病巣 (第14回 日本ホラー小説大賞応募作品 一次選考落ち)

応募日:2006/10/30
掲載日:2007/02/11



 ベキベキ。
 初めましてあなた。私はあなたの私です。
 やっとこうやって面と向かって話すことができますね。あなたが現れたということは、これから完全に分業していく形になるのでしょうか。どうなっていくのか私には検討も付かないけれど、どうかよろしくお願いします。
 バキッ。
 あなたならもうご存知だと思いますが、今私が置かれているこの厄介な状況について、ちゃんと話しておきます。
 原因不明の病気を発症してからもうどのくらいの時を費やしたのでしょうか。今の私は、毎日ベッドに横たわったまま一日の殆どを費やす生活を送っています。歩行障害になったわけではありません。ただこの病気のためにベッドから起き上がる気力をすっかり無くしてしまいました。せいぜい玄関の前に置いてある三食の御飯を取りに行く程度です。これがきっと絶体絶命っていうやつなんしょうね。とにかく私はこの病気の原因を突き止め、完全な治療を施さないとならないわけです。
 ブチブチ。 
 もちろん、今までできるだけの努力はしてきたつもりです。この病気を治すために初めは近所の町医者を訪ねました。でも町医者は私を見下したような嫌な目付きで何処にも異常がないと仰いました。私は猛反発すると、その町医者は大病院に勤務していらっしゃる高名な先生への紹介状を書いてくださりました。俗に言う名医と呼ばれる人のことです。
 パンッ。
 名医と呼ばれる先生ならばと、私は五百キロも離れた大都会の病院を訪ねました。そしてあらゆる最先端の医療機器で精密な検査を行った後、私はその名医様に病状を尋ねました。一体私は何の病気なんですかって。
 その時の私は必死でした。でも名医様は悪気も無く妙なことを仰いました。「特に異常は見つかりませんでした。あなたの精神的な問題なんじゃないですか」
 ドン。
 そんな言葉を吐かれた私の気持ち、あなたなら分かってくれますよね。私は病気の体を押して、慣れない新幹線の切符を買って、わざわざ大都会の名医様を訪ねたのです。その名医様がなんと、私の精神的な問題だと一刀の元に切り捨てたんですよ。
 ドゴン。
 私は感情的になって食い下がりました。この病気を治すためなら何でもするから私を治してくださいって訴えました。それでもその名医様は近所の町医者と似たような憎たらしい笑みをして治療を拒みました。それどころか「この世に治せない病気なんか沢山あるんですよ」などと仰ったのです。 
 あなたは医者じゃないのか、患者を治すのが仕事じゃないのか、あなたは医者の間からも尊敬される名医ではなかったのか。名医様は澄ました顔をしていましたが、私は胸に溜まった有りっ丈のうっぷんを名医様に浴びせました。
 バキュン。
 だけど、悔しかった。その日の帰りの電車で、私は人目も憚らず泣き喚きました。泣いたところで私の病状はちっとも改善しないけれど、私は泣く以外にどうしていいのかわからなかった。
(私も他に選択肢を知らない)
 やはりそうですよね。やっぱりあなたは私の気持ちを良くわかってくれている。いえ、話の流れを切ってごめんなさい。それからの私は生きる気力を失って家に引きこもる生活に入りました。一秒でも長く病気のことを忘れるために、殆どベッドに横たわって眠りに就いていました。傍から見ると怠け者と思われますかね、これでも睡眠薬を使って無理やり眠っているんですよ。それほど私は頭の中から病気を取り除きたくて精一杯だということです。これから私はどうやってこの病気と立ち向かえばいいのかわかりません。何か良い知恵はありませんかあなた。
(外を見てくれないか)
 外ですか?わかりました。病気を治すためなら何だってしますとも。窓の外を見ればいいんですね。
 公園で遊んでいる大勢の子供が見えます。滑り台にブランコに鉄の柵で囲った砂場、ベンチに保護者の姿も大勢見られます。でもこれといって特に変わった様子はありませんよ。
 いや、一つだけ気になる点が。不審な男の人がいます。丁度、電柱の後ろでしょうか。影に隠れて見落としていましたが見つけました。するとあなた、あの人が私の病気を治療してくれると言うことでしょうか。
(それは、ちがう)バキッ。
 違いますか?ごめんなさい、声が聞き取り辛くなって。でも私あの人と会ったことがあるような気がします。はっきりとは思い出せないけど。
(タンスの上にある写真を見てくれないか)
 しばらく掃除してないせいで埃被っていましたが、確かに写真がありました。ハイキングで撮った一枚でしょうか、男性が三人に、女性も二人います。皆幸せそうな顔をしていて、何だか恨めしい気分になりそうです。
(何を言ってる、この写真には君も写っているよ。それにあの男も)
 この写真の奥に写っている人、確かに公園にいる人とそっくりですね。つまりこの男性は私と知り合いだということでしょうか。いえ、その前に今あなた、私が写っていると仰いましたね。私はこの五人の中のどれですか。
(君は自分の顔もわからないのか)
 残念ながら、覚えていないんです。部屋にあった鏡は全て大きく割れちゃって見れないし、ベッドにずっと入り浸る生活に入っていましたしね。それよりこの男性は私の知り合いでよろしいんですか。
(そうだ。しかし君がそこまで深刻だとはね。外から君を見ていると驚愕するよ)
 深刻な状況であることは伝えたではありませんか。でも自分の顔を覚えていなかったのは普通じゃないですよね。ごめんなさいあなた。
(謝る必要はないよ。君は病気を治すことを優先して考えていればいい。それにはまずこの男と接触する必要がある)
 写真のこの男ですね。わかりました。病気の悪化が心配ですが外出の支度を整え次第、接触してみます。助言をありがとうあなた、やはり私にはあなたの知恵が必要だ。
(礼には及ばない。どうせ君もわかっていたことなんだから。ところで一応聞いておくが、君は自分の名前を覚えているのか)
 私の名前ですか。そうですね、めっきり名前で呼ばれていないせいか覚えていません。
 ドパン。
 別に問題はないでしょうあなた。自分の顔と名前を忘れていても、私はそれに対して少しも痛みを感じないのですから。
