第二話 震動

 

 
鼻を突く饐えた匂い。
小型の冷蔵庫の容量を超えるほど敷き詰められたヤクルトの容器は溢れ返り、六畳のワンルームの室内に散乱している。
拭いたことのない埃被ったテーブルに、掃除機が通ったことのない一面に敷かれた絨毯は、零れたヤクルトの溶液で滲み付き、絨毯には煙草の灰が被った缶コーヒーに賞味期限の切れた食べかけのアンパンやカレーパンが合わせて五十個近く無造作に転がっていた。これらが悪臭を放つ主な元凶だ。
「深町のお姉はん、出前取ってええかなあ」
可憐な金髪の少女が声をかけた。相手はテーブル脇に置かれたリモコンを操作してテレビを点け、重圧ある黒のブラジャーに、ゴムの伸び切った花柄のパンツで上下を固めた、でっぷりした悲惨な女だ。
女はツキテンを保護観察する目的で引き取った女刑事深町だった。太い手で握られた団扇は絶えず梅雨時の蒸し暑い風を顔に送っている。
「ああ、駄目に決まってんじゃん。小腹が空いたら、その辺のアンパンでも食べてなさい」
背後にいる金髪の少女、ツキテンを見もせずに、深町は拒んだ。
「いややあ、こんなん食べたらまたお腹壊してまうやないかー」
「じゃあ、食べなくていいわ。我慢していなさい」
深町の素っ気無い返事にごねたツキテンは、ベランダのガラスにぴったり着いた、部屋の隅の棚の上に置かれたダイヤル式の黒電話の前で正座していた。都合よく深町の言葉を忘れ、出前可能な各店舗の献立表を一頻り眺め、見栄えのよい色取り取りの具が薄いパン生地に盛られたピザに目を付ける。
「それじゃあうち、このスペシャルミックスピザっての頼んでみるわ」
横になりながら、歌番組に興じていた深町は返事をしなかった。ヤクルトの容器を口に含んでいて、喋れないらしい。
ツキテンがダイヤルを回す擦れた音に気づくと、深町は容器を噴き出し、跳ね起き、止めさせようと駆けた。重戦車を思わせるその突進は、大きな地響きを二度鳴らして、ツキテンの目前で滑りながら止まり、耳に宛がわれていた受話器を強引に取り上げた。
「バカ、本当に頼む奴があるか。さっき、駄目だって言ったでしょ」
深町はツキテンの頭をはたいて、叱り付けた。
「いたっ、なにすんねん、うち、おとうはんにも叩かれたことないんやで」
自身が殺した父への皮肉とも受け取れる反論を述べた。ツキテンの目に諦めの色はない。
「何よ、その反抗的な態度は。第一、あんたがバクバク食べるから食費がかさんでるのよ。わたしがどんだけ貯金下ろしたか分かってんの」
深町はツキテンの胸倉を掴んで睨みつける。深町自身も大食漢なだけに、説得力はない。
「うちは、おとうはんも、おかあはんもおらんようになってしもたんや。独りぼっちになって、淋しいんや。ちょっとぐらい、甘えさしてくれても、ええやないか」
ツキテンは顔を横に向け、喉に指を突っ込んだ。吐きそうな呻き声と供に流れた涙が頬を伝って絨毯に落ちる。深町の顔色が変わった。瞬間、胸を締め付けられるような同情の念に支配されそうになったが、首を振って打ち消す。
「だーめ、それにあんた、未だに事件当時の話してくれないじゃん。もう、一ヶ月経ったのよ。もう、落ち着いてるはずでしょ。もう、話してくれてもいいんじゃないのかなあ」
深町は唇を尖らせて言った。深町の同情を引けないことを学習したツキテンは、思慮を巡らせ、次なる手を考える。
「ねえ、聞いてるの。あーあ、もし、話してくれたら、ピザでも寿司でも頼んであげるのになあ。良い条件だと思わない」
