小さく頷いた。緩慢な動作で玄関の扉に手を掛ける。
 貝塚家の扉が夜風を通して、すぐに閉ざされた。明日香を見送った月天は、拳を握り締めて立ち尽くしていた。他人を思い遣り、尚且つ明日香を守り通す選択を選んだ責任を噛み締めるように。
「月天さん、お布団敷けましたよ。後三時間ぐらいしか寝れませんけど」
 二人を覗き見していた香織が、頃合を見計らって出てきた。いつしか強張っていた顔を月天は溶かして、愛嬌のある笑顔を送った。
「ありがとう香織はん。ほな、明日に備えて一眠りしよか」
 月天の笑顔に和まされて、香織は安心したような笑みを作った。月天を客間へと案内して、自分の部屋へと戻っていく。
 照明を落として、布団に潜り込んだ月天は寝付けなかった。木葉との対峙を恐れて不安で仕方なかった。時折、頭を掠める明日香の笑顔を思い出して、月天は堅く目を閉じた。最愛の彼女を想えば、月天はどんな苦難にも立ち向かえる勇壮な気分になれた。
「きゃははははははは、あはははははははは」
 ふと外から、誰かの狂乱した笑い声が響いてきた。だがそれは、瞼の裏に現れた木葉の幻像と戦っている月天には、耳を傾ける余裕のない、深夜の喧噪に過ぎなかった。
 
 四
  
 深夜四時。地上三十メートルに及び、それも一般人は進入不可の高速道路を走行していた頃、運転手のサングラスに、赤い炎が照り付けた。
 サングラス越しでも視認できる大規模な火事だった。火災の現場を最初に目撃したのは、十台連なった豪勢なリムジンの、先頭の運転手だった。
「まさか、あれは」
 運転手が事の重大さに気付くまで数秒を要した。火災の現場となっているのは、紛れもなく宮崎の大豪邸だった。西洋の城を模した作りの豪邸は、強固な壁の至る所に巨大な穴が開き、穴から火柱が噴き上がっている。今から鎮火の作業に入っても、全体が燃え尽きるまで火の勢いは衰えそうにない。
「茜御嬢様、大変で御座います」
 運転手が無線機を手に取り、最後尾のリムジンに連絡を取った。最後尾には血液を散布する兵器を取りに戻った茜が乗っている。
「なに、今二人でポーカーしてんのよ」
 茜が不機嫌そうに返事を返した直後だった。強烈な突風が前方から吹き付け、十台のリムジンを一度に停車させた。強制的に停車された十台のリムジンは、玉付き事故の要領で一箇所にまとめられた。
「なに、何なのよ」
 高峰と対面でポーカーに興じていた茜は、乱暴な運転手に向かって怒鳴り付けた。七メートル近く距離のある運転席は、最後部の茜からは離れ過ぎていて死角になっていた。快調に車を飛ばしていた運転手は、先ほどの突風と同時に肉塊と化していた。鋭利な刃物によるものか、首から上を刎ねられた鋭利な断面を覗かせている。
「茜御嬢様、どうやら只事ではなさそうです。私が外を見てきます」
 まだ運転手の生死の確認を取れぬ内に、懐刀の高峰が扉を開けて外に出た。そして今更、高峰は深刻な事態を察した。
 突風の影響が成せる業なのか、十台のリムジンの屋根が根こそぎ切断されていた。全長八メートル近い屋根の残骸が、後方の至る所に散開している。更に高峰は前方の車内を覗き込んだ。茜が乗っていたリムジン以外の九台には、屈強な部下が十人以上乗り込んでいた。いずれの部下も実戦経験豊富な兵だったが、高峰が覗いた車内の人間は肉片を散らして全滅していた。追突事故の影響ではなく、やはり鋭利な刃物の断面が随所に見受けられる。
「遅かったな、待ちくたびれたぞ」
 声は、突如として現れた。高峰は咄嗟に懐の拳銃を握り、炎上する大豪邸を背後に立ち尽くしている女に銃口を向けた。
 高峰は大豪邸の火災より早く、その女の正体に気付いた。尻に差した二刀の小太刀を武器とする強者、墓地で姿を消した月天流の蛙だった。
