ジャイロボール (第15回 日本ホラー小説大賞応募作品 一次選考落ち)

応募日:2007/10/30
掲載日:2008/03/08


 1
 訳あって、この島に引っ越してきた。漁業が盛んな小さな島だ。都会で三十年近く暮らしてきた若村修一は、退屈でつまらない土地に来たものだなと、露骨に嫌悪感を抱いた。
 全く持って娯楽に乏しい。漁師の息子が波止場に集まって釣り糸を垂らしているところを見かけるぐらいで、他に興味を惹かれる楽しみは皆無。性欲に溢れた若村の支えであった娼婦もここにはいないし、彼の風俗通いを一度も咎めなかった寛容な幼馴染の妻を抱くのも気が引ける。良妻には違いないのだろうが、志保にはどうも性的な魅力を感じない。若村を奮い立たせる起爆剤には成り得ない。
 退屈を覚えると、仕事も怠慢になってくる。診療所を訪れる島民はにこやかで人当たりもいいのだが、不貞腐れた顔で応対する若村に内心穏やかな感情を抱いてはいないだろう。それでもこの島で唯一の先生であるから、誰にも咎められることはない。若村の居場所は確かにこの島に存在している。
 自分の居場所、そういえばこれだけはこの島で初めて得たものだ。若村は、幼い頃からずっと自分の居場所が欲しかった。安らげる場所を求めていた。今までの彼の世界はとても窮屈な場所だった。息が詰まりそうな窮屈な場所なんて、もううんざりだった。
 休診日のある晴れた日、若村は妻の志保と一緒に波止場のベンチで海を眺めていた。志保がたんとこしらえてくれた握り飯を一掴みして口に含む。物思いに耽っているそんな若村を志保は静かに見守っている。
「思ったより、悪くないかもね。ここ」
 若村がそう呟くと、編み物を始めていた志保の手が止まった。
「どうしてそう思ったの」
 志保がにこやかに微笑んで尋ねる。若村は埠頭で釣りをしている子供達の顔を見ながら答えを考える。
「大したことじゃないよ。のんびりとして刺激はないけど、故郷のことを思えば悪くないだろ」
「相対的にってこと。そんなのただの現実逃避だよ」
 即座に否定された若村は面食らった様子だった。
「それにさ、別にここはのんびりしてないし、つまらなくもないんだよ。修ちゃんには見えないのかな、ここには故郷と同じ匂いが充満してるよ。それに気付けば刺激的で楽しくなるよきっと」
 志保の口振りは若村と真逆の印象を持っているようだった。それが不思議でたまらない若村は忙しなく田舎の景色に目配せし、稚魚を釣り上げて大喜びしている子供を見つけて、その子を指した。
「もしかして、あれのことをいってるの」
 志保は、若村の答えに頷いた。
「うん、あれもそうだね」
 期待外れの志保の答えに若村は呆れて、それ以上言及することはなかった。
 そうしてまた悪戯に時間が過ぎていった。腹痛を訴える少女の診察を終えた若村は、缶コーヒーを片手に深い溜息を付く。先日の志保とのやり取りで、せっかくこの島に好意を、一歩引いて妥協点を探ろうとしたのに、すっかり水を差されてまた元の心境に戻ってしまった。そのストレスを仕事に持ち込んで患者にも悪いことをしてしまった。先ほどの少女に至ってはどんな薬を与えたかカルテに書いていない。誤って症状が悪化したらどう弁解すればいいのだろうか。
 このままめげてばかりいては、唯一の自分の居場所すら失いかねない。そう思い立った若村は重い腰を上げた。余暇を見つけては、傾斜になっていて坂道だらけのこの島を観光気分で巡っていた。島独特の風習や催し物がないものかと調べもした。
 その努力のかいも虚しく、この島には目立った風習も催し物も存在しなかった。のどかを絵に描いたようなところだけが自慢な、人の声よりカラスの鳴き声の方がよく聞こえてくる刺激のない島だった。ここまで来ると近代文化から隔離された孤立島とでも揶揄したい気分にもなった。
 あり余る時間を使い潰すため、若村は自然と志保と会話をする機会を増やした。彼女はいつも笑顔を振り撒いていて楽しそうだった。カエルが草の葉から顔を出して飛び跳ねている姿を見るだけで無邪気に喜んでいた。陰気な顔をしている若村を明るく出迎えてくれるし、志保にはこの島の環境がよほど自分に合っているように感じた。若村も決して嫌いではないのだろうが、彼の欲望を満たすには刺激がどうしても必要だった。
「楽しいね。修ちゃんといるとほんと退屈しないよ」 
 布団を並べて就寝しようとしたその時に、志保はそんなことを若村に言った。すぐにおやすみなさいと言われて詳しく聞きそびれてしまったが、若村はその言葉が頭に引っ掛かってなかなか寝付けなかった。自分に彼女を満足させるような特徴でもあったのだろうか、少し思い返してみるが記憶が曖昧ではっきりしない。なぜ記憶が曖昧なのかはよくわからない。若村はその挽、訝しげに目を細めて志保の寝顔を見つめていた。
 ひょっとして、夫と一緒に過ごす時間が増えたから志保は気分を良くしたのかもしれない。日が昇った頃に若村は目を充血させて自分なりの結論を出した。志保が夫に刺激と楽しみを見い出しているなら彼女の喜びようも全て辻褄が合う。まさにこれが志保の言っていたこの島の刺激なのではなかろうか。ちょっとした優越感に浸った若村は洗面台の鏡を前にして薄ら笑いを浮かべていた。
「疲れたの。目、真っ赤だね」
 にたにた笑う若村の傍に志保の顔が映りこんだ。若村はびっくりして急に真顔に戻ったが、志保はそれに動じることなく、黙って若村の手に目薬を持たせた。
「若村さん、お勤めご苦労様です」
 志保はそう若村に告げて立ち去った。若村はそんな夫想いの志保の愛情に胸を打たれた。テーブルを囲んで仕事前の朝食を済ましていた時に、若村は赤い目で志保の顔を愛でるように見つめていた。この女性が好きだということを再確認するように。
「志保、いつも食事を作るのは大変だろう。今晩は外へ食べに行かないか」
 若村は幾分、緊張した面持ちで志保に切り出した。志保はそんな若村の心境を知ってか、優しい笑顔を作って頷いた。
 この島に刺激がないのは十分にわかった。ならばこちらから作ってやればいい。仕事に精を取り戻した様子の若村は、患者に溢れんばかりの愛想笑いを作って接した。若村は故郷で娼婦に支えてもらったように、この島で志保に生きがいを見い出そうと決意していた。本質を剥き出しにした肉欲の繋がりではなく、純粋な夫婦円満を目標として。
 診療所を出た若村は、海沿いにある居酒屋の前で志保と合流した。この島でたった一軒の飲食店であるその居酒屋は狸という店名だった。赤い提灯で照らされた薄汚れた狸には、既に船出帰りの漁師達の野太い談笑で賑わっていた。
 若村は肩身の狭い思いで隅のテーブルに追いやられた。病気知らずの漁師とは親交が全くないせいか、狭い島であっても彼らは若村に親密にすることはない。まるでそこに存在しないかのように大漁を祝っていて、うっかり若村や志保にぶつかることがあっても謝る素振りすら見せなかった。
 しかし妻との交流に生きがいを持とうとする今の若村は、そんな漁師の無礼を気にも留めていなかった。漁師の声に耳を塞いで志保と二人だけの空間を堪能していた。肩を寄せ合って淡々とメニューについて語り合い、その品数が五に及ばないことを軽く馬鹿にしながら、カルテを書き忘れた腹痛の少女の話をして注文が来るのを待っていた。
 志保はいつも通りの笑顔を振り撒いていたが、時折いつになくお喋りな夫を軽蔑する眼差しが混じっていた。大味な漁師鍋を囲んでいる時にそれは表面化していき、やがてお喋りを続ける若村に呆れたのか、志保は冷めた顔付きになって溜息を付いた。
「修ちゃん、お医者さんごっこの話はもういいよ。いつまでもそんな幼稚な話、不愉快で聞いていられないよ」
 志保の異変に薄々感付いてはいたが、はっきりと声に出して軽蔑された若村は衝撃を受けていた。志保は物怖じせずはっきりものをいう性格の女ではあるが、若村自身を批判するような言動は過去になかったからだ。いや、度々あったような気はするがその辺りは記憶が曖昧ではっきりしない。しかし彼女は夫の風俗通いを咎めない寛容な女性だったはずだ。
「ごめん、少し話が長すぎたね。じゃあ今度は志保の話をしてよ」
