第一話 胎動

 


十九年前。
ツキテン=マケーシー・グロリアス、通称『ツキテン』はドイツ郊外で生まれ落ちた。
分娩室で元気な産声をあげたが、体重千五百グラムの未熟児だった。
父親は激怒した。娘が未熟児なのは妻が痩せていたからに違いない、きっとそうだ。
などと、とんでもない解釈をして、職業柄、殺しを営んでいたせいか、ためらいもなく妻を殺した。
それからの五年、父親は男手一つでツキテンを溺愛し、ずっと家の中で飼育を行った。
母の愛を受けれず、一度も外出させて貰えなかったツキテンは、友達ができずに暗い幼年期を過ごした。
教育も満足に受けさせて貰えなかったせいで、五歳になっても、ろくに言葉が話せなかった。
「だあーパパー」
ハイハイを卒業できず、赤ちゃん言葉でしか意志を伝えれない、頭の弱いアホだった。
父親はまた激怒した。娘に友達が出来ず、言葉も話せず、未熟児のまま五年もの月日を無駄にしたのは、ドイツが悪いからに違いないと。
脳内でいかれた結論を弾き出し、ツキテンを外国に移住させようと決意した。
職業柄、世界中を股にかけて殺しを行っていた父は、丁度、日本での殺人依頼を数件請け負っていたので、それにツキテンを同行させた。
「だあー行くパパー」
アホだったので嬉しそうに頷いた。ツキテンは父の腕に抱かれて日本行きの便へと乗り込んだ。
機内ではシートベルトを常時着けさせられた。逃げぬよう、離陸時、席から落ちないようにとの親切な計らいからだ。
そして、父は一冊の本をツキテンに与えた。『アホでもわかるで関西弁』とタイトルの付いた本だった。
「だあー暇ー読むー」
アホだったので片言で答えた。日本に到着するまでの長い十二時間を、ツキテンは真剣に本を読んで過ごした。
一方、父親は殺戮を開始していた。暇を持て余し過ぎて苛立ちが募り、誰かれ構わず容赦なく殺していたのだ。
厚手の黒いコートの下に忍ばせた二丁拳銃は、見る見るうちに乗客の半数の命を奪っていた。
「な、んで、やねん、そ、やなあ、ちゃい、まっせえ」
ツキテンは取り乱す様子もなく、本の内容を理解し、復唱するにまで至る、脅威の学習能力を発揮していた。
父親の黒いコートは、いつしか返り血を浴びて真っ赤に染まった。乗客は全て死んだ。同乗していたスチュワーデスも序でに殺した。
「ふう、スッキリした」
父親はナプキンで血に汚れた手を拭き、満足そうに席に着いた。二丁の拳銃は膝元に置かれた。
ツキテンは不思議そうに拳銃に興味を示し、拾い上げ、指で構造に沿ってなぞりだした。
「気に入ったか。それは、バキューンっていう玩具だよ」
ツキテンは好奇心からあちこちに触れ、鉄の冷たい感触をたしなんだ。
安全装置がないセミオートの拳銃の銃口は、忙しなく回転して向きを変えていた
ふと、引き金の垂れ下がった部分が気にかかり、ツキテンは無邪気にそれを引いてみた。
「いいかい、引きがぱっ」
何か言いかけた父親の頭が爆ぜた。
鼻から上が後方に飛び散り、声の出なくなった口が金魚のようにパクパク動いていた。
ツキテンは無垢に笑い、父親の口の中に拳銃を突っ込んだ。引き金に添えた指は引かれた。
鈍い銃声と供に、首から上が完全にすっ飛んでいった。管が覗ける断面から勢いよく噴き出した血が、ツキテンの幼い体に降りかかる。
「あは、おもろいなあ」
血に塗れた頬を緩ませながら、ツキテンはありったけの弾を父の肉塊に撃ち込む。
原型を崩し、撃つ毎に穴ぼこになっていく無惨な様子に興奮を覚え、口からヨダレが滴り落ちていた。
全ての弾を撃ち尽くすと、父はひしゃげてシートから零れ落ちた。小さく削れた肉塊は無機質に床に転んだ。
ツキテンは何も出なくなった拳銃を投げ捨てた。本を急いでパラパラめくり、目的のページを参考にしながら父に告げた。
「あらあら、死んでしもたね」
その表情は穏やかだった。父の死に何も感じていないようだ。
ツキテンは読書を再開し、到着した頃には独自の関西弁を完成させた。