 蛙は残忍な笑みを浮かべていた。月天には見せなかった非道な殺人鬼の本性だ。蛙の両手には宮崎の部下の血を吸った小太刀が握られている。蛙自身も返り血を浴びて真っ赤に染まっていたが、返り血による影響は顔に表れていない。
 高峰は神に祈るでもなく、銃口を蛙に向けた姿勢を保っていた。冷静に状況を判断した結果の行いだ。対峙した瞬間に本能が察する蛙の底知れぬ力量に、高峰は万に一つの勝機もないこと悟った。せめて茜をこの場から脱出させる時間を稼いでおきたい。
「高峰、いつまで待たせんのよ、何かわかったなら帰ってきなさいよ」
 高峰の願いも虚しく、帰りの遅い部下を心配した茜が車内から出てきた。駆け足でこちらへ迫ってくる。
「待ってたよ、茜ちゃん。さあ、こっちへおいで」
 蛙は冷酷な瞳を高峰から茜へと移した。蛙の興味と目的は茜にあるようだ。高峰はその隙を見逃さず、茜の元へと全力で駆けながら蛙に発砲した。
 銃声が深夜の高速道路に轟く。発射された銃弾が二発、蛙の額を見事に貫通していた。脳を貫かれて死に絶えたのか、蛙はもんどりうって道路に大の字になった。だが高峰は決して油断せず、茜を右脇に抱えて最後尾のリムジンに走った。
「あれ、茜のお家がまた燃えてるじゃないの。一体どうなってんのよ」
 茜は漸く大豪邸の火事を認めて声高に解答を求めた。どうやら蛙の存在にはまだ、気付いていないらしかった。
「緊急事態です。手荒で申し訳ありませんがお許し下さい」
 鬼気迫る形相の高峰はそれだけ告げて、茜を乱暴に助手席へと投げ込んだ。すぐに車体を迂回して、運転席に乗り込む。
「ちょっと、何なのよ。ちゃんと説明しなさいよ」
 高峰は巧みに車を反転させ、大豪邸とは逆方向に車を走らせた。訳もわからずに不満を呈する茜に答える余裕はない。
 高峰はバックミラーを小まめに確認していた。蛙の姿が大の字で映り込んでいたが、高峰が瞬きをする間に消えていた。
 高峰は眉をへの字に曲げて、声を出さずに驚愕の表情を浮かべた。バックミラーには蛙の代わりに、投擲されたと思わしき二刀の小太刀が映っていた。
 後輪のタイヤが甲高い音と供に破裂した。その反動で車体は大きく左に傾き、勢い任せに半回転して動きを止めた。窓ガラスに頭をぶつけた茜の悲鳴が車内に響く。
「おい、人間風情が、私の邪魔をするなよ」
 声は目前から聞こえてきた。深刻な事態に気付かなかったも茜も、流石に状況を呑み込んだ。引き離していた筈の蛙がいつの間にか、フロントガラスに張り付いて車内を観察していた。 
「嘘、早すぎる、あんたは明日出てくる筈でしょ」
 茜は現実を逃避するように蛙に叫んだ。蛙は茜の恐怖の表情を眺めて、嫌に嬉しそうな笑みを浮かべる。人間味の欠落した、無機質な爬虫類のようだった。
「茜御嬢様、早く逃げて月天様達に連絡を。ここは私が引き受けます」
 高峰は壊れた無線機を悔しそうに叩き付けて、茜に命令を下した。主従関係を無視した高峰の緊迫した声に茜は圧倒された。それは嘗て音羽木葉に殺されたフェラルドに通じる、心地良い懐かしさを思い起こさせた。
 主を心から慕っている従者の叫びを受け、茜は人心地を取り戻して頷いた。蛙は逃げた茜を横目で見つめながら、フロントガラスに小太刀を突き刺して手首を回転させている。亀裂が全体に走り始めたガラスは、蛙の質量で間もなく崩壊することだろう。
「これ以上、お前の好きにはさせん」
 高峰はハンドルの脇に取り付けた赤いボタンを押した。特殊な改造を施して取り付けたそれは、車体を爆破させる緊急用の自爆装置だった。車外に飛び出た茜に続いて、高峰が運転席ごと上空へと打ち上げられる。