 若村は志保の機嫌を取り繕うと必死だった。志保はそんな若村を安心させようと優しく微笑みかけた。「いいよ、私の話、してあげる。実はさっきから気になってたことがあるんだけど」
 志保はそう言いながら板張りの壁に立て掛けられた絵を見上げた。若村も彼女の視線を辿って見つけたそれは、魚を釣り上げた証拠として残される魚拓だった。優に一メートルは超えているだろう大物が和紙に墨の印を残していた。
「へえ、意外だね。この近海でこんな大きな魚が獲れるんだ」
 若村は大して興味を持たなかったが、志保の会話に合わせた。だが志保は若村の感想を聞くや否や、酷く驚いた様子で若村の顔を見ていた。唖然として声も出せないのだろうか、思わぬ反応に若村もどうしていいのかわからず黙っていた。
 心なしか、先ほどまで騒がしかった漁師の声が、聞こえなくなっていた。それどころか漁師の存在すら虚ろになって、この世界に志保と二人で取り残されような気分にさえ陥った。
 若村は、黙って自分の目を真っ直ぐ見つめる志保が怖いと思った。背景さえも真っ白になったような二人きりの世界で、自分は愛する妻に快く思われていないのだ。圧迫されているようで、なんだか胸に息苦しさを感じる。窮屈だ。
「修ちゃん、修ちゃんには、これが魚に見えるの」
 多分、志保はそんなことを言っていたと思う。若村はその質問に対して答えることができなかった。意味が分からないという点でもそうだが、その頃の若村は極度の貧血を起こして頭の中が真っ白になっていた。吐き気を催して急いでトイレに駆け込み、食べた料理を全て嘔吐するまで戻ってこなかった。
 やっとトイレから戻ってきた若村は、真っ青な顔をしていて呑気に会話をしている余裕などなくなっていた。志保の質問について言及することもなかった。若村はそのまま志保に肩を貸されて家まで運んでもらった。体調が悪くてすぐに布団で寝入った。
 目覚めた時には、志保はいつも通りの笑顔を振り撒いて若村におかゆを作っていた。若村もまた前日の居酒屋のことなど半ば忘れて、素直に志保の看病を受けていた。
「修ちゃん少し熱があるみたいだよ。今日はお医者さんごっこやめにしたらどう」
 志保は平熱を超えた体温計を見て言った。
「ああ、そうしようかな。体調が回復するまでは大人しくしておくよ」
 若村はそう言って寒気立つ体を毛布で包んだ。居酒屋では醜態を晒してしまったが、これは丁度いい機会だと思った。看病を通じて志保と交流を深めることができるのならば。
 若村が邪な思惑を抱いた時、志保は古いダイヤル式の電話を取って、誰かと話していた。この島で親交のある人間はいないはずだが、一体誰と話しているのか若村は気になった。
「はい、わかりました。若村さんにはそう伝えておきます」
 用件を聞いたらしい志保は、受話器を置いた。
「志保、誰からの電話だ。俺に用があるって言われたのか」
 すかさず若村に尋ねられた志保は、満面の笑みを浮かべて答えた。
「小西薫さんていう女の子のお母さんからの電話だよ。修ちゃんお医者さんごっこしたって言ってたよね。その子と」
「そんなこと言ったかな。悪いけどあまり記憶にないよ。カルテを見ればわかるだろうけど、その薫さんがどうかしたの」
「それがね、亡くなったそうなの。お腹を押さえて苦しんでたからおかしいとは思ってたらしいんだけど、今朝起きたら息がなかったって」
 若村はのどかな島に起きた人の死を平然と聞いていた。何処か聞き覚えのある話だが、医療の場では病気で人が死ぬことなど日常茶飯事だ。
「それで、俺に何の用だって。死人に医者はいらないだろ」
「死亡診断書を書いて欲しいって言ってたよ。確かそれがないと火葬できないんだよね。どうする修ちゃん、遺体とも、お医者さんごっこするの」
 志保は含みのある言い方をした。若村の反応を期待しているようだった。
「まさかしないわけにはいかないだろ。すぐに出かける準備するから手伝ってよ」
「やっぱり、そうだよね。わかったよ」
 若村は医師の精悍な顔付きになって立ち上がった。ふらふらで倒れそうな体を志保に支えてもらいながら、身形に合わないスーツに袖を通す。また志保の肩を借りて玄関まで運んでもらう。
「大丈夫、あんまり無理しない方がいいよ」
「どうせこの近所だろ。心配ない、倒れたくなる頃には着いてるよ」
 志保は、気丈に遺体の元に行こうとする若村の背中を寂しそうに見ていた。
「昔から変わんないね。修ちゃん優しいから、怪我した女の子がいたら凄く心配してあげてたよね。狩野さんに沢松さんに日向井さんだっけ。皆元気にしてるかな。修ちゃん、その子達とお医者さんごっこしてる時も楽しそうだったよね」
 志保は、妙に優しい口調で急に思い出話を語り始めた。革靴を履いている若村は、不思議そうに志保を一瞥する。
「昔のことは、あんまり覚えてないなあ。でも俺は優しくなんかないよ。昔も、今も」
 若村は過去を思い返して遠い目をしていた。志保はそんな若村の頭の中を見透かして背中を押してあげた。
「行ってらっしゃい」
 重い足取りで消えていく若村との別れを惜しむように志保は手を振った。若村がしばらく家に帰って来ないことを志保は悟っていたからだ。
 帰って来ない理由を厳密には説明できない。だが幼い頃から連れ添ってきたから若村がどんな状況でどのような行動を取るかを覚えている。こんな時の若村はなかなか帰って来ない。昔の若村もそうだった。優しく接してあげてるのに帰ってきやしなかった。きっと彼は、いつまでも自分の居場所を作れない忙しい人なんだろう。

 2

 得体の知れない男女がこの島にやって来た。青白い顔をした貧相な男と、右足に金属の義足を付けた妙に明るい女だった。女の方は笑顔を振り撒いて島民と溶け込む努力をしていたみたいだが、男はそんな女を厳しく叱り付けて、常に女を自分の支配下に置こうとしているようだった。見た目は大人しそうだが独占欲の強い男だと思った。女の紹介によると、男の名前は若村修一というそうだが、女は青山という名字を名乗っていた。最初は夫婦なのかと思ったがどうやら訳ありカップルらしい。とにかく私は適当に挨拶だけ済ませて距離を置くことにする。五十年もタバコ屋で客商売をしていると勘が鋭くなるものだ。危ない人間特有の匂いがその男女には感じられる。
 島民の間で噂の診療所を訪ねてみた。なんでも腕利きのお医者様がやって来られたそうだ。わしには難しいことはよくわからないが、杖を着かないとろくに歩けなくなった足の具合がなんと回復の兆しを見せ始めたのだ。初めて診てもらった時は、義足なんか付けていて大丈夫なのかと疑っていたが、優しい笑顔で適切な処置をしてくれる立派な方だった。診察を受けたことがない島民には陰口を叩かれているそうじゃが、わしら患者にとっては青山先生に感謝の言葉もない。ただ、少しだけ気になることもある。時折病院の隅で見かける陰気臭い男は何者なのだろう。こちらが挨拶しても俯いて返事もしない無愛想な男だ。まさかあんなのが青山先生の恋人なんてことはないじゃろうが、青山先生が悪く言われるのはあの男に原因があるのではないか。
 魚釣りをしているとカッパに出会った。大体人間の大きさぐらいで、水に濡れた前髪がおでこにへばりついて目の隠れたカッパだった。僕にはどう見ても人間にしか見えなかったけれど、彼は若村カッパだと名乗っていた。僕には若村カッパのいうことが冗談には聞こえなかった。若村カッパの鋭い目付きには、嘘を真実に変えようとする勢いのようなものがあった。だから僕は若村カッパの存在を信じたし、毎日のように若村カッパと波止場で出会って一緒に魚釣りをしていた。
「もし僕が、若村カッパを人間だと思ったらどうする」
 冗談のつもりで一度だけ、若村カッパにそう聞いたことがある。今ではとても後悔しているけど、僕がそう聞いた途端に若村カッパは暗い顔をして塞ぎ込んでしまった。一体何がそんなに悲しかったのか僕には理解できない。でもきっと若村カッパには大変な理由があったんだと思う。近所の女の子に若村カッパのことを言ったら馬鹿にされたけど、若村カッパはカッパでいるのが心地いいんだからそれでいいじゃないか。