(無知の間は誰でもそういえるのさ)



 2

 バキッ。
写真の男はまるで老人だった。皺が深く刻み込まれた老け込んだ顔付きに、まるぶちのメガネをかけた紳士の装いをして、枯れ果てた彼の白髪を隠そうとチューリップ型の帽子を被っていた。写真に写っていた彼は若々しく、体格も良くて健康的なように見えたが、実物とは随分印象が異なる。もちろん写真の面影はあるので人違いではないはずだ。何よりあなたがこの男と接触しろと指示したのだから。
 ピキッ。
 しかしその男はやけに挙動不審だった。借金取りにでも追われているように、ひっそりと電柱の影に潜み、息を殺しながら忙しなく周囲を確認しつつ、じっと私のアパートの方を見ているのである。いや、私の様子を観察していたと言った方が正しいのか。彼の視線の先は明らかに、アパートの二階にある私の部屋の割れた窓の方に向いていた。
 私は男が公園を離れない内に急いで接触を試みた。だが男は私を見つけるや否や、素っ頓狂な声を発して全速力で逃げ出したのである。「私を恨まないでくれ。頼む、お願いだ」と叫びながら。
 ボンッ、バキュン。
 これは一体、どういうことですかあなた。彼は私の知り合いではなかったのですか、私には訳がわからないことだらけです。説明を求めます。
 バキッ(君が血相を変えて走って近付いたのがまずかった。あの男は君に後ろめたい感情を抱いているからな)バキッ(まあ気にすることはない。あの男の行きそうなとこは知っている。次の日曜辺り、君も学生時代よく行った喫茶店であの男が来るのを待とう)ベキッ。
 あなたは私にそれだけ言うと、気配を絶って私に応答してくれなくなった。
 この一連のやり取りの結末は、私には耐え難いことだった。あなたの対応が冷たかったからではない。次の日曜日まで待たなければならないことが耐え難いのだ。
 なぜなら私にとって一週間はとても長くて険しいからだ。健康な人間には決して理解されないだろう、日曜まで病気に苛まれ続ける私の辛さの程は。私はどんな苦痛にあっても日曜がくるまで我慢しなければならないのだ。一刻も早く治療したいのに。
 バキッ、ピシュン。 
 私は日曜日を待った。途方もない退屈な時間、付き合ってくれるのは私を苦しめ続ける病気だけだ。私は頭がどうにかなってしまいそうになるたびに、買い込んでおいた睡眠薬を何度も飲み込んだ。
 ベキッ、バン。
 睡眠中であっても私には逃げ場はなかった。眠ると決まって見てしまう。怖くて逃げ出したくなる様々な悪夢を。
 骨が折れたような鈍い音が聞こえる。私は沈んでいく夕日を横目に全速力でその音から逃げている。しかし音は絶えず私の傍から聞こえてくる。バキッベキッゴキッギリ。音は次第に大きくなる。爆発染みた音量が私の頭の中で弾けて私の鼓膜を刺激する。私はそのまとわりついてくる音が怖くて泣き叫んでいた。でも決して音は私の元を離れてくれなかった。私の鼓膜をいつまでも刺激して私を苦しめ続けるんだ。不快な音が私を精神的に追い詰める。気が狂いそうになる。どんなに泣いたって叫んだって許してなんかくれない。もう止めてください。許してください。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。
(夢の原理について私は良く知らない。だが君が見たその悪夢は君の自覚症状の一つに関係していると思う。確か名称はなんだったかな、君なら名称を知っていると思うが、鼻から鼓膜へ通じる管が不安定になる病気があるだろう。この病気は治療法が確立されていない治せない病気の一つだが、君がもっとも治療しなければならない病気とは違うようだな)
 ビキッ。
 相変わらず目覚めの悪い朝だ。その代わり、私の部屋の日めくりカレンダーの数字がついに真っ赤になった。長かった日曜がやって来たのだ。待ちくたびれましたよあなた、早くこの写真の男が行きそうな場所を教えてください。
(駅前のサユリという喫茶店にいるよ。あの男は決まって日曜にモーニングを優雅に楽しむのが習慣なのさ。苦しんでいる君のことなんか忘れてね)
 駅前のサユリ、正確な場所は知らないが、私の足はなぜか独りでに動き出し、迷わずその喫茶店へと向かっていた。
 町の景色がコンニャクみたいにぐにゃぐにゃしている。道行く建物のどれもが波打っている。見ているだけで胃の中が気持ち悪くて吐きそうだ。時折ひざに稲妻のような痛みが走りもするが、それでも私は歯を食い縛って歩き続ける。
 路肩に置かれた店先の看板を見つけると、私は少し安心した。来た覚えのない店を迷いなく探し当て、公園で出会った男の姿も、店内の壁はガラス張りで構築されていたので外からでも簡単に確認できた。
 男は一番奥の座席に腰掛け、コーヒーを片手に新聞紙を広げていた。私は逃げられることを考えて、全身を覆い隠したコートのフードを頭に被せ、こっそり店内に侵入した。
(警戒するのは結構だが、大げさ過ぎる。それより笑顔を作った方がいいぞ)
 そうあなたが助言する。私は言われた通りにぎこちない笑顔を作る。そういえば私の顔は他人からどう見えているのだろうか、自分の顔を忘れた私にはわからないことだが。
「あゆみ、どうしてお前がここにいるんだ」 
 ベリッバキッバキューン。
 私に気付いた男が大声で叫んだ。私の鼓膜がキーンと耳鳴りを立てて、骨を削るような不快な音が頭の中を駆けずり回った。そのせいで私は露骨に怒りを剥き出しにした顔付きになったのだろう。男は私の顔を見つめたまま茫然としていて、恐怖に肩をすくめていた。
「あなたは誰、あゆみさんというのは、私のことですか」
 久し振りに発した私の声は酷くしゃがれていた。まるで喉が潰れたみたいにか細くて、暴力的な男の声色によく似ていた。男は私に怯えて膝を震わせ、広げた新聞紙で顔を隠してしまった。
 良くない状況だ。これでは全く話が進まない。いや、この場合は私が悪いのだろう。しかしどうやら私の名前があゆみだということは間違いなさそうだ。ということはつまり、私は女だったのか。
(私が言うのも何だが、君は紛れもなく女性のあゆみさんだよ)