深町は微笑んで言った。餌を撒けば食い付いてくれる自信があった。ツキテンは返事をせず、深町の伸びきったパンツに手をかけ一気に下ろした。
「おや、随分手入れっ」
ツキテンは露になった黒い藪の感想を述べようとしたが、そこで口を塞がれ、頭を小突かれた。
「いい加減にしなさい、誰が養ってあげると思ってんの。あんたはわたしの子供でもなんでもないんだからね。これ以上、悪さしたら、ダンボールに詰めてコインロッカーに捨ててやるから」
深町はパンツを戻し、警察官にあるまじき無責任な言葉を投げかけた。ツキテンは泣きそうに顔を歪めた。
「ごめん、お姉はん。うち、全部話す。悪さもせえへん。だから、出前取ってええやろ」
深町は一瞬戸惑い、浅く頷いた。ツキテンの顔が綻んだ。内心けろっとしていた。
「ただし、ピザならSサイズ一枚、寿司なら並、もしくは、梅以下の盛り合わせを一人前ね」
深松が忠告すると、ツキテンは深く頷いた。後で事件当時の話をするという約束を取り付け、ツキテンはダイヤルを回してチョンボエッグピザという店名のピザ屋に電話をかけた。
コール音が三回鳴り響き、若い男性の店員が応対に出た。
「はい、こちらチョンボエッグピザです。ご注文は何に致しましょうか」
滑舌のよい透き通る声だった。ツキテンは頬を紅潮させ、喉元まで出かかった言葉を詰まらせた。
「ほら、どうしたの。ピザ頼むんでしょ。さっさと言っちゃいなさいよ」
深町が背中を押すように後ろで告げる。その声は電話を介した店員の耳にも聞き取れていた。ツキテンは身じろぎして落ち着かない様子だ。深町は何かを感じ取り、謎めいた笑いをみせて、ツキテンに耳打ちした。男でしょ、惚れたんなら告白しちゃいなさいと言った。するとツキテンは堰を切ったように喋り始めた。
「うち、お兄はんが好きになってしもた。お兄はんを、一つくれへんやろか」
電話はそこで途切れた。いたずら電話とみなされたようだ。
ツキテンは愕然とし、受話器を滑り落とした。後ろで豊満な腹を抱えて笑う深町に視線を向ける。
眉を吊り上げ、きっと深町を睨みつける。瞳は殺意と憎悪で渦巻き、途端に異様に張り詰めた空気が部屋全体を覆った。
「お姉はんが、告白しろっていうたから悪いんや。許さへん、殺したろかあ」
ツキテンは恨めしい声で言った。刹那、深町の全身に戦慄が駆け抜け、厚い脂肪を震わせて蒼白した。ツキテンはハイハイしながら深町に摺り寄る。
「ちょ、ちょっと待った。もう一回電話すればいいのよ。例え、他の人が出ても、さっきのお兄さんがピザ届けてくれるかも知れないでしょ」
深町の苦しい言い訳にツキテンは耳を傾けた。言われてみればそうやな。ツキテンは納得させられた。
「んじゃ、次はお姉はんが電話してんか。また切られたら傷つくさかい」
御機嫌斜めになったツキテンを取り繕うように、深町はダイヤルを回す。緊張と恐怖で受話器を持つ手が震えていた。
 

 
「はい、こちらチョンボ、何だっけ。えっと、チョンボ何とかピザですけど、何か御用でしょうかあ」
応対に出たのは、先程の若い男性店員ではなく、不慣れな若い女性店員だった。
「ちょっとすいません、何が欲しいんだっけツキテンちゃん」
深町は怯えた目でツキテンを振り返る。背後で睨みを利かしていたツキテンは、ぼそぼそと掠れた声で注文を告げた。
「スペシャルミックスピザ、Lサイズで十枚や。はよたのんでんか」
深町は物言いたげだったが、口をつぐんだ。
「あの、スペシャルミックスピザのLを十枚下さい。可能な限り、大至急お願いします」