 お母さんとの約束を破ってしまった。学校の自習時間に、友達と一緒になって学校の裏手にある立ち入り禁止の森に入ってしまった。その森には以前から偉い学者さんがこの辺りの島にしか生息しない珍しい昆虫の研究をしているらしくて、友達は皆、興味を持っていたんだけど、役所の人が邪魔しちゃいけないからって絶対に入れてもらえなかった。つまり私は無断でその森に入ってしまったのだ。
 今では悪いことをしたと反省してるけど、結局のところ特に変わった昆虫は見なかった。数が少ないから見つけられなかったのか、私には詳しくわからないけど、その森の中で遠目に見かけた病弱そうな学者さんらしき人が妙なことを呟いていた。「この森には大きなムシがたくさんいるな」って。私は大きな虫なんて見なかったけど、あの人は一体どんな虫を見つけたんだろう。
 うちは狸で穏便にやってきたが、とうとう狐に会っちまった。島民の間で噂のあの男女が、うちの店にやって来た。もちろん客には違いないからうちの従業員も、大酒をかっ食らってた漁師達も一緒に彼らを歓迎したさ。女は嬉しそうにとびきりの笑顔で挨拶してくれたが、男の方はそりゃあもう陰気なもんだった。わざわざ真ん中のテーブルを空けて歓迎してやったのに俺達と口を聞こうともしなかった。
 たまに喋ったかと思えば、小さな声で女とひそひそ話をするばかりだった。男の中でも豪快な野郎ばかりが集まる店だから余計に女々しく感じたよ。口にこそ出さなかったが皆あの男の悪い印象は拭えなかっただろうな。それだけで済めばまだ許せたんだが、あの男、店に飾っていた娘の絵を見た途端、うちで食った料理を吐き出しやがった。美大生をやってるうちの娘が自分の顔をデッサンして送ってきてくれたものなんだが、吐き気を催すほど酷い出来だったとでも言いたいのか。全く狐につままれた気分だよ。
 初めまして、青山志保です。あちらの方は若村修一さんです。二人とも今日からこの島でお世話になります。皆さんどうぞよろしくお願い致します。
 あの、職業は、ドクターをやっています。ちゃんと厚生省に認可された医師免許を持っております。この島には今、ドクターがいないそうなので、皆さんに病気やお怪我があれば私が診療致します。
 えっと、義足については、あまり詳しく聞かないでくれませんか。どうしてもとおっしゃるなら若村さんと相談してからでないと。いえ、彼に怒られるからとか、自分の意思がないわけではないんですけど。とにかくすみません。
 若村さんですか。彼の職業は、そうですね。しいて挙げるならヘルパーかな。優しいんですよあの人、傷付いた子供とか動物とか虫でさえも凄く心配してあげるんですよ。でも人と打ち解けるのは苦手なんですけどね。いえ、決して危ない人なんかじゃないですよ。二度とそんな失礼なこと言わないでくれませんか。若村さんは若村さんというれっきとした人間なんです。先入観に惑わされないで、彼の人間性を正しく評価してくれるようお願い致します。紹介は以上です。
 生まれて初めてオイシャさんに出会いました。背が高くて、痩せてて、かっこいい、男の人でした。私は丁度お腹が痛かったから、オイシャさんにお腹を治してくれませんかって頼みました。するとオイシャさんは私を真剣に励ましてくれて、私の腕に薬の入った注射をしてくれました。痛みを和らげてくれる麻酔だとオイシャさんは言っていました。私はどんどん眠くなって寝てしまいました。目が覚めた時にはすっかり暗くなっていました。
 オイシャさんは寝ていた私の傍にずっといてくれていたそうです。もう大丈夫、しばらくすれば痛みは引くはずだよって言ってくれました。私は泣いて喜びました。まだお腹は痛みますが今日はぐっすり眠れそうです。自己紹介をしていなかったので今度会った時には元気な姿を見せて、貯めていたお小遣いで診察代も払いたいと思います。できれば仲良くなれたら嬉しいな。

 3

 父と母が離婚したことをよく思い出す。十四歳になったばかりの頃だ。青山修一という名前だった彼は、母方に引き取られて若村修一という名前に変わった。だからどうというわけではないが、彼はそのことをよく思い出す。
 それとは別に、カルテを付け忘れた子が死んだ。名前は何だったろうか、検死を行った結果、体内に入っていた裁縫用の断ちハサミが血管を切り裂いて致死量の出血を起こしたようだ。若村は死んだ少女とその家族の方に冥福を告げた。
 やはり、人の死は悲しい。例え相手をどんなに忌み嫌っていたとしても自然に涙が流しまう。しかも彼女は明らかな医療ミスで死んでしまった。若村が殺したも同然なのだ。若村は悲しみで胸が張り裂けそうになり、またうんざりするような窮屈を感じた。
 死亡診断書を書き終えた若村は気分が悪くなった。死んだ子の家族には葬儀には出席するなときつく叱られてしまった。顔も見たくないそうだ。力不足で申し訳ない。もっと力があれば助けることができたのだが、医者は完璧ではないのだ。
 この島には死体を灰にできるほどの火力を生み出せる場所がないから、その子は恐らく、土葬されるだろう。死亡診断書は形式上のもので、表向きは火葬したということにしたいがためだ。この島の大人は秘匿にしているがとうに調べはついている。若村は人間の死臭が漂っているあの森の中に、行ったことがある。
 醜聞を包み隠す島民の人間性に関して、特に興味は持たない。誰にだって悪い部分はあるものだ。頭蓋骨が転がっているような杜撰な管理をしていようが、土葬が難しい大柄な漁師の死体を海底に沈めようが、若村がこちらから島民に悪い感情を抱くことはない。自分も医療ミスで人を死なせてしまっているし、何より優しい人ではないから、誰かを責め立てることすら放棄してしまっている。
 志保に修ちゃんは現実逃避をしていると言われたが、きっとその通りなのだろう。現実は怖くて恐ろしい。都会でもそうだった。いつの間にか自分の視界から現実が消えていくような錯覚に陥る。見える景色が押し潰されて、平べったくなったような窮屈を感じる。見える世界が狭くなると退屈を覚えて頭も鈍っていく。これから何処へ行って何処へ流れていくのか考えられなくなる。若村修一の人生そのものが、非常に困難なのかもしれない。
 でも志保だけは、若村さんと呼び続けてくれるのだろう。彼女はいい人で、昔から憧れていた。彼女は誰とも分け隔てなく付き合えるから人気者だった。可愛らしい顔もしているし、現に大勢の男から交際も申し込まれていた。若村は小さい頃から彼女とは仲が良かったけれど、不安に駆られた。彼女が他の誰かの手によって汚されることを思うと身震いした。怖くなったのだ。
 今でも、彼女には、悪いことをしたと思う。翳りのある彼女の笑顔を見るのは正直辛い。願わくば彼女と別れたい。そんなに辛いなら逃げてもいいのだけど、逃げ出すわけにもいかない。彼女は翳りのある瞳で若村修一を見守ってくれる。これからもずっと愛してくれる。だからどんなに辛くても、彼女を大切にしてあげたい。
 玄関の戸が開けっ放しになっている。若村は家に帰ってきていた。志保は外出しているのだろうか、家の中に姿が見えない。若村は冷蔵庫を開けて冷え切った缶コーヒーを飲みながら静かに志保が帰ってくるのを待ち侘びた。
「修ちゃん、おかえり。帰ってきたんだね」
 家に帰ってくるなり、志保はとびきりの笑顔を見せてくれた。若村も志保に釣られて笑みを浮かべた。先ほど別れたばかりなのに妙に懐かしかった。
「今回も長かったね。お医者さんごっこがそんなに楽しかったの。でもあんまり、遅くまで遊んでちゃ駄目だよ。私、修ちゃんをずっと待ってたんだよ。御飯作って、玄関も開けて、ずっと待ってたんだからね」
 志保はそう言いながら涙を流していた。顔を真っ赤にして、肩を震わせて、若村の目を真っ直ぐ見つめていた。
 若村は困惑して、返す言葉が浮かばなかった。なぜ彼女が泣いているのか理解できなかった。
「ごめんなさい。俺が悪かったよ、志保」
 無意識に謝罪の言葉が口から出てきた。どうして謝ったのかわからないが、無性に謝らなければいけないような気がした。志保は若村の胸に飛び込んで泣きじゃくった。人前で滅多に涙を見せない気丈な志保を、若村は黙って慰めてあげた。