 爆破は瞬時として起こった。半径数十メートルにも及ぶ爆風が、フロントガラスの蛙を捉えて、大豪邸の正面玄関側まで派手に吹き飛ばした。上空でパラシュートを開いた高峰は、風に揺られながら壊滅したリムジンの行列近くに着地する。すかさず車内の後部に詰め込んだ武器を取り出そうとする。
「私の邪魔をするなと言わなかったか」
 爆破による肉体の損傷を受けなかった蛙が、魔性の速さで返ってきた。車内に頭を突っ込んだ高峰の脇を素早く駆け抜ける。ピシュリと骨ごと肉を断った二刀の小太刀に、新しい人間の血液がこびり付く。
「があああああああ」
 獣染みた高峰の悲鳴は、遠方を走っている茜の耳に届いた。蛇行しながら延びている、この数キロにも及ぶ三車線の果てには、電話ボックスを路肩に備え付けたトンネルが待ち構えている。茜はそこへ向かって一目散に駆けていた途中で、足を止めて後ろを振り返った。
 茜は偉大で崇高な自身の価値を誇りとして生きており、危機感と呼べる感情は常人より麻痺している。どれほど窮地に立たされても、権力で金銭で対処できると信じて疑わない。これまでもそうやって臨機応変に対処してきた。
 だがその鈍感な感覚は、切断した高峰の右足を持って目前に現れた蛙に呼び覚まされた。痛々しげな切断面から滴る鮮血を、蛙は美味そうに喉を鳴らして飲んでいる。まるで血は受け付けないと自ら立証するように。
「お待たせ、茜ちゃん。実は以前から後回しにしてた用があってね、今日はその用を果たすために会いに来たんだ」
 蛙は右手の小太刀に刺さった高峰の右足を投げ捨てた。茜の脳裏に木葉と初めて対峙した光景が浮かんだ。大切なフェラルドの生首を大鎌に突き刺した音羽木葉の憎き姿が蘇ってくる。
「あんたやっぱり、音羽木葉なのね。姿は変わっても所詮は下等生物、やることは同じか」
 茜は進歩のない怪物を嘲笑った。わざと正体を明かした蛙はにやけた笑みで歩み寄る。
「今は蛙だよ。両手両足が切れたおたまじゃくしから大人に成長した只の蛙。用件を手短に言おうか、私ね、あんたのエゴが気に食わないのよ。人をゴミのように扱い、親に与えられた権力で人を屈服させるあんたのエゴをね。そしてあんたは私の大好きな月天さんまで支配下につけた。許せない、殺してやる。つまりはそういうこと」
 蛙は歩調を崩さずに用件を説明した。矛盾とも受け取れる、冷酷な殺人鬼の利己主義の批判に、茜は妙に可笑しくなった。
「下らない。あんたそんなことで茜を殺しにきたの。自分の行動は見て見ぬ振りってわけ。あんたが殺した死体の数、数えたことあるの。このゲスめ、茜は絶対にあんたなんかに殺さてやるもんか」
 茜は舌を出して蛙を挑発した。この期に及んでも一歩も引かない勝ち気な茜に、蛙は嬉しそうな笑みを絶やさなかった。
「いいのよ、だって私と月天さんのエゴだけは、認められているんだから」
 言った蛙の姿が瞬時に消えた。動揺して周囲を見渡す茜の背後から、華奢な蛙の腕が伸びて茜を羽交い絞めにした。白粉を塗った茜の顔に自身の顔を迫らせ、味見するように舌を這わせる。
「ああ、最高。これが幾多もの人間を不幸に陥れた利己主義の化身の味なのね。ああ、最高、ずっと殺してやりたかったんだ。この利己主義、自分勝手の塊を。ああ、最高」
 茜は蛇に睨まれた蛙のように、恐怖に取り付かれて身動きできなかった。無機質な瞳の中に垣間見れる冷酷な殺意が、茜の気高い精神を脆くしていき、無意識な嗚咽を洩らさせる。圧倒的な恐怖に支配された茜は、必死に声を抑えて苦渋の涙を流していた。誇り高い茜の尊厳は、まだ保たれている。