従順なしもべと化した深町は、ツキテンのご機嫌を伺い、大至急と念を押した。主従関係がすっかり逆転していた。ツキテンは中腰になって、仔猫でも可愛がるように深町の頭を撫でた。
「お姉はん、気が利くなあ」
額の辺りをを五指で掴み、ツキテンは生易しい声をあげた。深町は苦痛に体を震わせた。爪が頭皮に食い込んでいた。若い女性店員は注文を繰り返し読み上げると、三十分以内で届けますと告げて電話が切れた。
「そんで、ほんまに、さっきのお兄はんが届けてくれるんかなあ」
ツキテンは深町の二重顎が上向けになるぐらい頭を圧迫して、ぼそりと言った。
「お、おそらく」
伸びきった首筋が軋みをあげる。首が根元から千切れそうだ。それほどまでにツキテンの膂力は凄まじかった。
期待してるで、と深町の肩を叩いて、ツキテンは手を離した。深町はツキテンに食い殺されそうな恐慌に陥り、一歩も動けなかった。梅雨の蒸し暑さだけが相変わらず続いて二人に汗を流せと急き立てる。ツキテンは少量だったが、深町の汗は尋常ではなかった。
沈黙は、しばらく続いた。
「ねえ、希望通りの注文頼んだんだし、そろそろ、事件当時のこと教えてくれないかなあ」
深町が沈黙を破る。刑事としての使命感が働き、ツキテンに畏怖しながらも訊いてみた。それを知ってか知らずか、ツキテンは毅然と応えた。
「実は、うちあんま覚えてへんねん。夢中で本読んでたら人が一杯死んでたんや。うちがおとうはんを殺したのは覚えてるんやけど」
深町は改めて戦慄を覚えた。一ヶ月前に聞かされた戯言は、罪悪感を感じないツキテンの残忍な性格や圧倒的な力を身を以て体験したことで、くっきりとした現実味を帯びていた。深町は半信半疑ながらもツキテンを信用しようと思った。
「ニュースでやってたでしょ、機内での大量虐殺直後に、中年男性が空港待合室で大量殺人したって話。わたしの勘では、その中年男性が機内でも犯行を起こした同一犯だと思うの。浅井君もそう言ってたしね。それに、わたしは個人的にあんたを罪に問いたくないのよね。警官だけど、なんていうのかな、一ヶ月間共同生活してきた、仲間意識みたいなのが働いちゃって。だからさ、あんたは黙ってなよ。全部そいつに罪を擦り付けて逃げちゃえばいいよ。うん、そうしよう、ねっ」
親切心から出た深町の言葉に、ツキテンはどうでもいいよと言った様子だった。いつしか瞳に渦巻いていた殺意は消え失せ、淋しげに膝を抱えて蹲っていた。
「どうしたの」
張り詰めていた緊張から解放され、深町は心配そうにツキテンの顔を覗き込んだ。深町の顔が曇った。ツキテンは目を赤くして、啜り泣いていた。
「うち、これからどうなんのかなって思って。おとうはんも、おかあはんもおらへんし、知ってることも話してもうたし、お姉はんともお別れせなあかんのかな。それやったら、捕まった方が楽やなあ」
ツキテンの心の叫びは、深町の胸を鋭く抉った。
そして深町は悟った。ツキテンは孤独に怯えるが故に、今まで事件当時の出来事を語らなかった、言えば自分は捕まり、精神病院行きになるかもしれない。表社会との隔離、それは孤独を意味する。幼い少女にとって堪え難い苦痛だろう。思えば一ヶ月間、ツキテンと深町はほとんど会話を交わしてしなかった。ツキテンは無邪気を装ってあっけらかんとしていたが、ベランダから遠くを見つめて黄昏ていたことが何度もあった。親が死に、友達もいない孤独な自分に悲観し、親に連れられ外を跳ね回る子供の姿に嫉妬していたのだろう。
考えれば考えるほど、気づいてあげれなかった鈍い自分、孤独を埋めてあげられなかった無力な自分が嫌になる。
この子を守ってあげたい。