 なんだか全てが懐かしかった。志保の泣き顔も、この家も、この雰囲気も。きっと似たような体験を以前にしたことがあるからだ。だが記憶が漠然としていて思い出せない。一度や二度ならまだしも、若村は過去にもっとこんなことを経験したはずなのだ。なのにどうしても実際に起きた現実の出来事を捉えることができない。
「お願いだから、もう泣かないで。俺が悪かったよ。志保を傷付けるつもりはなかったんだ。ごめん、ごめんなさい」
 若村を志保を抱き留めながら涙を流していた。無性に込み上げてくる自分への苛立ちと、志保への罪悪感に苛まれて涙腺が壊れていた。それと同時に胸が圧迫されて、息が詰まりそうな窮屈を感じた。吐き気を、催してくる。
 それから後のことはよく覚えていない。気付けば若村は布団の中にいて、隣の布団に志保の顔が並んでいた。どうやら真夜中のようで、辺りは暗闇に包まれていた。
 寝付けそうにない若村は、志保の寝顔を寂しげに眺めていた。彼女にまた迷惑をかけたのだろうなと思った。幸せにしてあげたい女性なのに、無力な自分が情けなくてたまらなかった。
「若村さん」
 突然、志保は寝言で誰かの名前を呼んだ。何処か聞き覚えのある名前。
「若村さん、やめて。私は何処にも行きませんから」
 誰かと思えば若村修一のことだった。志保は夢の中に登場した若村にうなされていた。彼女と若村は付き合っていて、お互い好き同士で一緒に生活しているはずなのに、これほど苦しい顔をするのは、きっと若村が酷いことをしたからだ。
 記憶は朧げだが、若村には思い当たる節がある。十四歳になった志保が、若村の知らない男からデートに誘われた話をした。当時はまだ志保との関係は、付き合いが長くて仲良しな友達のままだったから、志保にデートに誘われた話をされても、若村には引き止める資格がなかった。志保のことはずっと想っていたが、どうしても恥ずかしくて告白できない。しかし彼女が他の男とデートをするのもまた我慢ならない。そんな窮屈な重圧に押し潰されて、若村は恐らく、行かせたくないという気持ちに捉われてしまったのだろう。
 あいつは、自分の部屋に志保を招くと、何の躊躇いもなく志保を椅子に縛り付けた。そして日曜大工で使うようなノコギリを持ってきて、表情一つ変えずに志保の右足を切り落とした。志保の割れるような悲鳴を聞いても、血飛沫が顔に跳ねても、黙ったまま右足を切ることだけに専念していた。まるで感情を失った人形のようだった。
 だがあいつは志保の右足を切り落とすと、今更人間らしい心配した顔付きに戻った。自分がたった今、犯した行為については全く覚えていないようだった。右足を失って泣き喚いている志保を、初めて見たような素振りをして、慌てて病院に連れて行った。
 右足はこま切れに切断されていて手術をしても元には戻らなかった。足を切り落とされた志保の心中は彼女にしかわからないものがあるだろうけど、あれから志保はいつもより笑うようになった。傍からも見ても無理していた。どんな些細なことでも無邪気に笑っている彼女には明らかな翳りが見えた。
 志保はあの時のことをずっと引き摺っているのだろう。たまたま彼女の親が医者だったから、右足を失ったハンデを背負っても医者になれたが、そもそも志保が医者になろうと思ったのは、自分の悲惨な体験が背後にあったからで、若村に傷物にされたあの事件のせいで志保の人生は捻じ曲がってしまった。
 志保がどうして若村を責めないのか、どうしてあいつに尽くし続けるのか。恐怖に支配されて若村に心を捕らえられたのかもしれないし、尽くすことで若村に復讐をしているのかもしれない。いずれにせよ、志保にでもならないとわからないことだ。
 けど若村のことは知っているつもりだ。あいつは志保を苦しめた悪い人間だ。自分の立場を弁えない身勝手な男だ。だからあいつに自覚させてやらなければならない。今までどれだけ志保や周りに迷惑をかけてきたのか思い知らしてやる。きっとあいつは自分の過ちなど意にも介していないはずだから。
 いつか志保の笑顔を取り戻せるだろうか、志保の寝言を聞きながら物思いに耽っていた若村は、また吐き気を催してトイレへと駆け込んだ。

 4
 
 さっき若村カッパに出会った。成長して僕の背が伸びたから気付かなかったみたいだけど、僕が釣竿を貸してあげたら若村カッパは嬉しそうに笑ってくれた。
 島の人の殆どは、若村カッパを恐れている。小西薫ちゃんを殺した極悪人だからって。価値観なんて人それぞれだから、若村カッパをどう捉えるかは自由だけど、僕はまだ彼を信じている。
 実際に彼は罪を犯したのだろうけど、悪い人間ではないと思う。悲しそうな目をして釣りをしている若村カッパを見ていると胸が痛む。せめて僕だけは若村カッパの味方になってあげたかった。
「島の人に何か言われても、気にすることなんてないよ。若村カッパは優しい人なんだから、胸を張ればいいんだよ」
「木野君、俺は人じゃなくてカッパだよ」
「ごめん、そうだったね。気にしなくていいんだよ若村カッパ、あなたは悪くなんかない。薫ちゃんを殺したのもそれなりの理由があったからだよね。無闇に人を傷付けるわけないよね」
 若村カッパは僕の言葉に耳を傾けなかった。僕の弁解を喜んでくれると期待していたから、少しだけ残念だった。
「最近、窮屈を感じないか。俺はこの島の静かなところを認めてたんだが、暮らしていく内にそうでもなくなったよ。不快で耳障りな声ばかり聞こえて落ち着かないんだ。どうしてこうなったんだろうな」
 黙っていた若村カッパが、ふと呟いた。僕が横目で若村カッパの顔を見ると、若村カッパは今まで見たことのない鬼のような険しい形相をしていた
「どうしてって、それは多分、若村カッパが薫ちゃんを殺した、からじゃないかな」
 恐怖心から小声になっていたけど、若村カッパはそれを聞いた途端、釣竿を海に捨てて僕を睨み付けた。
「木野君、それは君が望んでいたことだろ。まるで他人事みたいに言ってるけど、君はあの子に馬鹿にされたことを散々愚痴ってたよね。俺は同情してあげたんだよ」 
「まさか、それを真に受けて薫ちゃんを殺しちゃったの」
 僕は自分の耳を疑った。確かに薫ちゃんに若村カッパのことを言ったら馬鹿にされたけど、いくら優しい人だからってそんな理由で簡単に人を殺せるだろうか。
「勘違いしないで欲しいな。俺は必死で治そうとしてたよ。結果的に残念なことにはなったけど、君があの子を憎んでいたのは事実だろ。この島の連中だって人のことを無下に扱ってるし、俺だけ責められるのはおかしいんじゃないか」
 台詞と表情が合っていなかった。怒りに任せて捲くし立てていたはずの若村カッパが、悲愴めいた顔をして独り言のように呟いていた。この島の連中がどうとかいう話はよく知らないけど、僕は若村カッパを哀れに思った。なんて可哀想な人なんだろう。
「悪かったよ若村カッパ。薫ちゃんが死んだのは、僕のせいだ。これでいいだろ」
 なるべく本心がばれないように謝ったつもりだけど、若村カッパには見抜かれてしまったみたいだ。僕が、若村カッパを軽蔑していることに。若村カッパは最後に釣竿を捨てたことを謝って、僕の前から姿を消してしまった。
 だって、仕方ないじゃないか。庇ってあげたいけど、若村カッパは責任の一端を僕に押し付けようとした。共犯者に仕立て上げようとした。そんな人の味方になるなんて僕にはできない。元々はどうせ自分の撒いた種であって、どんなに責められても文句は言えない立場なのに偉そうなんだよ。そうだ、僕の知ったことか。あいつの自業自得なんだよ。
 陸から離れた島にも駐在所はある。定年近い物忘れの激しい老人が一人いるだけだが、それでも機能はしている。罪人が極めて少ないからだ。この島の人間が法を犯さない人格者ばかりというわけではない。人口が少ないことを利用し、島民同士の結束を強めることによって、例え犯罪者が現れても島民同士で隠蔽しているからだ。
 駐在所の記録にはないが、過去に十数人の島民が殺された大きな事件があった。村八分による虐殺であり、その内容は凄惨たるものだが、駐在の老人の耳に入ることは決してない。火葬を行えない環境もあいまって、犠牲者の死体を隠すことなど島民が結託すれば簡単なことだ。