「グルグル、グルグル、苦しいんだよ。調子に乗るなよ、このガキが。お前のせいで何人傷付いたと思ってんだ。グルグル、グルグル、見せてやろうか。とっても辛いよ。苦しいよ。グルグル、グルグル」
 蛙は傲慢な態度を崩さない茜の耳を舐めて、優しい吐息を吹き掛けた。涙で潤んだ茜の視界が途端にぼやけていき、淡白な高速道路の景色が瓦解して、別の新しい景色が広がった。
 そこは、養豚場に似ていたが、飼われていたのは全て同じ顔立ちをした人間だった。飼葉を敷き詰めた敷居の中に、ブヒブヒと鳴いている茜の顔をした無数の人間が、所狭しと敷き詰められている。腐った飼料が詰め込まれた餌箱に茜が群がっている。便意を堪え切れないのか、密接する別の茜を気にも留めず、恥ずかしげもなく尿を撒き散らしている。
 茜本人は顔を蒼白させて、養殖の茜とも呼べる飼育場を、ガラスケースのような箱の中から眺めていた。薄っぺらい壁だが頑丈であり、茜が全力で叩いても割れる気配すらない。
「グルグル、グルグル」
 茜の脳裏に蛙の声が囁いた。或いは本来の世界から囁いたのかもしれない。
 飼育員の服装をした男達が、鋭利な歯車が先端に付いたノコギリを持って入ってきた。数十人はいるだろう、彼らは入ってくる傍から一人ずつ、無機質な笑みをガラスケースの茜に送った。挨拶を済ませた者から順番に敷居の扉を開けて、手近の茜の髪を乱暴に引っ張り上げた。
 ブヒイという甲高い悲鳴が一斉に沸き上がった。敷居の中の茜達は、蜘蛛の子を散らすように這って逃げていく。飼育員は逃げた茜を片っ端から捕まえて、歯車の先端を押し当てた。
「グヒイイイイ、利己主義のほうかいいい」
 至る所で電動のスイッチが入れられ、茜の奇妙な断末魔が響き渡った。高速で回転する歯車が茜の肉体を抉っていき、肉片と鮮血が飼葉に飛散する。眼球だけを刳り貫かれた茜や、両足を切断された茜、生首にされた挙句、顔の半ばまで歯車で抉られた茜など、多彩に趣向を変えて苛められている。飼育員は茜を歯車で傷付ける度に、本物の茜に極上の笑みを送ってみせる。
「茜ちゃんが見ているの君自身が犯してきたエゴ。君は大勢の人たちをこんな風に変えてきた。助けを求められても、君は笑うだけだった。グルグル、グルグル」
 蛙の声がまた、茜の脳裏に囁きかける。放心状態になった茜の視界がぼやけていき、別の景色に入れ替わった。
 砂嵐が吹き荒れる殺風景な大地に、茜は十字架に張り付けにされていた。見渡す限り茶が混じった砂地が広がるだけで、人っ子一人見当たらない。茜はその景色で百五十年もの間、孤独な時を過ごした。
「君は四歳の少年を砂漠に捨てて餓死させた。グルグル、グルグル」
 百五十年後に蛙の囁きが脳裏に響いてきた。空腹は頻繁に訪れていたが茜は生きていた。不思議と年齢も元の十代を保っている。精神の崩壊をきたしたのか、自尊心を象徴する赤髪は萎れて、意味不明な呪詛の言葉を呟いている。百五十年見慣れた景色が、やっと別の景色へと移り変わった。
 今度は薄暗い地下室だった。茜は粘土状の壁に張り付けにされていた。秘部を晒した全裸に剥かれ、両手両足を金具で固定されている。鉄板が敷かれた部屋の隅を見ると、多彩な拷問器具を取り揃えた網棚が見受けられる。
「グルグル、グルグル」
 部屋に誰かが入ってきた。茜は顔を上げてその人物を虚ろに眺めた。細長い足が自慢の西洋の男性、彼は鬼籍に入った筈のフェラルドだった。
「フェラルド、助けて」
 茜は掠れた声でフェラルドに助けを求めるが、彼は涼しげに首を振って拒絶した。彼の背後にいる茜そっくりの女性が、網棚から鉄串が入った筒を取り出してくる。
「きゃはははは、茜が遊んであげるう」