 あなたがそう教えてくれる。といっても今の私にとって名前や性別はどうでもいいことだ。肝心なのは病気の原因とその治療法なのだから。
「そう怖がらないで。私はあなたを訪ねるよう知人に言われてここに来ただけです。私は今病を患っているんですが、何かそれに関する話を教えて頂けないでしょうか」
 ベキッ。
 私がなるべく丁寧にそう告げると、男はゆっくり新聞紙を下げて顔を覗かせた。老け込んだ男の目にはまだ恐怖が残っていた。
「お願いします。あなたがわかる範囲のことで構わないんです。どうか教えてください」
 私は意地になって何度も頭を下げて、男に病気の治療法の手掛かりを求めた。その低頭な姿勢のかいあってか、やがて男の目から怯えが消えていき、私とまともに目を合わすようになった。
 わだかまりが溶けてきたので簡単な自己紹介をしてもらった。男の名は井上幸三、五十六歳でこの喫茶店の最寄の会社に勤務しているセールスマンとのことだった。ただ、自己紹介はそこで終わり、私との因果関係については一切触れてこなかった。
 ブチッ。
 そして井上は、私の求めていた病気の治療法についての情報も話さなかった。真剣な話の場を持つことが実現できただけに残念でならない。
「ごめんよ、あゆみ、何もしてやれなくて」
 何かと思えば、井上から発せられる言葉の殆どは、私への謝罪だった。私とどういう関係があるのか教えもしない井上が、私の役に立てないことを謝っているわけだ。それは妙に不思議な気分だった。見知らぬ男にただ謝られる私、何の収穫も得られない徒労に溜息の一つも付きたくなったが、井上が私に対して愛情のようなものを抱いているのは感じ取れたのでそこはぐっと堪えた。
 パンッ。
 話し始めて一時間ほど経った頃、話は平行線を辿ったまま井上は席を経った。私が飲んだコーヒーの分のレシートも取って。
「すまない、そろそろ行かなくちゃならないんだ」
 私に別れを告げた時の井上の寂しげな顔は何を物語っていたのだろう。胸倉を掴んで恫喝してでも治療法を吐かせようと思っていた私の威勢はすっかり萎えていた。
 ドゴン。
 結局、井上が与えてくれた情報は自分の簡単な素性と、私の名前だけということになる。いや、一つだけ気になることを言っていた。「あゆみ、辛いだろうが君はなるべく外出を避けた方がいい。これは私の頼みと思って聞いて欲しい。君は外に出ちゃいけない体なんだ。わかったね」と。
 この発言に関して、大体の見当は付いている。外に出ると体に負担がかかり、病状が悪化するということなんだろう。だが単にそれだけではないような気がした。この発言をした際の井上の声色は妙に脅迫的で、私は何も言えずに圧倒されていた。いずれにしても私が滅多なことで外出するような真似はしないけれど。
 ビキバキ。
 ねえあなた、一体どうなっているの。井上と接触しても何も状況は進展しなかった。あなたの知恵が過ちだったということなの。
(私の選択は間違っていなかったよ。君は井上と出会い、やっと自分の名前を知ることができた。これは大きな前進だと捉えるべきだろう)
 あの、言い逃れを言っている風にしか聞こえないんですけど。
(私が君を井上と接触させたのは、あの男が写真の五人の中でもっとも口が堅い人物だと確信していたからだ。君と接触してペラペラと余計な話をする口の軽い人物では困るのだ。そもそも君には情報を与えてはならない)
 何ですかそれ、あなたの仰ることは全然わからないわ。どうして私に治療法の手掛かりを教えてくれないのですか。あなたは私の味方じゃなかったのですか。
(勘違いしないで欲しい。私は君の意思を十分に尊重している。無論私が君の敵に回るなど有り得ないことだ。君がそう青筋を立てて私を責めるのは、君がまだ、何も知らないからさ)
 だったらどうして有益な情報を教えてくれないの。あなたが私の意思を尊重してくれると言うなら、あなたが私の味方だと言うなら、少しぐらい私の病気に関する手掛かりを教えてくれてもいいではありませんか。
(我ながら仕方のないやつだな。なら一つ余計な情報を教えてやろう。さっき別れたあの井上という男は、君の父親なんだ)
 あなたがそう言った瞬間、私の顔は青ざめていた。私に許しを乞うていたあの井上が私の父親だなんて、まさか。
(驚いたかい、君は実の父親に見放されたんだ。井上が君に謝ることしかできなかったのはそのためさ。君にとっては知らない方が幸せなことだったろう)
 私が父親に見捨てられたって。どうして、訳がわからない。そういえば私は今一人暮らしだ。一体いつから一人で暮らしているんだろう。父親と母親の顔と名前も覚えていない、兄弟の存在も記憶にない、どんな家庭で育ったのか全く覚えていない。そうだ、あなたの言う通り私は病気の原因どころか、自分のことも身内についても何も知らない。
(何かを知るってことは、それ相応のリスクを背負うことにもなるのさ。特に君の場合は、知らない方が幸せになれることが多すぎる。こう言いたくはないが、できることなら病気の治療なんか諦めて、何も知らないまま生きた方がいい)
 ベキゴキッ。
 耳が、うるさい。私が、いや人間が無知なまま生活した方が幸せだなんて有り得ない。私は突き止めてやる。病気の原因もその治療法も身内のことも全部知ってやる。正常な人間になるために。協力してくれますよね、あなた。
(君が望むなら止むを得ないだろう。ただその選択は君にとってとても辛いものだということは忘れないで欲しい)
 この時、私は自棄になっていたのかも知れない。あなたは本当に私のことを想って忠告してくれたのに、私は子供みたいにむきになって聞く耳を持たなかった。知識を得たいという自分の欲望にとりつかれていた。
 あなたの忠告の重みに気付いたのは、喫茶店サユリから出た直後のことだ。私は偶然ちらりと横目でサユリのガラス張りの壁を見てしまった。光を照り返すそのガラスに映っていたのは、幾重もの刃物傷と火傷の跡が残った醜い女性だった。
 初めて自分の素顔を知った私は、その場から一歩も動けず、ただ涙を流すことしかできなかった。



 3 

 ブツン。  
 あれから私は三日ほど寝込んでしまった。
 私がこれほど痛烈に自分が女なのだったと自覚させられたのは初めてだ。物理的な痛みがあるわけじゃないのに、自分の顔が醜いことがこれほど悲しいなんて。