 青山志保はその事件のことを知っていた。この島に引っ越してくる以前からその情報を仕入れていた。態度にこそ出さなかったが、志保は挨拶周りをしていた当初から島民の人間性を快く思っていなかった。むしろ軽蔑すらしていた。しかしだからこそ志保はこの島に目を付けて、若村と一緒にやって来た。
 この島の人間なら、もしかしたら、若村のことを受け入れてくれるかもしれない。志保は若村のためを想って引っ越してきたつもりだった。だが所詮それも夢物語に過ぎなかったようだ。島民は若村に対して、過剰なまでの憎しみを前面に押し出すようになった。
 志保は、通りを歩いているだけで罵声を浴びせられる若村を悲痛に見守っていた。人殺しと罵られ、何処からも塩を撒かれる若村はもはや、島民と友好な関係を築くことは不可能だろう。今は志保を支持してくれる患者達の反対意見もあって、何とか均衡を保っているが、いずれは昔やったように実力行使で若村を排除してしまうかもしれない。この島の人間なら、方針が固まれば若村を虐殺することに躊躇しないだろう。
 志保は複雑な気分になった。志保に決して悪意はなかったが、よく考えればこんな展開になるのは読めていたはずだ。仲間意識の強い島民が、人付き合いの苦手な若村と打ち解けるのは困難を極めることなど。これではまるで若村を島民に殺させたいがために、この島に誘ったようなものではないか。
「修ちゃん、一緒に海に行かない」
 島民が寝静まった夜、志保はいつになく真剣な面持ちで若村を誘った。若村は志保の心境を悟ってか、夜更けの海に出かける理由は尋ねず、無言で頷いていた。  
 二人は足場の見えない傾斜を転ばぬように身を寄せ合って、この島について語り合った波止場のベンチに座った。星明りが二人の顔を淡く照らす。二人ともなかなか話さないので、繰り返し打ち寄せる波の音が耳に響く。
 志保は、何から話していいのかわからない様子だった。若村も志保に話したいことはあるのだろうが、誘ってくれた志保を尊重して切り出してくれるのを待っていた。
「修ちゃん、いえ、若村さん」
 やがて志保は改まって若村の名を呼んだ。
「どうかしました、青山さん」
 若村も志保に合わせて改まった。暗闇に隠れて互いの表情は確認できなかった。
「急にお呼びだてしてごめんなさい。でも何かお話したい気分だったんです。こういうことを聞くのも変ですけど、若村さんは今、幸せですか」
「唐突だな。上手く言えないけど、幸せとは感じないよ。前に青山さんが言ってた通り、ここは刺激的だし都会と何にも変わらないよ。息苦しさも何もかも」
 若村に胸の内を告げられて、志保は寂しげに俯いた。
「何処に行っても上手くいかないね。悔しいよ、若村さんはいい人なのに、結局あなたを理解できるのはいつも私だけ」
「仕方ないよ。実際に俺は悪い奴なんだから。それに志保だって俺のこと嫌ってるからこんな島に呼んだんだろ」
 若村に言われて志保は動揺した。本心ではないのに核心を突かれたようで。
「若村さんは知っているの、この島の人のこと」
「暮らしていく内になんとなくね。森に転がってる白骨死体とか、浜辺に打ち上げられる溺死体を見れば、健全とは言い難いからね。青山さんは引っ越す前からわかってたの」
「はい、今まで黙っててごめんね。けど決して他意はないの。私は若村さんの幸せを願ってこの島に引っ越そうと思ったの」
「わかってる。嫌ってるからなんて冗談だよ。志保は昔からいい奴だったよ。あんな酷いことされたのに、俺のことを好きでいてくれるんだから」
 昔のことを若村から切り出されて志保は驚いていた。若村は良くも悪くも、過去のことを忘れがちな人だ。記憶喪失になっているのかと思う時すらあるほどに。
「覚えてたんだね、あの日のこと。若村さん私の義足に触れないから、忘れてたのかと思った」
「極たまにだけど、あの日のことを思い出せるんだ。すると普段見えないものが急に見えるようになる。その度にあの日の狂った自分の姿を思い出すよ。今も妙に目が冴えてるんだ。俺ってあんな風に知らない振りして、悪いことばっかりしてたんだよな。自分で自分が情けなくなるよ」
 若村は声を落としてそう語った。暗闇に慣れた志保の目に悔し涙を溜めている若村が映った。
「そうだったんだ。ごめん、私わかってなかった。修ちゃんは全部わかってて、その、酷いことをしたのかと思ってた。けど違うんだね、やっぱり修ちゃんは優しい人なんだね」
 志保は自然と笑顔になっていた。意識せずに志保が笑ったのは随分と久し振りのことだった。若村の事情を知って、僅かにわだかまっていた若村への支えが取れたようだ。
 だが若村の顔は相変わらず曇っていた。昔の笑顔を取り戻しつつある志保に、切り出しにくそうに、波に掻き消されそうなほど小さな声で呟いた。「優しくなんか、ないよ」
「優しくなんか、ないんだよ」若村は自分への苛立ちを我慢できずに叫んだ。「どうしていつも庇うんだよ。俺は人を殺しているんだぞ。志保だって俺に足を切られただろ。憎くないのか、嫌いにならないのか、お願いだから俺を責めてくれよ。お前の笑顔を見てると、辛いんだよ。耐えられないよ」
 若村にそう嘆願されても志保は全く動じなかった。「そんなの無理だよ修ちゃん、私修ちゃんのこと好きだから、嫌いになんかなれないよ」
「だからどうして、好きでいられるんだよ」
 泣いてしまいそうな若村を励まそうと、志保はより笑みを深めて言った。「理屈じゃないんだよね。孤児だった私を修ちゃんの両親が家族にしてくれた時からの付き合いだもんね。一緒に過ごすのが当たり前だったし、修ちゃんは本当の妹みたいに私を可愛がってくれたよね。両親が離婚してからも、私達はよくお互いの家に遊びに行ってたよね。些細なことでも相談したり、励まし合ったり、笑い合ったり。だからさ、例え修ちゃんが酷いことをしたとしても、もう嫌いになんかなれないよ。ずっと私に愛されることが、修ちゃんにはそんなに重荷なの」
 志保の笑顔のせいか、重い台詞が軽く聞こえた。若村は曖昧な表情を浮かべて半ば納得したようだった。色恋は確かに理屈だけではないが。
「でも、これ以上俺といても志保は幸せになれないよ。俺はまた酷いことをするかもしれないし、それ以前にこの島の人間にどんな仕打ちを受けるかわかったもんじゃないよ」
 それが今いえる若村の精一杯の親切だった。
「構わないよそれでも。修ちゃんと一緒にいられるなら私は幸せだよ。それにさ、修ちゃんに迷惑かけられるのは今に始まったことじゃないよね。これからも仲良くやっていこうよ、若村修一さん」
 だがやはり、志保は悪戯っぽく微笑んで若村を受け入れてくれた。若村は志保の将来のことを想って悲痛な面持ちになった。志保と一緒に暮らしたい願望もあり、若村は葛藤していた。
「でもやっぱり、よくないよ。志保にはもっと自分の人生を大切にして欲しい」
「若村さんと一緒に生きることが私の人生なの。私も修ちゃんの生き方を認めてるんだからそれでいいじゃない。それでもまだ不満だというなら、今ここで私を殺してください。修ちゃんと一緒にいれない腐った人生なら、死んだほうがマシだよ」
 業を煮やした志保は声を荒げて若村を叱りつけた。親に反抗する子供を教育するように。若村はそんな志保の勢いに気圧されて呆然としていた。
「ごめん、横暴で勝手だけど、私の素直な気持ちを伝えておきたかったの。私はずっと修ちゃんの味方だからね」
 結局、若村は志保の甘い誘惑に負けてしまった。孤独な立場に置かれた若村にとって、あそこまで確固たる意思をもって自分の存在を受けれいてくれる人を、それも好きな人を拒絶することなどできるはずもなかった。相変わらず情けない自分に腹が立ち、嫌気が差した。そして家に戻った若村は、一晩中起きて、今、志保のためにできることを考え続けた。
 志保が幸せになってくれるなら、自分はどうなっても構わない。それだけの罪を重ねてきたし、甘んじて処罰を受け入れるべきなのだ。
 翌日、ゆるやかな時が流れる島に異変が起きた。見覚えのない新しい住民が現れたのである。島民の誰しもに別人だと錯覚させたそれは、島民の嫌悪の対象であった若村修一だった。
