崩れた玩具

 
不可解な力が加えられ、積み木がまた崩された。
「なにしてんのよ、あんたやる気あんの」
母さんの笑みも崩れた。頬を引き攣らせてボクを怒鳴りつけた。本日三度目の崩壊だった。
「ごめんなさい」
ボクは平謝りする。謝れば許して貰える。いつもの母さんに戻ってくれる。そんな淡い期待があった。
「いい、次はちゃんとやるのよ」
唇に微笑を湛え、母さんの口調は柔らかくなった。淡い期待に答えてくれた母さんはやはりいつもの母さんだった。髪が長くて重量感を持たせるために毛先をカールをさせている温厚ないつもの母さんに戻っていた。ボクの愛する母さんに。ボクは、母さんが好きだから、いつも積み木を積んであげていた。やれと命令されるわけじゃない、ボクの本意だ。ボクが積み木を崩さず、高く積み上げれば、積み上げれる程、母さんは笑顔に変わっていくからだ。天使のような、女神のような、それはもう神秘的な笑みに変わっていくのだ。その笑顔を見たいがためにボクは積み木を積み続けているのだ。
「その調子よタカ、もっと、高く積んでね」
更に特典もつく。一段積み上げるごとに激励の言葉が与えられる。一段、たったの一段だ。三つの太くて短い木の棒を横に並べるだけで一段が出来あがるのだ。聞く所によれば、この木の棒はジェンガという玩具で、元はゲームに使われる物らしいが、母さんはこれを積み木だと言っていた。だから、積み木だ。
それに、これが遊具であって、積み木でないとか、そんな下らない価値観はどうでもいい。ボクはただ無心に積めばいい。崩れたら、ひたむきに謝って積み直せばいい。こんなちっぽけな積み木を高く積み上げるだけで、至福の見返りが待っているのだから。
「あっ」
突然、破滅的な不可解な力が加えられ、四十段目にして積み木はまた崩された。
「なあに、やってるのタカあ」
母さんの顔も崩れた。その顔は悪魔のような死神のような恐ろしい面だった。
 
ボクは居間の絨毯の上に座っていた。ゆったりしたソファに囲まれて、傍らには低いテーブルが置いてある。
母さんはソファに腰掛けてボクを見下ろしている。両膝に肘を突き、手の平の上に顎を乗せて眺めている。笑みをみせたり、怒ったり、積み木の段数によって気分が変わっている。ボクはもちろん崩さぬよう積み木を高く積み続けている。破滅的な力が加わらなければ、もっと高く積めるのだが、力というのは突然加わるから、対処しようがない。知らないうちに時間制限を設けられていて、自動的に倒れるように出来ているのだと不審に思うこともある。
テーブルの向こう側には父さんが座っていた。と言っても動かないし、何も喋らない。別に死んでいるわけではない。何もしていないのだ。首だけは部屋の隅に置かれたテレビに向けられている。時折瞬きもする。ただ、動かないし、喋らないだけだ。なんて怠慢で無口な人なんだろうか。
「また崩したあ。タカ、いい加減にしないと母さん何するかわからないわよ」
よそ見してる間に積み木が崩れていた。ボクが見ていたのはやはり父さんだった。口がポッカリ開いて、顎を伝って涎が滴り落ちていたのが気になっていた。父さんは料理番組を見ていたわけではなく、無意味に暗闇のブラウン管を見ていたからだ。しかし、相変わらず破滅的な力というのは恐ろしい。ボクがよそ見した隙を逃さず、崩してくるのだから。
ボクは母さんに平謝りした。再挑戦の機会が得られるなら、何度でも許しを請うつもりだ。
「もういいわよ。次はちゃんと積み上げなさいね」
いつもの母さんに戻った。ひょっとしたら駄目なんじゃないかって、不安になっていた。そんな心配を払拭させてくれる笑顔に戻った。
ボクは幸せだ、母さんのため、そしてボク自身のためにいつまでも積み木を積んでいたい。高く、もっと高く積んでいたい。
 
その夜、破滅的な力に襲われて積み木が吹き飛び、消し飛び、母さんの頭から生々しい角が生えて、ボクを串刺しにする夢を見た。
 
翌日、夢にはなかった現実が起こっていた。
テレビを見ていた父さんは瞬きをしなくなっていた。死んでいるのだろうか、目が虚ろだ。喋らないし、動かない。ボクは驚きはしたが大した問題ではないと割り切った。母さんだって、気にかける様子もなく、朝ごはんを作っていた。ボクが積み木を積むよと母さんに告げると、母さんはソファに移動してボクが積むのを待ってくれた。ボクはジェンガが詰まった五、六箱を引っ張り出し、黙々と積み木を高く積みあげた。また崩れた。父さんはその日、一度も瞬きをしなかった。
 
一ヶ月は経った。だろうか。
ボクは積み木を積み上げていた。母さんはボクをソファで見守っていた。父さんは蝿を集らせて異臭を放っていた。見開かれた白目に蝿が止まっているが父さんは反応を辞さない。死んでいるのだろうか、動かない振りをしているのだろうか、ボクも母さんも確認をしていない。父さんにかまけている余裕はない。
ボクは焦っていた。日に日に母さんの笑みは失われていた。積み木が崩れるのが早くなったからだ。ボクに落ち度はない。きちんと丁寧に積んでいる。少なくとも以前と同じくらい慎重なはずだ。それなのに、積み木は崩れるのだ。低く、低く、崩れるのだ。
「母さんは、悲しいな」
母さんの顔は、この世の終わりを迎えたかのような深い悲しみに満ちていた。もっと尽くしてあげたい、期待に答えてあげたい。高く積み上げたい。気持ちだけが先走って、空回りしてる。焦りが苛立ちへと変わり、ボクの心に沸々と憎悪が芽生えてくるのだ。
 
その夜、母さんが父さんを食べている夢を見た。動かなくなった父さんを、美味しそうにむさぼっていたのだ。
 
翌日、本当に父さんがいなくなり、ジェンガが残らずなくなっていた。積み木はもう積めなくなった。
「タカ」
母さんは続けて言った。父さんは私が食べた。ジェンガは私が倒していた。そして、これからお前を串刺しにしてやると。
「母さん」
ボクが悪魔に話しかけた。母さんの頭には角が生えていた。ボクは何度も母さんと呼んだ。平謝りもした。いつもの母さんに戻ると信じていた。積み木を高く積んであげるよとも言ってあげた。それでも母さんに笑みは戻らなかった。
「私は、お前と父さんがなぜか嫌いだ」
理不尽な理由を告げられ、ボクは串刺しにされた。
 
ボクは漸く目を覚ました。
目覚めたボクの前には、天井に着くまで伸びる、高く積まれた積み木があった。
積み木の傍らには、母さんの死体が転がっていた。
「母さん」
ボクは笑顔で母さんを呼んだ。
苦悶に歪んだその死に顔は女神そのものであった。ボクが望んでいた母さんの顔だ。
ボクは大好きな母さんをなぶり殺し、ボクの母さんを犯した父さんは殺して埋めた。
ジェンガは、ボクが母さんに積ませていたのだ。ジェンガは、ボクが倒していたのだ。
這い蹲って許しを請う母さんの姿を、ボクは愛していた。死に顔は、また格別だ。興奮、するんだ。
ボクは、人として、落ちていた、止め処なく、落ちていたんだ。
 
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