(ゆっくり休んだ方がいい。君が知ることを選んだ以上、これより辛いことは山ほど待っているのだからな。少しずつ受け入れていくのが最良の方法ってもんさ)バキイッ。
 あなたは他人に見られないから気軽でいいですね。どうせ腹の中では私のことを嘲笑っているんでしょう。きっとそうだ。私は病気で醜くて何も知らない哀れな女なんだから。
(そう卑屈になるなよ。これは気休めになるかわからんが五人で写っていたあの写真があるだろう、あの当時の君の顔は見れたものだったよ)
 ポン。
 私の昔の顔、そういえばこんな酷い顔になる前の私の原形はどんな顔だったのだろう、私はベッドから体を起こして、タンスの上のあの写真をまた眺める。
 ドゴン。
 この写真に写っている女性は二人だ。一人は三十代後半くらいか、京風な美人で先日出会った私の父、井上と手を繋いで照れ臭そうに笑っている。もう一人の女性は中央に位置していて、お世辞にも端正と言えない右側の男性のおかげで際立っている。まだ年端もいかない中学生ぐらいの可愛らしい女の子だ。
(察しはつくだろうけど、その中央の女の子が昔の君さ。確かキャンプ場で撮った一枚だ)
 これはキャンプの写真だったのか。そういえば井上の隣に写っている屈強な体格の男がリュックの上に丸めたテントを乗せている。もちろん私にはこの当時の記憶など全くない。これはいつ頃撮られた写真なのかわかりますか、あなた。
(大体十五年ぐらい前だったと思う。君が十四歳の時だ。この頃は君もまだ学校に通っていたし、家族で一緒に暮らしていた。一応付き合っている男もいた)
 その頃の話、詳しく教えてくれませんかあなた。
(それはできない。情報量が多すぎる。先ほども言ったように君は少しずつ自分のことを受け止めなければならない)
 そんな悠長なこと言っていられません。確かにあなたの言葉は正しいのかも知れない。現に私は素顔を知っただけで三日も寝込んでしまいました。だけど私は知ることを選んだのです。どんな苦難が待ち受けようとも耐えてみせます。話してくださいあなた。
(私は君をいじめることはしないし、できない。そんなに知りたいなら君の身内から直接聞けばいいだろ。今度はその写真の女に聞いてみろ。父親よりまとも話をしてくれるさ)
 バキッ。
 井上と手を繋いでいるこの女性がですか。いいですとも、何処に行けば会えるか教えてくれるんでしょうね。
(何処にも行く必要はない。その女は後五時間後に必ずこの家の玄関までやってくる)
 私の部屋の前にですか、どうしてこの女性が私の家に来るんです。
(たまには自分の頭で考えろ。君は毎日誰から食事をもらっているつもりだ)
 ビキイッ。
 そういえば、私は誰から食事をもらっているのか知らない。ベッドから殆ど動かない生活をしているとはいえ、食事を摂らなければ死んでしまう。朝は八時、昼は正午、夜は七時にきっかり玄関前に食事が置いてあるから生き永らえていられるのだ。こんなことをしてくれる酔狂な人は他人では考えられない。私の身内、恐らく母親が私のために食事を置いてくれているのか。
 バキュン。
 でも、それならなぜ私に何も言わずに帰るんですか。私の母には私と直接会うのを避ける理由でもあるんですか。
(父親も君との接触を避けただろう。それと同じさ)
 私と直接会うのを拒みながら、食事を届けるのは矛盾してるような気もするけれど。会えないけど私のことは心の何処かで想ってくれている。そう好意的に解釈すべきなのでしょうか。
(好意的な解釈ほど歓迎できるものはない。君には今後もずっとその方向性でいてもらいたいものだな)
 近頃のあなたの台詞は、無知な私を見下してるような嫌味が含まれているのでうんざりしてくる。今の私には欠かせない存在だから下手に文句は言えないけれど。
 ドゴン。
 とにかく私は午後七時になるのを待った。病気のことはもちろん、肉親と直接会えない理由もちゃんと聞いておきたい。そう、私には失うものがないのだから、開き直って前に進むしかない。
 ボンッ。
 私の部屋は静かだ。テレビのブラウン管は割れているし、あなたと話をしている時は声を発する必要もないから常に無音だ。ただ、問題なのは私が耳に患っている病だ。耳管開放症と呼ばれる病気だが、この病気はいくら静かな空間にいようとも、私が唾を飲み込むたびに耳の中で破裂音を鳴らし、私に過剰なストレスを与えて神経をすり減らす。だから実際には私は部屋の中にいても、小さな物音に気付かないことなど頻繁にある。
 しかし今日に限って私の耳は異様に敏感だった。玄関前に食器を置いた硬質な響きがすぐに聞こえた。私は即座にベッドから飛び起きて、玄関の扉を開けていた。
「あ、あゆみ」
 玄関前にいたその女性は、突然出てきた私に驚いていた様子だった。この人が私の母親なんだろう、この人もまた十五年前の写真の姿とは随分違う。京風の美貌は深い皺で無惨になり果て、艶のあった黒髪は見事なまでに真っ白に染まっている。まるで老婆だ。
「私の、お母さんですよね。あなたと話したいことがあります。中にはいってくれませんか」
 私の思いが通じたのか、母親は素直に観念して部屋の中に入ってきた。私の晩御飯にと用意したカレーライス入りの食器を持って。
 ベキイッ。
 私と母親はテーブルを挟んで向かい合わせになった。母親は私の顔を真っ直ぐ見つめながら薄っすらと目に涙を浮かべていた。父親に会った時と似たような雰囲気だ。この人もまた私に後ろめたい感情を持っているのだろう。
「お母さん、父から聞いたかも知れませんが私は過去のことを殆ど覚えていません。だからあなたを恨むといった感情は特にありません。ただ、私は病気を治したいのです。それとどうしてあなた達が私と会うのを恐れるのか、その理由を聞きたい。教えてくれませんか」
 ゴキッ。
 私の用件は単刀直入だった。あなたのぼやく声が聞こえてきたが、それを無視して言い切った。
 母は、カレーライスの入った食器を私に差し出した。そして大粒の涙を零し始めた。
「ごめんねあゆみ。私も父さんもあなたを見捨てたわけじゃないの。ただ、あなたに直接会うことはどうしてもできなかった」