 彼は慣れない笑顔を作って、島中の家々を一軒一軒訪ねては挨拶をし、小西薫を死なせてしまったことを地に頭を付けて謝罪していた。許されないことだとは承知しています。どんなに責められても返す言葉はありません。ですがうちの家内だけは、青山志保さんだけは温かく見守ってあげてください。私は皆さんに許してもらうためならどんな罪滅ぼしも受けますから、どうかよろしくお願い致します。
 彼からこれほど積極的に人に歩み寄るのは初めてだった。それも本心では軽蔑しているであろう島民に対して、志保に幸せになって欲しいがために、若村は門前払いを食らっても玄関前で頭を下げ続けた。
 謝罪を受けた島民は、各々の裁量と価値観で別人のように変わった若村に評価を下した。寛大で器量のあるものや、排他的で悪を許せないものや、支離滅裂で理不尽なものまで様々だ。今回の若村の行動によって一枚岩で固められた島民の総評に少しは影響を及ぼすかもしれない。いずれにしても、方針が決定するまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
 志保は、診療所の昼休みに箒を持って他人の家の前を掃除している若村を見かけた。自分のために笑顔を作って罪滅ぼしに励んでいる若村に、志保は声をかけなかった。ただそっと静かに影から見守るだけ。若村の行為を哀れむような翳りのある瞳で。 
 
 5

 どうして。本来は存分に言い訳をすべきなのに。誰だって好きで人を殺しているわけではない。島民の村八分による大虐殺にしたって、それだけ存在を消滅させなければならない集団がいたからだ。なのに島民は言い訳も反論も一切せずに、集団意識と恵まれた地理を匠に利用して事実を隠蔽した。それは島民が最初から自分達の行動を悪であると決めているから。裁量や価値観は人それぞれわかれているのに、取りざた悪というものに対しては統一を図ろうとするその心理は理解できない。心の拠り所として断定できる指標を求めているにしても、その対象を善悪にする必要は特に感じられない。
 何よりその悪というものにも種類がある。島民に媚びへつらっている若村さんに関してもそうだ。私が記憶している限り、彼が自分の行為を悪だと認めて犯した行為はたった一回だけだ。義理の妹の足を切断した時の一回きり。それ以降も、彼は何度か罪を重ねたが、彼はその時の状況を詳しく覚えていないはずだ。そんなこともあったと思い返すだけだろう。それもそのはずだ。私を傷付けてから彼は人に対して過剰に怯えるようになったし、悲劇を繰り返さないために人に悪意を持つことを放棄するようになってしまった。可哀想な人だと思う。彼は誰にも悪意を持たないのに、実際に彼が行動しているものだから、彼の犯した罪は取り上げて責められる。多分、これからも一生、そんな生活を送っていくんだろう。
 目に見えるものが真実とは限らない。自分の犯した行為を悪だと断定してはいけない。肝心なのは自分の裁量と価値観を信じてそれを貫き通すこと。無鉄砲でやんちゃだった青山修一さんなら私と同じ目線で、同じ価値観を共有できたはずなのに。目に見えるものだけを過信している若村さんには、理解できないんだろうな。可哀想な人、ごめんなさい、でも愛しています。
 目に見える現実に翻弄される日々。島民から吐き魔とからかわれるようになった頃、若村のみそぎは一段落を迎えた。ベビーシッターやら臨時の保育士やら、居酒屋狸の店員やら立ち入り禁止の森の警備員など、若村は島民の要望に応えて様々な職を転々とし、無事に満足のいく功績を挙げていた。その結果、若村は島民から許しを得ることができた。
 まだ完全とはいえないが、今では島民の一人であると認められている。親しい友人もできたし、大雑把な性格の漁師などは、過去の経緯など忘れて若村と飲み交わすことを楽しみにしている。若村自身もまた昔の暗い面影は何処かへ消えて、生き生きとした明るい表情を見せるようになった。
「あ、若村カッパ」
 波止場を歩いていると、久し振りに顔馴染みの少年と出会った。若村は後ろめたそうにするその少年に、新品の釣竿を手渡した。
「もう、カッパはやめたんだ。木野君、また一緒に釣りをしようよ。今度は人間同士の友達としてさ」
 若村は仲違いした少年に明るい笑顔を見せた。少年は若村に捨てられた釣竿の代用品を抱き締めて、嬉しそうに目から涙を零していた。「うん、ありがとう若村さん。また一緒に釣りしようね」
 全てが順風満帆のようだった。若村の目に見えていた窮屈な世界は、何処までも広くて自由な心地良い世界へと変わっていた。たまに女性の顔を見ると、志保の足を切り落とした残忍な自分を思い出して吐いてしまうが、それも島民に受け入れられた今とはなっては許容できる範囲だ。だがそんな若村にも気懸かりなことがあった。
「修ちゃん、最近お医者さんごっこしなくなったね」
 やはり志保のことだ。彼女は相変わらず無邪気に笑ってくれる。罪滅ぼしをしている際も、若村を傍で支えてくれていたのだが。
「あのさ、志保、俺って医者じゃないよね多分。医者に戻ろうかと思ったけど、よく考えたら医師免許持ってないんだよね。でも以前の俺は医者やってたんだよね。何かおかしくない」
「そうかなあ。無免許の医者なんて沢山いるよ。ドクターの数は足りてないし、患者が知らなければ修ちゃんは紛れもなくお医者さんだよ」
「知らなければって、それじゃあ詐欺だよ。半端な知識で勤まる職業じゃないだろ」
「えへへ、そうだね。下手したら狩野さんと沢松さんと日向井さんと小西さんみたいに、なっちゃうよね」
 話している際の志保の笑顔には翳りが見えた。志保が心から笑ってくれていないのを若村は気に病んでいた。志保の幸せのために罪滅ぼしをしてきたはずなのに、肝心の志保の翳りはむしろ以前より酷くなったように感じる。自分の行いが間違っているということなのだろうか。
「修ちゃん、どうかしたの。暗い顔はよくないよ」
 八方塞になった若村は、どうしていいのかわからなくなった。志保は若村の生き方を尊重していて、過度の幸福を求めていないようだけど、その翳りを消すまでは本当の幸せとは言えない気がする。
「志保、俺と一緒にいて本当に幸せか」
 耐え切れなくなった若村は、つい本音を零してしまった。志保は笑ったまま若村の目を見つめて答えた。
「幸せ、だよ」
 若村は志保と目を合わせるのが怖くなって、思わず逸らしてしまった。だが耳に入った乾いた響きが志保の心中を明確に伝えていた。彼女は、嘘を付いている。
 途方に暮れたまま現実は流れていく。若村は徐々に志保を幸せにする目的から逃げて、親しい友人と夜遅くまで酒を飲んだり、少年と釣りをして、志保と会話する機会を減らすようになった。彼女の翳りは若村の胸を締め付ける。彼女と一緒にいることが、今若村にできる唯一のことなのだろうけど、彼女といると窮屈を感じる。また昔の自分の戻ってしまいそうな感覚になる。それがたまらなく怖い。今いる自分をいつまでも実感していたい。明るくて島の人と共生できる、島民の一人でありたい。
 しかし逃げたら、逃げたらで、若村の不安は大きくなる一方だった。志保に恐怖を感じる生活を送り続けるのは身が持たない。もう一度、波止場のベンチで彼女と語らって、幸せな生活を送るためにどうしていけばいいのか、地道に答えを探っていくしかない。
 決心を固めた様子の若村は、知らず知らずの内に森に入っていた。喪服姿で手には花束を携えていた。島民の要望で人骨を片付けた獣道を進んでいく。地面に石版が並んでいる開けた場所に着くと、若村は一目散に隅の方にある石版の前に立ち、その死者へ花束を捧げた。
 石版には若村が殺した小西薫の名前が刻まれていた。若村は手を合わせて彼女に冥福を告げた。待たせちゃったね。君の家族には憎まれていて、絶対に墓参りには来るなって言われてたから、今まで来れなかったんだ。まだ君の家族に許しを得たわけではないけれど、君に謝らない限り俺はいつまで経っても人殺しの極悪人のままだと思った。どんなに島の人に好かれても、俺はまだ、自分の妻一人幸せにできない無力な奴だから。君は殺した罪は一生背負っていきます。ごめんなさい、それ以上君に伝えられる言葉を知らないけれど、ごめんなさい、謝ることしかできなくてごめんなさい。君の分まで生きるなんて勝手なことは言いません。あの世からずっと俺のことを憎んでいてください。俺は自分のために生きます。妻を幸せにできる男になってみせます。ごめんなさい、生まれきてくれて、ありがとう。