こうして、ツキテン=マケーシー・グロリアス、後の『ゲッテン』は、凄惨たる日本上陸を果たした。
 


薄暗い部屋に四人。
空港奥にひっそりと佇む取調室では、詰問が行われていた。
天井の電球一つが部屋全体を淡く照らし、中央に位置する埃被った机には、対座する二人が腰を据えている。
格子が付いた窓の傍らに潜む、奥の机には書記らしき男がノートを広げていた。
机の片面に座る恰幅のいいスーツ姿の女は、五枚のトランプカードを切っていた。十分に切り終えると、向かいの金髪の少女の前に、裏向けて横並びにした。
「さあ、今度はどれだと思う。当ててごらん」
澄んだ目をした金髪の少女はツキテンだった。カードに視線をやりながら顎を摩り、一枚を指差した。
「これやと思う」
スーツ姿の女は、太い指で指定された一枚を表に翻した。
「わお、また正解じゃん。おめでとー」
目当てのジョーカーの絵柄が出た結果に、スーツ姿の女は鈍い拍手を送った。
「ウオッホン、ゴホッ、ゴホッ」
隣に突っ立っていた、切れ長の目をした無表情な男が、咳払いをしてそれを制した。
スーツ姿の女は頭を掻き、ツキテンを見据え直して、問いかけた。
「それじゃあ続きね、まずはお譲ちゃんのお名前、教えてくれないかなあ」
ツキテンは目を細める。
「うち、日本語ようわからへん」
「さっきまで、普通に喋ってたじゃん」
スーツ姿の女は声を重ねて、怒りを露にした突っ込みを入れた。
「浅井君。もう一度、説明してあげてくれるかなあ」
スーツ姿の女の声の調子は更に上がっていた。切れ長の目をした浅井は表情を崩さず、穏便に語りかけた。
「いいかな、お譲ちゃんが乗ってた飛行機で殺人事件が起きたんだ。機内から血塗れになってハイハイしながら出てきた、お譲ちゃんの姿を目撃した人がたくさんいる。服だって血で赤く染まってるし、知らないわけじゃないだろ。それに、深町刑事っていうんだけど、このお姉ちゃんは別に怒ってるわけじゃないんだよ。君が機内で何を見たのか、君が誰なのか聞きたいだけなんだ。教えてくれないかな」
浅井の要求に、ツキテンは笑顔で答える。
「うち、ツキテン。もっと長かった気いするけど、あんま覚えてないねん」
女刑事深町は安堵の溜息をついた。
「不確定だけど、やっと答えてくれたねツキテンちゃん。それじゃあ、次はこれ、何か分かる」
深町が言うと、浅井はめんどくさそうに、内ポケットからチャックで封をしたビニール袋を取り出し、机の上に置いた。
中には血痕が付いた拳銃が収められていた。犯行現場で使われたであろうそれは、安全装置のない速射性のある形状をしていた。
「あっ、バキューンや。うち、それでおとうはん殺してもうたあ」
ツキテンは舌を出して、照れ隠ししたが、深町の顔は瞬く間に曇った。浅井は至って平静を保っていた。
「浅井君どう思う、また、適当なこと言ってるのかも」
「いえ、恐らくパニック状態なんでしょう。幼い少女ですし、二百以上の死体が転がっていたんですから、無理もありませんよ」
二人はツキテンを尻目に用談を始めた。ツキテンはきょとんとし、頬杖をついて、机に置かれた拳銃に目をやった。
身体をうずうず揺らし、衝動に駆られて、チャックを開けて手を差し入れた。そこから引き金に指を添えた拳銃を取り出す。
二人はその事実に気づいていなかった。ツキテンは腕を伸ばし、銃口を奥で黙々と記録を書き綴っている男の頭に向けた。
「こんな風になあ」
低く呟き、引き金を引いた。しかしカチャと不発音が鳴るだけに留まった。
呆気に取られたツキテンは、銃口を覗き込んで、指を左右に動かして引いてみるが、弾は発射されなかった。
「ちょっと、何してるの」
気づいた深町は前に突っ込み、膨張した腹を机に擦り付けて、銃身を掴んだ。ツキテンは腕を引っ張り手を剥がす。
拳銃が握られた手はそのまま弧を描いて、突っ伏した状態になった、深町の眉間に銃口を押し当てた。