深町はツキテンを守ってあげたい不思議な母性愛に支配された。自分が親代わりになって、ツキテンを教育し、立派な大人に育てようと決意を固める。
「大丈夫、わたしが守ってあげる。ずっと、ずっと一緒だから。あんたは何も心配しなくていいからね」
深町はツキテンの前髪を側頭部に撫で付けた。膨張した太い指の感触に温もりを感じ、ツキテンは笑顔を見せた。
「お姉はん、大好き」
ツキテンは深町に抱きついた。涙を見せないよう深町の腹の肉に顔を埋めた。深町は穏やかな顔で頭を撫でてあげた。
しばらくずっと、撫でてあげた。ツキテンと深町は同棲生活三十日目にして、漸く強い絆で結ばれた。親子のような、深い絆を。
宅配ピザを頼んで、そろそろ三十分が経過しようとしていた。
 

 
外は夜、立ち並ぶ高層ビルは鮮やかなネオンを飛び交わせ、各自の存在感を示していた。
「あのねえ、何なんですか一体。わたしは先を急いでるんです。用がないなら早くその手を離してくださいよ」
町並みに溶け込む清閑な顔立ちの若い青年は、チョンボエッグピザ専用のバイクに跨り、路肩に停車させられていた。ツキテンが恋に落ちた若い男性店員のようだ。横に広がる四車線には、猛スピードで車が脇を走り抜けていく。
「そのピザを何処に届けるんだと聞いてるんだよ。ツキテン、いや、深町の家かな」
彼を無理やり停車させたのは目深に野球帽を被った、三十代後半の中年男性だった。男は地肌の上から直接スーツを着込み、スーツの合間から覗ける筋肉の鎧が男性店員の不安を煽っていた。
「分かりました。言いますよ。はい、あなたの仰る通り、これから深町さんの家に届けに行くんです。これで、もう用は済んだでしょ」
満足のいく回答を得、男は不気味に微笑んだ。男性店員の肘の辺りを掴んでいた手を、強靭な握力で握り潰す。男性店員の肘から下が千切れ落ちた。
「ぎっ、ぎゃっ」
男性店員が悲鳴をあげようとした瞬間、苦悶に歪んだ顔が爆発し、脳と骨と肉と髪がまとめて消し飛んだ。男は懐から長大な銃を取り出し男性店員の頭を撃ち抜いていた。あっという間の恐るべき早業だった。
男は銃口から立ち込める硝煙を吹き消し、男性店員の制服を剥いで、自身のスーツと取り替えた。
「グロリアス、殺す」
男は呟き、痙攣の余韻に浸る死体を蹴り落として、バイクを奪った。
ハンドルを回してエンジンを吹かすその愉悦に歪んだ顔は、人間とは思えない悪魔の形相を浮かべていた。
 

 
「遅いわね」
三角錐の液晶時計を確認して、深町は言った。注文を頼んでから、もう一時間は経過していた。
深町の大きな背中から首に腕を回すツキテンは笑顔だった。深町の分厚い背中の贅肉を口に含んだりして、無邪気に遊んでいた。
たまにブラジャーも外した。それでも深町は怒らず、唇に微笑を湛えて、胸の肉を詰め直した。
「ツキテン、あんたも遅いと思わない」
「うん、遅いねえ。どないしたんやろねえ」
二人に不満の色はなく、明るい声で同調していた。二時間遅れようとも乱れぬ笑顔で互いの顔を見合わ、頬を指で突いたり、ジャンケンしたり、何気ないコミニケーションでお互いの存在を確かめ合った。時は刻々と過ぎていった。
「そうだ、明日釣りに行かない。お魚一杯釣って、一杯食べよう」
二時間が経過した頃、深町が思い付いたように言った。釣りの経験があるわけではなく、単なる食欲から出た言葉だった。
「うん、いきたいなあ」
ツキテンは頷いた。魚介類を食す光景を想像し、口から滴るヨダレを床に散乱していたブラジャーの紐で拭い落とした。