 長い冥福を終えた若村は目を開けた。いつの間にか日が落ちて辺りは夕闇に包まれていた。若村は不思議そうに空を見上げて大きく息を吐いた。志保がいるあの場所へ帰ろう。
 そう思った矢先、若村は顔を蒼白させて夜中まで森の中から帰って来なかった。目に見えるものだけが、彼の現実であり、真実だった。
 家に帰ると、テーブルに冷え切った料理がラップに包まれていて、自分の分を食べずに待っていたくれたらしい志保は、翳りのある笑顔で若村を出迎えてくれた。
「おかえり修ちゃん。お腹空いたでしょ、今温め直すからちょっと待っててね」
 若村は生気を失った瞳で志保を見ていた。志保も気付いているようだが、特に気に留める様子もなく、黙々と電子レンジで料理に熱を加えていた。
「志保、飯はいい。今はそんな気分じゃないんだ。そんなことより」
 若村は喉元まででかかった言葉を押し殺した。志保はレンジの電源を切って、立ち疎んでいる若村の顔を覗き込んだ。
「そんなことより、なあに」
 若村は志保の顔を直視した途端、猛烈な吐き気に襲われた。志保の足を切り落とした残忍な自分の顔が、頭の中で、うごめいて。
「ごめんなさい、また、人を殺しちゃった。死んだんだ。森の中で、倒れてて、内臓が飛び出てて、ぐったりしてて、呼んでも、起きなくて」
 若村は恐怖に声を震わせ、涙を流しながらそう告白した。若村は森の中で、いつも一緒に釣りをしていたあの少年の死体を見つけた。目鼻が切り離されて脳が露出した惨殺体を。
「何で謝っているの。修ちゃんが、殺したの」
 志保は平然としていつも通りの笑顔を絶やさなかった。心配そうに若村の頭を撫でてあげる。
「そうだよ。俺が殺したんだよ。なぜか手に包丁を持ってて、その包丁に血が付いてて、だから、だから」
「本当に。証拠はあるの。修ちゃん、その子を殺した時のこと覚えてる。どんな理由があって殺したのかはっきり言える。私にやった時みたいに、ちゃんと思い浮かべることができる」
 冷静な志保の問いかけに、若村は答えに窮した。どうして殺したのか、そんなことは知らない。状況なんて何一つ覚えていない。でも若村は前科持ちだし、血濡れの包丁を持っていたし、彼とは過去に仲違いしたし。
「何も覚えていないんだね。なのにどうして謝るの、悪いことしてないんでしょ。私何か間違ったこと言ってる。小西薫ちゃんの時もそうだったよね。修ちゃん何も覚えてなかったよね。修ちゃん本当は、悪いことしたなんて思っていないんでしょ」
 志保に言われた瞬間、若村は吐き気を我慢できずに台所で吐き出した。頭が真っ白になって息が詰まりそうな窮屈を感じた。胸がぎりぎり締め付けられるような痛みが走る。そうだ、小西薫を殺した時の状況なんて何も覚えていない。そんな名前の女がいたかどうかすらよくわからない。悪いと思って謝ったことなんてない。ただ志保に幸せになって欲しかったから、それだけの不純な理由で、今まで島民の皆を騙し続けて。また、同じような罪を重ねてたんだ。
「志保、助けて。俺、どうしていいのかわからない」
 精神が崩壊しつつある若村は、藁にも縋る思いで言った。志保はそんな若村を哀れむように見ていた。不思議と彼女に潜んでいた翳りが消えかけていた。
「何もしなくていいよ。修ちゃんは悪いことしてないんでしょ」
「でもその子の死体が見つかったら真っ先に俺が疑われる。また島民の皆に責められる。そんなのやだよ、せっかく打ち解けてきたのに」
 罪を重ねた身分を弁えず、思わず本音が零れでた。自分に嫌気が差すぐらい私利私欲のためだ。
「そっか、自分がいじめられたくないから、嫌なんだ」
 志保は笑って若村を受け入れた。その言葉にも侮蔑はなかった。若村の願いを叶えようと、倉庫からスコップを引っ張り出してくる。
「その子の死体、埋めにいこ。大丈夫、修ちゃんは悪くない。ただいじめられたくないから隠すだけ。修ちゃんだって、そう思ってるよね」
 残酷なことを平然と言い除ける志保を、若村は否定できなかった。彼女の言う通りだった。結局、自分が傷付きたくないだけだ。こんな情けない男が志保を幸せにしたいなんて大それたことを考えていたのだ。若村は自殺してしまいそうな深い悲しみに涙を流して、かつて一緒に笑い合って釣りをしていた少年の亡骸を地中に埋めた。作業中も笑顔で励ましてくれる志保には翳りがなかった。なぜ彼女から翳りが消えたのかを考える気力はなかった。非道でどうしようもないこの男を愛してくれるだけで、若村は嬉しかった。自己嫌悪を繰り返す人生の中で、彼女がまた昔のように笑ってくれるなら、若村はそれで本望だった。彼女が幸せになるなら、鬼にでも悪魔にでも魂を売り渡してやる。
 木野正平の死体が発見されるまでそう時間はかからなかった。彼が行方不明になったことは翌日から大騒ぎになって、島民が一丸となってしらみ潰しに捜索を始めていた。元より死体を隠蔽することに長けた島民は、もし木野正平が死んでいれば何処に隠すのが最適であるかを知っていた。島民は木野正平を掘り返すや否や、真っ先に若村の家を訪れた。お前が木野を殺して埋めたのかと。
「人聞きが悪いな。私は何も知りませんよ。一体何なんですか、私は皆さんにあれほど尽くして許しを得ようとしたんですよ。その私がどうしてまた人を殺さなくちゃいけないんですか。不愉快ですから帰ってくれませんか」
 若村は凄みを利かして島民をそう説き伏せていた。罪の意識はすっかり消えていて、木野正平や小西薫の死は既に他人事のものと扱っていた。自虐に走って悲観することもなくなり、体面を気にせず我が道を突き進むようになった。志保はそんな若村にかつての青山修一の影を見ていた。彼も、強い人だった。義理の妹を守るために奔走する彼はまるで志保だけのヒーローだった。志保の足を切り落としてから彼の人生は苦難に陥ったけれど、彼は遂に帰ってきてくれた。今の若村は志保が小さい頃から恋焦がれていた青山修一そのものだ。
 女としての適齢期も過ぎ、若村が原点に帰った今、そろそろ彼と正式に結び付く時期が来たのかもしれない。
「若村さん、お願いがあります」
 志保は、夕食を済ませてくつろいでいた若村に婚姻届を手渡した。若村と同棲してからずっと大事に仕舞っておいたものだ。志保は改まった真摯な顔付きをし、三つ指をついた。
「私をあなたの正式な妻にしてください。小さい頃から、あなたの家族に入れてもらった頃からずっと好きでした。愛して、いるんです。どうか夫婦に、なってくれませんか」
 志保は目を潤わせて思いの丈を告白した。テレビを見ていた若村は志保の方へ振り向き、指で顔を掻きながらしばらく物思いに耽っていた。
「いいよ、結婚しようか」
 若村が無感動にそう告げると、志保は嬉しそうな笑顔を見せて、若村の胸に飛びついた。長い時を経て結婚できたことに感激して、子供のように泣きじゃくる。若村はそんな志保を他所に、志保の名が既に記された婚姻届をじっと見つめていた。
「まだ、結婚してなかったのか」
 若村は独り言を呟きながら、自分の言動が明らかにおかしいことに気付いた。どうして、結婚していないのだ。志保を愛する妻と思って身を骨にして努力していたのに、実は結婚すらしていなかったのか。順序やら配列やら記憶が所々おかしい。今ここにいる自分は正常で、果たして現実のことが見えているのか疑わしくてならない。
 婚姻届は無事に受理され志保は、青山志保から若村志保に名を変えた。証拠こそ挙がらなかったものの、まだ殺人容疑の疑惑を持たれた若村夫妻が島民に祝福されることはなかった。それでも志保は一途に想い慕っていた若村との新婚生活を存分に満喫していた。無邪気な笑顔を振り撒く彼女から翳りは消え失せ、本当の幸せを掴んだようだった。
 しかし志保の幸福と相反するかのように、若村は常に苛立ちを抱えて、些細なことで激昂する暴力的な男になった。志保との夜の営みで特に際立つそれは、丁度、志保の足を切り落とした時の若村修一にそっくりな残忍な顔を浮かべていた。

 6