 茜そっくりの女性は奇声を発して、鉄串を本物の茜の腹部に突き刺した。腸が掻き回されるる激痛に茜は悲鳴を振り絞る。そっくりの茜は悲鳴に興奮して、鉄串を無邪気に突き刺してくる。その度にフェラルドの顔まで愉悦に緩むのだ。苦しいよ、恥ずかしい、死にたいよ。茜は声にならない苦悶の叫びを心の内で叫び続ける。
「君は、沢山の女性を辱め、拷問に掛けた。グルグル、グルグル」
 景色が矢継ぎ早に入れ替わる。実際にはコンマ一秒も経っていない時の中で、茜は何千回と地獄の体験を繰り返した。ある時は大好きな父親に首を切断され、とある時は貝塚剛と出遭った瞬間に刺し殺された。悪夢のようなそれらの出来事は全て、茜が僅か十年余りの人生で行ってきた非道な行いを再現していた。今度は自分が、被害者側となって。
「彼らが君の眼球に小さな穴を開けて内部に侵入し、網膜に別の像を結ばせる。鼓膜には外部の音が入らぬよう、彼らの細胞で塞ぎ、映像に合わせた音だけを送ってやる。それが幻覚の原理。だけど君が見ているのは現実。脳が今現在感じているもの、人はそれを現実だと呼んでいる」
 永久にも感じられた悪夢に終わりが訪れた。茜は高速道路の景色を網膜に結んでいた。疑心暗鬼に陥った茜は、ここが現実だと思っていないだろう。苦痛が待ち受ける景色が入れ替わったに過ぎないのだ。
「もう嫌だ。ねえ、殺して。死にたい、楽になりたいよ。茜が悪かったよ。許して、ごめんなさい。お願い、殺してよお。死にたい、死にたいのお、お願い、早く、早くしてえ」
 蛙を認めて発狂した茜は死を求めた。嗚咽で崩れたその顔には、自信に満ち溢れていた嘗ての面影が完全に消え去っている。だが被害者となって自己の悪行を見つめ直したわけではない。苦痛から逃れたいがために死を訴えているのを蛙は察していた。
「駄目だよ、君は何も望んじゃいけない。これ以上のエゴは許さない。私が殺したい時に君を殺す。君が望んだから殺すわけじゃない。私が望んだから殺す。お前は、私のエゴで殺されろ」
 蛙は意地悪な笑顔を浮かべて、左手に小太刀を握り締めた。左手を振り上げて、茜の頭頂部に振り下ろそうとする。
 だが蛙は目の端に捉えた男を認めて腕を止めた。男は蛙の小太刀で右手と左足を切断された高峰だった。散弾銃を杖代わりにして歩き、背中にはバズーカ砲を背負っている。
「やっと現れた。生かしておいて正解だったかな」
 蛙は高峰の登場を予期している口振りだった。出血多量で瀕死の高峰は、背中のバズーカ砲を取り外して、道路に片膝を着いた。引き金に指を添え、砲口を蛙へと向ける。
「茜御嬢様、お逃げ下さい。あなたの命は私めが必ず守ります」
 高峰は声を限りに振り絞って茜に訴える。茜を心から心配するその声は、虚ろに死を訴える茜の目に僅かな生気を宿した。幻覚では登場しなかった高峰と、元いた高速道路の景色に視線を這わせて、茜はここが現実であると認識することにした。
「高峰、逃げて。茜のことなんていいから、早く逃げてえ」
 茜はこの現実を守りたいと強く願った。高峰と再会して、茜本人も今まで見逃していた胸の内に漸く気付いたのだ。茜は忠義を尽くしてくれる高峰に淡い恋心を抱いていたことに、嘗てのフェラルドがそうであったように、茜にとって高峰は、かけがえのない大切な人だった。
「駄目駄目、君のエゴは許さない」 
 蛙は茜を乱暴に投げ捨て、バズーカ砲を握り締める高峰に突進した。二刀の小太刀を振った脅威の速度は、高峰に引き金を引く間すら与えなかった。
「いや、いやあああああ」
 残酷な現実を目の当たりした茜の悲鳴が響き渡った。一気に距離を詰めた蛙は、小太刀を交差して高峰の首を薙いでいた。唖然とした顔が胴体から離れて優雅に宙を舞っている。茜が気力を振り絞り、高峰の元へと駆け寄ってくる。