「よし、そうと決まったら準備しなくちゃね。確か、浅井君が得意だって言ってたから、電話して、どんな道具がいるのか聞いてみようかな」
深町は、ダイヤルを回して浅井の自宅に電話をかけた。
コール音が十回鳴り、二十回鳴り、三十回鳴り響いたが浅井は出てこなかった。
「おかしいわね。まだ九時なのに、もう寝てんのかなあいつ」
深町が顔を強張らせて受話器を落とすと、玄関のチャイムの音が聞こえてきた。
ピザ屋だ。ツキテンと深町の思い込んで同時に視線を扉に向けた。ツキテンは慌ててハイハイして扉に擦り寄るが、深町の手が前方を塞いでそれを制した。
「わたしが行くわ。あんたはそこで待ってなさい」
深町はツキテンにウインクをかまして立ち上がり、襖を開けて適当な服に着替えた。
「遅れてすいませーん、チョンボビザです。料金は無料でよろしいので、早く開けてくれませんかー」
玄関の向こうから掠れた男の声が聞こえてきた。ツキテンは若い男性店員ではないと分かって、唇を尖らせた。
深町は愛想笑いでツキテンを和ませたが、何処か違和感を感じていた。早く開けてくれませんかと言う台詞を、遅刻して罪悪感を感じている者が言うだろうか。刑事の第六感が頭に囁きかけていた。
念のため、深町は後ろ手に拳銃を隠し、チェーンをかけて、恐る恐る玄関の扉を少し開けた。
「お待たせしましたー」
それと同時に長大な銃が扉の隙間に入ってきた。深町は目を丸くして、反射的に扉を閉めるが銃口が挟まれて完全に閉まらなかった。
「ツキテン、そこから早く逃げて」
深町は物凄い剣幕でツキテンに叫んだ。笑顔を返すツキテンの頭上を弾丸が掠め、ベランダのガラスが鋭い音を立てて崩壊した。
散り散りになったガラスの破片が宙を舞って、ツキテンの頭上に降り注ぐ。ツキテンは無意識に横に転がりそれを躱した。
「あらあら、危ないねえ」
ツキテンは笑っていた。危機感を全く感じていないようだ。
「無駄な抵抗はやめて下さい。何もしなければ、楽に殺してあげますからあー」
扉の向こうの男は残った手で扉を殴りつけた。深町が全体重をかけて抑えていたが呆気なく扉ごと弾け飛んだ。吹き飛んだ先の絨毯には、割れた鋭利なガラスの破片が待ち構え、軽装に身を包んでいた深町は、随所の肉を引き裂かれながら、べランダに顔がはみ出すまで滑っていった。駄目押しの扉が頭を強く打ちつけ、深町は脳震盪を起こして意識を失った。
「やっと入れましたね。ピザをお届けにあがりましたよー」
ピザ屋に扮装した男が中へと侵入してきた。手にはピザの箱を抱えておらず、代わりに長大な銃が握り締められていた。男は無様に気を失った深町を尻目に、ツキテンを見下ろす。ツキテンは笑顔で応えた。
「お兄はんがピザくれんのか、はよ頂戴なあ」
男は不気味に微笑み、目深に被っていた野球帽を脱ぎ捨てた。男の顔は焼け爛れて目や鼻の位置が判別できなかった。表面をバーナーで炙られたような悪魔染みた醜い顔に隠された瞳は、ツキテンを捉えて憎悪に渦巻いた。
「君がグロリアスの娘ですか。個人的な恨みはないが、君の親父に刻まれたこの顔の恨み、晴らさして貰うよ」
男はツキテンの頭を磨り潰すように撫ぜて、口に指を入れ、銃身を口に咥えさせた。ツキテンは抵抗の意志を示さなかった。
上目遣いに男を見上げ、滴るヨダレと笑顔で男を困惑させる。未だにピザを貰えると勘違いしているようだ。
「動くな、その銃を捨てて、ツキテンから離れなさい」