「なぜです。その理由を教えてください」
 私に問い詰められると母は言葉に詰まった。湯気の立ち昇るカレーライスを挟んで、しばらく長い沈黙が続いた。それほど切り出しにくい事情があったのだろう。だが私は母が話したくなるまで毅然と構えて待っていた。真摯な目を実の母に向け続けた。
 これは後で思ったことだが、私はその事情を母から聞いて後悔している。無知のまま生きた方が幸せだったと心から思える。自分を知ることは本当に怖い。
 沈黙に耐え切れなくなったのか、母はついに重い口を開いた。「あゆみは病気もらいなの。他人の病気を自分にもらっちゃう特殊な体質をしてるの」
 ビキッバキッ。
 初めは、意味が分からなかった。他人の病気が移ることなど、普通の人間なら誰しもに起こり得ることだからだ。実際に風邪を他人に移さないようマスクを着ける人もいるぐらいだ。いや、この人は移るとは言っていない。確か病気をもらうと言った。
「病気をもらうってどういうことですか。当然、普通の病気ではないんですよね。あ、そういえばそれに似たような病気を知っています。HIVでしたかね。免疫力を低下させて病原菌への抵抗力を失うあの病気」
 一般的にエイズと呼ばれる危険な病気だ。エイズのことを指しているなら辻褄は一応合っている。だが母親は首を振って私の考えを否定していた。
「エイズじゃないわ。いえ、これはそもそも病気じゃないのよ。人の病気をもらったあなたを医者に見せても、何の異常も見つからないのよ。何件も何件も病院を回ったけど異常はないって。でもあゆみは確かに人の病気をもらっていた。あゆみと接触した病気持ちの人の症状が治って、あゆみにその人の病状が出たの。でもあゆみの体に異常は見当たらない。だから特殊な体質の問題というしか……」
 母の零した涙が、テーブルに跳ねた。
 バキッ。
 私はその奇怪な話に茫然としていた。病気とはそもそも、人体に異常が発生して起きるものだ。それが医者に見せても異常は検出されず、ただ他人からもらった病気の症状が継続する。こんな常軌を逸した体質が存在するとでもいうのだろうか。
「あゆみは風邪一つ引いたことない丈夫な子だったわ。でもあの男のことできっとストレスが溜まっていたんでしょうね。ごめんねあゆみ。こんなアパートにあなたを一人にして。でもこうするしかないの。あなたが病気をもらわないためには一人きりにするしかなかったの。ごめんね、ごめんね」
 ブチブチビキッ。
 現実を受け入れられなかった。母親に突き付けられたのは事実上の死刑宣告も同然だった。私は他人の病気をもらう体質で、実際には異常が見つからないけれど、症状だけはずっと続く。寝ている時は悪夢として私を脅かす。この病気もらいの体質は、病気じゃないから治せない。そこに現実味の欠片も感じることはできない。
 ビキッ。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ。医者が無能なだけで私は病気のはずなんだ。仮にあんたの話が本当なら、私はずっと病気のままじゃないか。ずっと病気で苦しんで、痛い痛いって言って、毎日暗くてじめじめしたこの部屋で横になってているだけの生物になっちゃうじゃないか。そんなの、人間じゃないよ」
 私も醜悪な顔を崩して泣いていた。病気を治すために努力している私の人生を全否定されたことが悔しかった。私の異常を検出できない医者に憎悪を抱いた。そして、目の前で私に同情して泣いている実の母の無力さに失望した。
「ごめんね、ごめんねあゆみ」
 バキイッ。
 外野は、気楽でいいもんだ。いくら私を同情していても自分に被害が及ぶことはないのだから。こうして謝っていればそれで済まされるのだから。
「すいません、もう帰ってくれませんか。少し一人になりたいんです」
 私はそう言って泣き崩れる母の体を無理やり起こした。その間も母は私に対して際限なく謝罪の言葉を吐いていた。ちっとも病状が改善されない無駄な言葉を呪文のように唱えていた。私は部屋から追い出すように母の体を突っ撥ねて扉を閉めた。
「あゆみ、これだけは忘れないで欲しいの。母さんも父さんもあゆみのことを愛してる。きっと亮太だって愛してくれているわ。家族は皆あなたを見捨ててなんかいないの。辛いかも知れない。けど、耐えてあゆみ」
 パンッ。
 母の涙ながらの訴えも上の空だった。無性に空虚な気分になっていく。膝に激痛を感じる。そういえば思い出した。私は膝の病気も抱えていたんだった。ああ、痛い痛い、痛いなあ。私にこの病気を移したやつは誰なんだろうなあ。
(あゆみ、大丈夫かい)今更あなたがそう言う。
 皮肉のつもりですか、そういえばあなたに名前で呼ばれたのは初めてですね。それはつまり所詮あなたも外様だったということですか。私の痛みなど知らなくとも、あなたは気楽に生きていけるんですものね。
(それは仕方ないよ。私は思考だけの存在なんだから。本当はあゆみの苦しみを分かち合ってあげたいんだけど)
 ちっとも慰められない。言い訳にしか聞こえない。あなたも私の両親と同じで無力ですね。どうせあなたは初めから知っていたんでしょう。私の病気が治せないことを。 
(わかっていたさ。異常がないものを治せないことは。だがそれは君も知っていたはずだ。そもそも君は今までどんな症状の病気を治したかったのか、覚えていないのかい)
 ベキッ。
 私が治したかった病気、何それ。そんなの覚えていないよ。私が病気にかかっているのは明白だった。だから医者に私の異常を探させようとした。その医者が無能だったからあなたと方法を模索することにした。そこに何かおかしな点でもありますか。
(質問の答えになっていない。君は最初から病気もらいの体質なのを知っていた。だから君はそれを治すために躍起になっていたんだろ。なんせ異常が見付からなければ、他の病気も治せないんだからな)
 パキッ。
(あゆみ、素直に認めておけ。君は病気もらいの体質を治したいがために頑張っていた。それでいいだろう)
 あなたの言葉は私の胸に刺さる。そう、私は人から病気をもらう病気を治したかったのだ。私の記憶は殆どあなたの方に持っていかれたようだがそのことは覚えている。私は、病気もらいだ。