「酷い、酷いよ。高峰は何も悪いことなんてしてなかった。茜のために、命を掛けて働いてくれたのに。どうして、どうして、こんな目に遭わなきゃいけないのよ」
 蛙は高峰の遺体を抱き留めて深夜の空に叫んだ。大切な人間を再び奪われた悲しみが押し寄せ、少女の脆弱な胸は張り裂けそうだった。
「だってしょうがないじゃない。茜ちゃんのエゴは認められていないんですもの」
 失意に暮れる茜を見下した蛙が、諭すように告げた。茜は泣き顔を上げて、満面の笑みを張り付かせた蛙を睨み付けた。
「あんたが一番の悪党じゃないの。善良な高峰の命を奪った、あんたの何が許されるのよお」
 憎悪に燃え滾った茜の叫びを、蛙は笑みを崩さずに平然と受け流した。茜の右足に小太刀を振り下ろす。
「ひぎ、いたあああああ」
 小太刀は右足の甲を貫いて地面に突き刺さった。金切り声染みた茜の悲鳴が上がる。
「私のエゴはね、私を構築する彼ら五千人が許してくれたの。人間を苛めていい、人間を殺していい、人間の命を私が司っていい。人間のエゴに殺された彼らに認められた私のエゴは正当化され、私の行為は全て正義となる。そう、私のエゴは私だけのものじゃないの。五千人の人が望んでいることなの。御理解頂けた」
 茜を地面に固定した蛙は立ち上がり、左手の小太刀を素早く振った。
「ぐえっ」
 無情な小太刀の刃が茜の喉を貫いた。蛙はすかさず手首を回して刃を回転させ、刃の根元まで念入りに突き刺した。茜の肉を食い破った刃の先端が背後に飛び出した。
「バイバイ、茜ちゃん」
 蛙は堪能するように返り血をたっぷり顔に浴びてから、小太刀を引き抜いた。返り血を重視した茜の策は外れたようだ。
 茜は茫然と立ち尽くして、眼球を裏返していた。喉を貫かれた痛みによるショック死だった。大金持ちの娘として、必然的な利己に走った茜の肉塊は、高峰の袂に転がった。
 生物活動を終えた茜は混濁した虚ろな目をしていた。二度とエゴを欲せない茜の末路を、蛙は笑いを堪えて、暫く眺めていた。
 やがて蛙は、茜が装着したカツラを外して、更に茜が纏っていた衣服を全て脱がした。
「ふふ、あは、あはははははは。私はエゴイスト、皆に認められたエゴイストー、きゃはははは、あははははは、エゴイストがエゴイストを殺した。あは、最高、最高だよー」  
 遂に笑いを爆発させた蛙は、全裸に剥いた茜を背負い、高速道路を全速力で駆け出した。途中から右手の小太刀で茜の綺麗な頭皮を突き刺し、茜の肉塊を玩具のようにぶら下げている。
「きゃははははは、見て見て、茜ちゃん死んでるよ。きゃはははは、エゴイストの末路を見て見て。ちゃんと苦ませて殺したんだからあ。誰でもいいよ、見て見て、茜ちゃんの死体見て見てー」
 高速を下りた蛙は、一般道路に突入した。深夜の街並みを練り歩く人間に茜を披露するが、全力で走りながらなので、影も形も捉えられてはいない。
「きゃははははは、人間を殺すのって楽しいよお。エゴが叶うのは最高、最高だよお。皆、見て見て、茜ちゃんが、死んでるよー」
 蛙は無邪気に跳ね回りながら、月天流格闘術が門戸を構える繁華街を通過した。蛙が向かっている先は貝塚家だった。
「きゃははははは、あはははははははは、エゴって楽しいー」
 人間のエゴによって虐殺され、五千人分の憎悪が寄り集まった反逆の怪物は、貝塚家の屋根に登って快哉を叫んだ。利己的な人間を殺めることが、彼女の至上の快楽だ。
 貝塚家の玄関先で、てるてる坊主にされた茜の死体が発見されたのは、それから暫く後のことである。
 
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