裂かれた傷の痛みで意識を回復した深町が男の背後から警告を促した。血塗れになった足に鞭打ち、無理やり立たせ、拳銃を両手で構えて、男の醜い頭に狙いを定めている。その立ち振る舞いは実に優雅で格好良かった。ツキテンは鼻息を荒げて、深町に手を振る。
「全く、緊張感のない子ね。さあ、早く銃を捨てなさい」
男は不気味に笑い、ツキテンの口から銃を引き抜いた。両手を真っ直ぐ上に挙げて、手から銃を零れ落とす。深町は銃を構えたまま、男の銃を拾い上げた。深町の手際のよさにツキテンは賞賛の拍手を送った。
「拍手はいいから。ツキテン、警察に電話して頂戴。電話番号は分かってるでしょ」
「ほい、分かりましたあ」
ツキテンは状況を飲み込んだのか、ハイハイして黒電話に詰め寄った。受話器は螺旋状のコードに繋がり、床まで垂れ下がっていた。深町はきちんと元に戻していなかったようだ。受話器からは、男の声が微かに漏れている。ツキテンは耳を宛がう。深町は銃を構えて男の所持品を弄っている。
「もしもし、警察はんでっか」
「あっ、ツキテンちゃんか。久しぶりだね。君が電話くれたの」
「はいな、そうでっせ。んでな、お姉はんが警察に電話しろってっ」ツキテンの声を掻き消すように鈍い銃声が鳴った。
ツキテンは真顔に直り、ゆっくり後ろを振り返った。
そこには爆ぜて首から上を失った深町の肉塊が立ち竦んでいた。傍らには、二丁目の長大な銃で深町の頭を撃ち抜いた男が不気味に微笑んでいた。
ツキテンの顔が凍りつき、再び受話器を滑り落とした。
「おい、どうしたのツキテンちゃん。今の銃声じゃないか。聞こえてるかい、返事してよツキテンちゃん」
普段は、沈着冷静な浅井も受話器の向こうで慌てふためいていた。男は固まったツキテンに歩み寄り、額に銃口を押し当てる。
「次は君の番だよ。死ね」
瞬く間に発射された弾丸は、ツキテンの脳天を擦り抜け、ベランダを越えて虚空へと飛んでいった。ツキテンは首を捻って弾を避けていた。目は虚ろで、全身の力が抜け切っている。
「バカな、あの至近距離で、避けただと」
男は動揺の色を隠せず、もう一度ツキテンの頭目掛けて発砲するが、またもや首を捻って避けられた。
ツキテンの目に男は入っていなかった。びくびく痙攣して倒れ込んだ深町の肥満な肉塊を認め、重い腰を上げる。
ツキテンは生まれて初めて自分の足で立ち上がった。
「こいつ、化け物か」
男は得体の知れないツキテンの能力に恐れ戦き、ベランダから跳躍して三階の部屋から、階下に降りていった。
「ツキテンちゃん、聞いてるの。あー、もう、今からそっちに行くから動かないで待っててね」
痺れを切らした浅井は、電話を切った。ツキテンの耳には届いていなかったが。
ツキテンは深町の肉塊を抱き起こした。瞳は深い悲しみの霧に包まれ、目に涙を湛えていた。
「お姉はん、死んでもうた」
頬を伝う熱い涙がぼたぼた絨毯に落ちて、新たな染みを作る。ツキテンは深町の脂肪を指で摘み、引き千切った。
ツキテンの涙が止まった。唇を緩ませ、徐々に笑顔が戻っていった。
「あは、よう考えたら、おもろいやないかー」
ツキテンは千切った脂肪の一部を口に入れた。噛んで食べて飲んだ。更にもう一掴みして口に入れた。噛んで食べて飲んだ。
傷口から覗いた赤い筋肉を握力だけで断ち切り、口に含んで味わって食べた。更にもう一掴みして口に含んだ。舌で転がして味覚を刺激しながら食べた。
更に、深町の肉を食べた、口に含んで、食べた。食べた。食べた。
食べた……。
「人はな。肉の塊やから、美味しく食べてあげなね」
深町の肉塊の大部分を胃に収めたツキテンの顔は、妙に生き生きと輝いていた。
 
前の話へ戻る 月テンテン 次の話へ進む