(重要なのは、その体質をいかに治すかということだ。私には思い付かないが、君は生まれ付き病気もらいだったわけじゃない。つまり君の体質は後天的なものだ。後天的なものなら何らかの原因があるはずだ。そのために私は君を知る人物に会うよう助言した)
 ボンッ。
 病気もらいになった原因を探るために、私は自分のことを知る必要があった。しかしあなたは私の記憶が殆どないのを知って、私を無知なまま生かせようとしたんですね。私の自覚症状が少なかったから。
(そうだ。幸か不幸か、あゆみには自分が忘れている病気に関しての自覚症状がない。だから私はあゆみの記憶にない他の多くの病気のことをずっと忘れていれば、あゆみが以前よりか幸せな生活を送れると思った。病気もらいの原因を探るなんて、雲を掴むような話だからな)
 バキイッ。
 あなたの気遣いには感謝しています。ですがもう引き返せません。私が病気もらいだと明確に認めた以上、忘れた他の病気のことも徐々に思い出すでしょう。既に最初から覚えていた耳菅開放症に加え、突発的なめまいとこの膝の痛みを思い出してしまいました。
(厳しいな。あゆみが満足に動ける内に治ることを神にでも祈るか)
 パキュン。
 神がいるなら私にこんな酷い仕打ちはしないでしょう。私が何もかも忘れようとしても、病気が私の体を蝕んで思い出させる。こんなに辛いのに、どうして私は生きているんだろう。
(あゆみは実際良く耐えているよ。こうなった以上、私も全面的に協力して病気もらいの原因を探ろう。微力ながらな)
 ありがとう、あなた。私がどんなに苦しくても誰も助けてなんかくれない。私がまだこうして生きていられるのは、誰よりも私を想ってくれるあなたの支えのおかげです。
 ドゴン。

 4

 ベキッ。
 雨が、止まない。近頃悪夢の内容が凶悪になってきました。私が病気もらいだと認めたからでしょうか、悪夢は私の自覚症状にまつわる残酷な物語を忠実に描いてきます。
 悪夢には基本的に私と病気しか登場しなかった。だが近頃は頻繁に片目の潰れた男が登場してくるようになりました。その男が夢に登場してきた場合、私は必ず男に囚われて拷問を受ける羽目になるのです。
 バキッ。
 私はその男に暗くて狭い個室に閉じ込められていた。いつ解放されるのかわからないその個室で、一日中バキバキッとか、ビキビキッとかいう不快な音が、私の頭の中に駆けずり回っていた。私が泣き叫んで許しを求めても、当たり前のように男は許してくれない。ごめんなさいなんて上辺だけの謝罪は、男の胸には届かない。
 また別の悪夢では、その男が鋭利なナイフを持っていて、椅子に縛り付けられて逃げられない私の両膝を容赦なく刺してきた。実際に膝の病を抱えている私は、現実と同じようにリアルな激痛を感じてしまう。いくら夢であっても、私はその架空の男に恐怖している。この男を私の悪夢から消す方法はないのでしょうか。
 ブチブチ。
 私が現実の病と悪夢に苦しむ一方で、私のあなたは私を励ましつつ、病気もらいの原因を突き止めようと真剣に考えてくれるようになった。私の自覚症状を増やさないよう情報は控え目ではあるが、私に対しての愛情を明確に感じ取れる。あなたと初めて出会った時は不安だったけれど、今ではお互いを尊重できる最良のパートナーになれた気がします。
 パキュン。
 これはあなたに教わった話だが、病気もらいになる以前の私は、明るく素直な性格で同級生の間の評判も良かったそうだ。特に男子にはラブレターをもらったり、人気のないところへ呼び出されて告白されることもあったそうな。今の私の醜悪な顔を考えると、信じられない夢物語だ。それほど病気もらいになってからの私は堕落したということにもなるけれど。
 バキッ。
 そう、先ほどの悪夢の話ですが、もちろん信頼するあなたにもその内容を伝えました。少しでも病気もらいの手掛かりになればと思って。
 ドン。
 あなたはしばらく考え込んでいたが、やがて私にその男は実在するかも知れないと言ってきた。私もそれを聞いた時は正直驚いた。悪夢が現実のものとなったのである。いや、実際に私の自覚症状が夢に反映されているのだからそれは必然な出来事だったのかも知れない。
 ビキイッ。
 あなたは、その男はあのキャンプの写真に写っていると教えてくれた。父井上幸三の隣でテントを背負っている屈強な男は、私の兄の井上亮太、今は老婆となった京風の美女は、母の井上玲子。そして私、井上あゆみの右側で屈んでいる男、松原徹。
 パンッ。
 この松原が、クラスで人気があったとされる私の初恋の相手であり、私が病気もらいを発症する以前に交際していた男だそうだ。団子のように膨れた鼻をして、顔中にきびだらけの不細工な男だが、私はこの男の些細な物事にも動じない、冷静で落ち着いた部分に惹かれたらしい。
 ドゴン。
 だが今の私にとって松原は畏怖の対象でしかない。私はこの男の顔を見た瞬間、悪夢で見た片目の男のことを思い出した。片目が潰れて隻眼になっていたが写真の顔と瓜二つだった。悪夢に登場していたのは間違いなくこの松原徹に違いない。
(松原は、人間味に欠けた変わった男だよ。表面的には沈着冷静で真面目そうに見えたが、最後までその異常な本性を隠し切れなかった。病気もらいに直接関係があるかはわからないが、この男があゆみに大きな障害を与えたのは確かだ)
 ビキッ、ハキッ。
 実際に松原徹とはどんな男だったのだろう。もしかすると病気もらいの原因が掴めるかも知れない。あなたは私と松原本人を引き合わせるのをためらっていたが、私の説得に根負けして松原の詳しい所在地を教えてくれた。
 驚いたことに、松原は現在、竹見広野という偽名を使って私と同じアパートに住んでいる。しかも私の部屋の隣にある204号室に。
 ベリッ。
 一見、おぞましい話だが、隣の部屋に住んでいるということはかえって好都合だというものだ。私が下手に外出して他人から病気をもらう心配もない。適当な頃合を見計らって松原の部屋を訪ねるだけで済むのだ。
(あゆみ、ベッドの下にナイフがある。松原に会う時は用心のために持っておけ。ただし決して君から仕掛けないように)