 昔とは違うから、自分を正当化しようとは思わない。はっきり言ってただの気狂いが開き直っただけだ。だがこれまで自分の見てきたものが、必ずしも真実ではないことを知って、馬鹿馬鹿しくなったのは本当だ。全く持って現実には呆れている。目に見える現実を大切にして生きるのが正しいことなのかもしれないけど、俺は気狂いだからそう簡単に割り切れなかった。
 実際のところ、真実なんて私にもわからない。でもきっかけは多分、両親が離婚して私とあなたが離れ離れになったことだ。元々一つの下で暮らしてきた私達が二つに別れてから、きっと私もあなたも、強い不安に駆られたと思う。特にあなたは人に優しくて心配性だから、自分の目の届かないところで私がどうしているのか、くどいほど繰り返し尋ねてくれた。私の足を切ったのも、これ以上私の存在を遠くに置きたくなかったからなんだろうね。私はあなたの価値観が好きだし、自分に正直なあなたに憧れていたから、気に病む必要なんてなかったのに。私は臆病で心を閉ざしがちになったあなたを昔のような、二人が別れる前の青山修一さんに戻って欲しいとずっと願っていた。
 罪を重ねる自分を、悲劇のヒーローのように考えて酔い痴れていたから、今まで目に見える現実の異変に気付かなかった。狭い視野の中で物事を考えて、その場限りを曖昧に生きてきた。だが紆余曲折を経て志保と正式に結婚することになった時、俺はこのまま知らない振りをして現実から目を逸らすことに耐えられなくなった。
 私はまだ、あなたに伝えていないことがある。人に悪意を持たなくなったあなたが最初の人を傷付けた時、私はあなたが傷付けたその人にずっと嫉妬していた。あなたを奪われたくなかったから、その人がいなくなればいいのにって。あなたが実際にその人を傷付けたのは、私が願ってから数日も経たたない内のことだった。
 誰かに頭を支配されている。真っ先に頭に浮かんだ現実の正体がそれだった。突拍子もない気狂いの妄想に過ぎないが、それ以外に考えられないのだ。志保を傷付けたあの日以来、トラウマを抱えて人が怖くなった俺が、冷酷に罪を重ねるなんてどうしても信じられない。実際に俺が現場で凶器を持っていて、その傍らで相手が倒れているから俺が罪を被っていただけなのだ。
 おかしいとは思っていた。あなたに優しくしてくれる女の子ばかりが狙われていたから。はっきりとそう感じたのは、小西薫ちゃんが死んだ時だ。たまたまあの子とお医者さんごっこをしているあなたを見かけて、私は子供相手にむきになって、嫉妬してしまった。やっぱりあなたは薫ちゃんを殺したから私は確信を抱いた。あなたが私の嫌いな人を排除していることに。
 それと記憶が漠然としているのもおかしい。傷付けた人間の名前を俺は殆ど覚えていない。まるで都合の悪い記憶を改竄されているかのように。そういえば、俺は人を殺したのに警察に捕まった記憶がない。気付けば家に帰っきていて、決まって志保の泣き顔を見る羽目になる。
 いずれあなたは、私に命令されて人を傷付けていたと解釈するかもしれない。それだけの判断材料は出揃っているし、私も半身半疑でその可能性はあると思う。でも私は自分に罪があるとは一度も思っていない。私はただ、あなたを青山修一さんの頃のあなたに戻して、あなたと幸せな結婚生活を送ることを願っていただけだ。あなたに馴れ馴れしい人に嫉妬するのは私の愛が真実であることの何よりの証明だ。もし誰かが事情を知って、私を悪と罵ろうとも、私の価値観は揺るぎないだろう。
 志保は、森の中で少年の死体を見つけて帰ってきた俺に、修ちゃんその子のことを覚えているのと言った。俺が一度も子供を殺したとは言っていないのにも拘らずだ。あれほど冷静な対応を取れたのも、志保が予め俺が誰の死体を見つけてくるかわかっていたからだ。
 覚悟はできている。あなたが私について何を思い、何を感じても、私はあなたを受け入れる。実際に何が現実なのか、真実が何処にあるかなんてわからない。けれど私があなたを愛していることは真実だ。例えこの先どんな苦難が待ち構えていても、私の気持ちがこれからもずっと変わらないことだけは、忘れないでいて欲しい。
 そう、全ては気狂いがでっち上げた妄想の中の出来事だ。仮に志保が俺を支配して実際に殺人が起きていたとしても、俺は志保を恨まないし、志保を好きな気持ちにも変わりない。小さい頃から、志保と仲良く暮らしてきたんだ。志保は人に怯えて情けなくなった俺をずっと支えてくれたんだ。志保を愛してる。心の底から愛していると誓える。だから、これから俺がすることは決して志保のことを嫌いになったからじゃないんだよ。志保を愛しているのは真実だから、ごめんなさい。
 深夜の森の中から、硬いものを削るような音が聞こえる。居酒屋狸からの帰り道にたまたま近くを通りがかったタバコ屋の老婆は、森の中から聞こえる不気味な音に誘われるように草を掻き分けて音の発信源に近付いていた。
 客商売で培った長年の勘で、老婆は普段、危ないものには関与しない。だが深夜の森の中から聞こえてくる、いかにもなこの音には危険な匂いは感じられない。老婆が自分の勘を信じて躊躇なく先に進んだ果てには、ノコギリを使って何かを切断している男の姿があった。
 見た目の雰囲気でその男が若村修一であることはすぐにわかった。彼は号泣しながら全裸の女性の首を切り落としていた。恐らくその女性は若村志保という名前の女だろう。老婆は残虐なその光景に驚いていたようだが、不安や恐怖は不思議となかった。悲しそうに首を切断している若村を見ると、妙に哀れっぽく思えてきて。
「あんた、何してんのさ」
 老婆に尋ねられると、若村は泣き崩れた顔で振り向いた。
「妻を、私の愛する人を殺しているんです。島民の皆さんもご存知の通り、私は残虐非道な男なんです。木野正平君を殺したのも私だったんです。お願いしますおばあさん、早く、警察を呼んでくれませんか」
 老婆にそう嘆願する若村はとても凶悪な殺人犯には見えなかった。まるで自分から捕まることを望んでいるかのような若村に、老婆は少しだけ同情した。
「それでいいのかい」
 様々な意味が込められた老婆の温情に、若村は力強く頷いた。
「私は悪い奴なんですよ。拘束しておかないとまた酷いことをしでかします。だからどうか、よろしくお願いします」
 泣きながら悪人だと訴えられても説得力はなかったが、老婆はしばらく若村の目を見つめた後、溜息を付いて来た道を引き返し始めた。若村の望み通り警察を呼んでくれるのだろう。
 若村は暗闇の中に消えていく老婆の背中を見送り、切断した志保の首を拾い上げた。止め処なく溢れ出る涙を堪え切れず咽び泣く。
「ありがとう、志保」
 森に立ち入る前、若村と志保は波止場のベンチに座って夕焼けを眺めていた。若村はその時、残虐に志保を殺すことを告白したが、志保はいつも通りの無邪気な笑顔を見せて受け入れていた。なぜ若村が志保を殺したいのか、特に理由を尋ねることはなかった。ただ志保は、死んでも若村を愛していることだけは最後に伝えておいた。
 真実なんて誰にもわからない。だけど俺は志保のことを疑ってしまった。頭を支配されて殺人を行っていると思って彼女を憎んでしまった。それが耐え難く許せなかった。俺は志保の夫なのに、彼女を信じてあげなければいけない存在なのに。
 志保のことを愛しているから、償いをしたかった。俺ができることを探していた。そして見えない現実の正体を作ろうと思った。俺は今、志保の首を切り落としたことを実感している。彼女の死に絶える呻き声を聞いて泣きながら殺したことを一生覚えている。これが紛れもない真実、志保には何の責任もない。これまでの過ちは全て俺一人が犯したことだ。
 結局、志保には最後まで迷惑をかけてしまった。この償いは、もし今度生まれ変わってお互いが好き同士になれたなら、その時は、志保の笑顔を守り抜ける夫でありたいと思う。
 深夜の森に海上警備隊のサイレンの音が響き渡る。初めて拘束されることを実感した若村が、世間に残虐非道な犯罪者と報じられ、やがて裁判台に上って死刑を求刑されるまで、そう時間はかからなかった。



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