「バキューン」
口ずさんで無表情に引き金を引いた。やはり弾丸が深町を貫くことはなかった。
ツキテンは顔をしかめて、拳銃を思い切り壁に投げ捨てた。壁で跳ねた拳銃は高速で左右の壁を往来し、部屋の奥の方を暴れ回った。
深町は隠れるように、青ざめた顔で深く腰を落とした。椅子の腰が砕ける音がした。
「あ、浅井君の言うとおり。この子、精神が錯乱してるんだわ」
「では、暫く預かって落ち着くのを待ちませんか。身元不明ですし構わないでしょ」
浅井は動揺する様子もなく、含み笑いをした。不恰好になったパイプ椅子の隙間に深町の尻が挟まっていた。
目尻を下げて情けない顔した深町は、浅井を上目遣いに見上げた。拳銃はまだ壁を跳ねている。
「預かるったって、誰が面倒見るのよお。署に住ますわけにはいかないでしょ」
「当然です。ですから、深町刑事が面倒を見てあげてください。仲がよろしいみたいですし」
浅井は口元に拳を宛てて皮肉に笑い、ツキテンも浅井を見て、貰い笑いした。
深町だけが目に涙を湛えて、今にも泣き出しそうだった。拳銃はまだ跳ねている。
「お世話になります」
ツキテンは慎ましく頭を下げて、深町の了承を得ようとした。
鼻を鳴らして涙を流した深町は、弱く頷いて許可を下した。書記の男が小さな悲鳴をあげた。
「決まりですね。では、定時になったのでわたしはお先に失礼します」
浅井は腕時計を確認し、鋼鉄製の扉を開けて、取調室を出て行った。
深町は涙を拭って、挟まったパイフ椅子と一緒に立ち上がった。書記の男は微動だにしなかった。
扉の前に差し掛かり、深町はツキテンの方に太い首を捻った。
「ほら、ついといで。わたしの家に連れてってあげるから」
ツキテンは気楽に頼む。
「うち、歩かれへんねん。抱っこしてんか」
思わず大息をついた深町は、尻にパイプ椅子を挟み、両腕にツキテンを抱えて取調室を後にした。
取り残された形となった書記の男は、首を遅鈍に後ろに反らした。瞳孔が開かれた白目が、苦汁の死を宣告する。
眉間に深々と突き刺さった銃身が柔らかな脳に減り込み、致命傷を負わせていた。指はピクピク痙攣し、漸く瞼が沈んでいった。
壁には、ツキテンが投げた拳銃の跡が無数に傷として残されていた。取調室を先に出た三人には、知る由もない、些細な惨事だった。
 

 
本当の大惨事は空港待合室で起こった。
常に人でごった返すこの広大な空間には、固い平坦なベンチが百台余り、五列に分けて規則正しく並び、左側面を残して三面を衝立で囲まれていた。
僅かに覗いた二台の改札機だけが外部からの侵入を認め、搭乗口に抜ける通路にも二台並んで設置されてあった。
人々はガラス張りになった左側面の壁から着陸した航空機を見物したり、等間隔に置かれたワイドテレビを観賞していたりと、各々の待ち時間を過ごしていた。
ある者はベンチに寝転がって本番を始めていたが、群衆の渦の前では色褪せて見えた。
いつもと変わらぬ待合風景の様子は、搭乗口側の改札機を潜ってきた男の襲来によって一変した。
頬が大きく破れて歯が剥き出しになっている全身血塗れの男は、右手に安全装置のない拳銃を携えていた。
左腕は肩から爆ぜて、変形した切断面から血が滴り落ちていた。赤い下穿きには随所に十円大の穴が開き、下から銃弾が埋め込まれた惨たらしい足を覗かせていた。
男が通った跡には、艶を放つタイルも血糊でベッタリとした陰惨な荒野と化していった。
のそのそと何かを呻いて足を引き摺る男に、間近にいた中年の女性が気づいた。
「きゃああああああああ」
突拍子に叫ばれた女性の悲鳴は、ガラスに反響してこだまを続けた。
男は何かを呻きながら、銃を声の主に向けて発砲した。刹那に女性の首は吹き飛び、生首がガラスを突き破って飛行場に落ちていった。
声を聞きつけて来た野次馬は男の姿に驚愕し、ガラス越しに外を見ていた若い女性連中の甲高い悲鳴が一斉に鳴り響いた。