 私がベッドの下を覗き込んで見つけたナイフは冷たくて、切れ味が鋭そうな本格的なものだった。護身用に買ったのだろうか、皮肉にも悪夢で私の膝を突き刺したナイフと同じ形状のものだ。途端に私の顔に激しい痛みが走った。私の中に眠っている記憶の一部が見えてくる。ナイフを持った中学生の頃の松原の姿が。
 パキュン、バキッ。
 私は思い出す。私の自覚する症状の中で、一つだけ病気じゃないものが混じっていることを。それは、私の顔を醜く変えたこの刃物傷と火傷跡。 
 夜八時頃、私が松原の部屋を訪ねた時、私は松原が豹変したあの日のことを完全に思い出していた。私を出迎えた片目の男松原が、私の顔を醜悪に変えた張本人であることを知ったのだ。
 松原は特に驚いた様子もなく、私ににっこり笑ってみせた。薬物で隙間の目立つぼろぼろの歯列を覗かせて。「意外だな、君から尋ねてくるとは思わなかった。何の用だあゆみ。俺とよりを戻す気になってくれたなら嬉しいけど」
 ベキイッ。
 この男は狂っている。玄関の外から見ても、この男の部屋が異様なのはすぐにわかった。壁際に置かれた人間を貼り付けるための台、綺麗に磨き抜かれた凶暴なナイフの数々、そしてテレビモニターには私の部屋の映像が映し出され、恐らく部屋の音を静かに盗聴するために使われているのであろうヘッドホンまで置いてある。
 私は顔を強張らせて松原の顔を睨み付けた。
「自分に心底呆れるよ。あんたのような最低の男が、私の部屋の隣でストーカーしてたことを知らなかったなんてね」
 私に侮蔑されても、松原は嫌に落ち着いていて、自分の感情を全く表に出さなかった。人間味に欠けた松原の異常な性質が成せるのか、私にはこの男を到底理解できない。
「君に付きまとっているのは俺が君のことをまだ好きだからさ。顔を切り刻んだことがそんなにショックだったのかい、俺はよかれと思ってやったことなんだが、警察に通報するぐらいだ。よっぽど俺のことを憎んでいるんだろうな」
 松原の悪気のない冷静な態度は私の怒りを爆発させた。私は感情に任せて後ろ手に隠していたナイフを取り出し、松原の鼻先に向けていたのだ。
「それだけじゃない。お前は私の顔を無理やり焼いた。お前は捕まって当然の異常者だ。お前には人間を好きになる資格すらないんだ」
 バキイッ。
 私の思い出した十四歳のあの日、松原の素性を知らなかった私は迂闊にも松原の家に泊まることになった。松原の両親は建築業界では有名な人物で、松原の家には普段から滅多に両親が帰宅することはなかったらしい。その日も両親は留守だった。
 私も二人きりになることは知っていた。当時は親密な松原と肉体的に交わることも、愛があるならばと覚悟していた。しかし松原は私の予想を遥かに超える異常な行動に及んだのだ。
 ブチ、バリッ。
 私が松原の豪邸に入った直後のことだった。松原が突然私の髪の毛を掴んだかと思うと、乱暴に引っ張り上げて台所まで連れて行った。私は悲鳴を上げて松原に止めるよう言ったが、松原は顔色一つ変えずにガスコンロの火を点けて、厚手の鉄板を熱し始めた。
「あゆみ、ちょっと熱いが我慢していろ。君を美しく変えてあげるからさ」
 松原は真面目な顔付きで恐ろしいことを告げた。油も敷かれて熱気立つ高温の鉄板を見ている内、私は恐怖に慄いて声も出なくなっていた。その時になってやっと私は松原の正体に気付いた。松原は真面目の仮面を被っただけの危ない男だったのだ。恋人をいたぶり苦しめることに罪悪感を感じない異常者だったのだ。
 ビキイッ。
 私が気付いた時には、熱した鉄板に私の顔が押し付けられていた。私は限界まで声を振り絞って悲鳴を上げた。でも松原はさらに力を強めて顔を鉄板に押し付けることはあっても、決して止めようとはしなかった。私の顔をしばらく焼いた後、焼き具合を確認するために顔を引き離すことはあったが、満足いかなかったらしくまた容赦なく私の顔を鉄板に押し付けた。それは終わることのない無間地獄のようだった。私は顔の焦げる音を聞きながら熱を通り越した痛みに泣き叫び続けた。手足をばたつかせて必死に抵抗しても、松原の男性の腕力には勝てず、やがて私の意識は遠くへと消えていった。
 バキイッ。
 ようやく意識を取り戻した時には、私は趣味の悪い松原の部屋にいて、さっきまで着ていたはずの学生服はおろか、下着まで身ぐるみ剥がされていた。目の前には片手にナイフを持って、単調に腰を振っている裸体の松原が見えた。私は雑多にゴミが散乱する汚い部屋の床で大きく股を開き、松原にレイプされていたのだ。
 松原は汚いものを揺り動かしながら、嬉しそうに私の顔に鋭利なナイフを押し当てていた。私は現実が受け入れられなくて、ただ恐怖に震えて、情けなく涙を流しているだけだった。
「あゆみ、愛してるよ。これから君をもっと綺麗にしてあげるからね」
 歪んだ愛を囁いた松原は、焼けただれた顔の皮膚をナイフで切り刻んだ。焼けた顔に燃えるような痛みが走った。熱い血が飛び散っていくのを虚ろに見ていた私の悲鳴が室内に響き渡った。次第に熱を帯びた松原の目に殺意が宿ったのを直感した私は、咄嗟に生きるための行動を起こした。
 パキュン。
 手元に転がっていたボールペンを手に取り、無我夢中で松原の右目を突いたのだ。松原は獣のような悲鳴を上げて潰れた目を押さえていた。そして私は怯んだ松原を強引に押し退けて全速力で逃げた。顔中にへばり付く痛みに耐えながら、脱がされた学生服を探すこともなく、一直線に松原の家を出て自宅まで駆けて行った。
 ベキイッ「あゆみだって俺の右目の視力を奪ったんだからお互い様じゃないか。片目になってから眼球疲労が激しくてね。目が痛くて痛くて仕方ないんだ。それに比べたらあゆみの傷なんて、大したことないだろ」
 私は松原を警察に通報して、少年院に入れた。その後の松原がどんな人生を送っていたのかは知らない。そんなことは知りたくもない。だがこの男の不気味な性質は当時とまるで変わっちゃいないようだ。
「わかった風に言わないで。あんたみたいな異常者に暴行された私の気持ちがあんたにわかるの。あの時私がどれほど傷付いたかあんたにわかるはずがない」
 バキッ、パンッ。
 気付けば、ナイフの刃先が松原の鼻先を軽く裂いて、血が垂れていた。だが松原は抜き身のナイフを一瞥するだけで、その冷静で不気味な表情を崩さなかった。