男は手当たり次第に発砲した。目が判別できない程血に埋もれているせいで、照準は大きく乱れ、テレビモニターを破壊したり、踝に命中したり、急所を避けるかのように逸れていた。
その間にも、悲鳴は伝染していき、人々は逃げ惑った。或る者は、周囲の衝立を蹴り破って強引に突破口を開いていたが、大部分は狭い改札機に押し合い圧し合いしながら、我先に必死に逃げようとする醜い本性を曝け出していた。
「どいつだ、どいつだ、どいつだ」
男はうわ言のように呻き続け、改札機に固まる二十人近い群れに向けて発砲した。最後尾にいた男の後頭部に着弾した瞬間、崩れた脳と目玉がすっ飛び、前方の男の背中にへばり付いて潰れた。隣にいた女がそれを受けて悲鳴をあげると、その女の側頭部を銃弾が貫き、肉と骨と脳の破片が飛散した。更にベンチで本番を始めていたカップルにも銃弾は襲い掛かった。上になっていた男の頭が爆ぜて下半分になり、断面から溢れ出した脳漿が、下になっていた女の顔に目一杯降りかかった。
「どいつだ、どいつだ、妻を殺した奴はどいつなんだああ」
男は悲痛な叫びをあげた。男が辿って来た血の跡を遡った所には飛行機があった。内部では死体の処理に追われた警官が忙しなく動いていた。どうやら男は、ツキテンの父親が虐殺を行い、全滅したと思われた乗客の生き残りらしかった。
私怨に燃える憎悪の瞳は、蠢く者全てを敵と見なし、容赦なく発砲していく。
扱いに慣れて、狙いは正確になり、死体の数は徐々に増していった。男はベンチ下で体を震わせて泣き喚く少女に銃口を向けた。
「お前か、お前が殺したのか。そうだろ、そうなんだろ」
男は仮の目標を見つけた喜びに顔を歪め、足に向けて発砲した。少女の膝から下が千切れ落ちた。
「あぐううっ」
続けて、悲痛に喚く少女の腹に発砲した。うげっと低い声を漏らし、腹から腸がはみ出して零れた。
瞳孔が開いた目は生気を失い、男は少女の髪を掴んで外に引きずり出した。
「死ね、妻の仇だ」
男は髪を引っ張り上げて、少女を宙に浮かし、胸元に銃口を押し当て、撃った。
少女の体がピクンと跳ね動き、銃弾が背中を突き抜けて先のガラスに亀裂を走らせた。少女の服の下から血溜りが波紋状に広がっていた。
地獄を垣間見たような歪んだ顔のまま、少女は有機物から一介の無機物へと変換された。
「やった、やったぞ。殺した、妻の仇を取ったんだあ」
男は両腕を天に伸ばして、祝砲を撃ち鳴らした。張り詰めていた緊張の糸が切れた男は、満足そうな顔で倒れ込み、絶命した。
戦場と化した空港待合室には、誰も人がいなくなった。客が残したバッグや、財布が散乱し、無惨に転がる数十人の死体が残されて全てを終えた。
その矢先、目深に清掃帽を被った一人の女がIDカードを通して改札を潜ってきた。
軍手を填めた手には束になったゴミ袋を握り、全身は青の清掃作業員服で統一されていた。
女は辺りを見渡し、客が残した金品に目を付け、拾い上げてはゴミ袋の中に仕舞っていた。
「ふふ、儲け儲け」
女は冷笑を浮かべて、落ちていた財布の中身を抜き出した。保険証やクレジットカードをゴミ袋に仕舞い、残りの札束は内ポケットに収められた。
死体が手首に巻いていた高級な腕時計にも目を付け、手早く外してゴミ袋に仕舞った。
「大量、大量」
女は気分良く鼻を鳴らし、金品全てをゴミ袋に仕舞い込んで作業を終えた。
奪った小銭を隅にあった自販機に投入し、冷たいコーヒーを出した。腰に手を添え、上を向いて飲んだ時、深く被っていた帽子が背後に落ちた。
ストレートの長い髪をした少女だった。丸渕の眼鏡の奥には、金に対する圧倒的な執着心が秘められていた。
少女の胸には名札が付けられ、『深町明日香』と刻み込まれていた。
後にツキテンと相対することになるこの少女は、満杯になったゴミ袋を引き摺って、空港待合室を後にした。

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