「で、今更どうするつもりだい。俺に謝って欲しいのか。それとも仕返しに俺を殺すのか?まあそれでもいいよ。あゆみが俺を愛してくれないなら生きていたって仕方ないし、他に生きる目的も特にないしね。それに愛するあゆみに殺されるなら俺も本望さ。ふふ、やってくれよ」
 松原の目に怯えは全く感じられない。この男には生きる意志が欠如している。本気で私に殺されることを望んでいるようだった。
 だがここで松原の挑発に乗っては取り返しが付かないことになる。しかし私はそれほどできた人間ではない。抑えていた私の理性は脆くも吹き飛んでいく。今こそこいつを殺して、十五年前のあの忌まわしい記憶を取り除かねば。
 ビキイッ。
 松原は目を閉じて私に殺されるのを待っていた。私はナイフを松原の頚動脈に当てて殺そうと思った。だがその時、あなたの声が止めに入った。
(やめろあゆみ。そいつを殺すのは自殺行為だ。忘れるな、君は病気もらいなんだ。そいつを殺せば裁判にもかけられるだろう、刑務所にも入って多くの人間と接触することにもなるだろう、そうなったら君は病気をもらって死ぬかも知れないんだぞ)
 私が激昂しているこんな時でも、あなたはとても冷静で的確な助言を私にくれた。私の動きは頚動脈にナイフをあてがったところで静止した。こんな狂人と引き換えに自分の命を捨てていいのかと、僅かに残された私の理性もそう囁きかける。
「だったら、どうすればいいの。私の恨みは何処へ向ければいいの。私は病気もらいで苦しい目にあっているのに、こいつがこれまでと変わりなくのうのうと生きてるなんて許せないよ」
 私がそう叫んだ。叫ばずにはいられなかった。病気もらいのハンデのために、私は満足に復讐することすらできないというのか。
(あゆみの気持ちは痛いほどわかる。だがここが正念場だ。踏みとどまらなければ全てがおしまいだ。生きるためにナイフを捨てろ)
 パンッ。
 あなたの言葉がこんなに残酷に聞こえたのは初めてでした。さぞかし私は苦渋に満ちた顔をしていたでしょう。私は寸前のところでナイフの刃先を引いて、全ての憎しみをぶつけるように廊下に投げ捨てたのです。
 松原は私が踏み止まったことに驚いていました。確実に殺されていると踏んでいたのでしょう、松原のその人間らしい驚いた表情は私にとって少しだけ痛快だった。
「殺さなくていいの」松原が不思議そうに尋ねた。
「ええ、もういいよ。その代わり、一つだけあんたに頼みがあるの」
 どうせこの男の人間味に欠けた性質は今後も治らないのだろう。私の病気もらいが治らないように。私はそう思いながらも自分の部屋の扉を開けながら言った。「もう二度と、私を夢の中で苦しめないで」
 言葉の意味が理解できず、松原は当惑しているようだった。私はそれ以上は何も言わずに部屋に戻った。恐らくもう二度と松原と接触することはないと思う。少なくとも現実の中では。
(良く我慢したな。あゆみがナイフを取り出した時は冷や汗ものだったよ)
 ビキッ。
 あなたが感心したようにそう言う。苦渋の決断でしたが、私は私一人のために生きているんじゃない。病気もらいの原因を突き止めるために協力してくれているあなたがいてくれたから我慢できたんです。脇道にそれた私の私怨で全てを台無しにはしたくはなかったから。
 バキイッ。
 ごめんなさい。結局何の進展もないまま振り出しに戻っちゃいましたね。折角あなたが悪夢の出所を突き止めてくれたのに。
(気にすることはない。あゆみが生きてさえいればいくらでもやり直しは効くさ)
 あなたにそう言われると安心する。私の自覚症状はまだ少ない。次に新たな病気を思い出すのは、三日後か、あるいは四日後か。とにかく私が生きている間はまだ終わらない。
 ただ、少し厄介な問題が起きた。さっきから、あの松原に会ってから目が痛いのだ。松原は片目の眼精疲労が酷いと言っていたけれど、どうやら私は病気をもらったようだ。それも両目ともに移っていた。目を開けるのが辛いぐらいの激痛が走っている。
(あゆみ、今日はもう眠っておけ。疲れているだろうしな)
 私はあなたに眼精疲労をもらったとは直接言わなかったけれど、あなたはきっと私が病気をもらったことに気付いてくれたんでしょうね。
 バンッ、ビシイ。
 早めの消灯のかいもなく、私は目の痛みで寝付けずに悶えていた。睡眠薬を使って強引に眠りに就く。朝になれば目が治っていればいいなと、無駄な期待を心に抱きながら。

 
 
 5

 バキッビキッドゴン。
 突然ですが、あなたはダムが決壊する光景を見たことありますか。私は昔テレビで何度か見たことがあります。分厚くて頑丈な壁のたった一箇所に生じた穴から、勢い良く水流が飛び出し、それまで水流を堰き止めていた壁全体がいとも簡単に崩落するのです。私の病状も今、丁度そんな感じです。
 ベキッバキッパキュン。
 朝になってもやっぱり目が痛いので、無礼を承知で目をつむったままお話します。膝に痛みが走る私の自覚症状の一つのことなんですが、医学的には変形性膝関節症と呼ばれるそうです。膝の関節の軟骨が磨り減ったために痛みを生じるこの病気は、元々は私の母、井上玲子が患っていました。
 バキッベキッゴキッ。
 恥ずかしい話ですが、松原に暴行を受けたあの後の私は荒れていました。男の子に可愛いと呼ばれていた自分の顔に自惚れていたのでしょう。私は兄亮太の金属バットを借りて、家の中のありとあらゆる私の顔を映し出すものを破壊しました。何の責任もない家族に無闇に怒鳴ったり、時には暴力を振るって当り散らしていました。醜い顔を誰にも見られたくないから学校にも行かなくなりました。
 ベキッメキッ。
 はは、手に負えなくなった不埒な私を家族は同情してくれました。松原の魔の手から私を救ってあげられなかった自分達を責めていました。兄の亮太はバットの素振りをしながら松原を殺したいとも言ってくれました。家族の皆が私のことを想ってくれていました。ですが私への愛情は皮肉にもストレスへと繋がり、家族の肉体をストレスが蝕み始めました。
 バキイ、ゴキッ。
 私が殆ど外出することを避けて、部屋に引き篭もるようになってから三年の月日が経った頃、両親の黒い頭髪に白髪が目立ち始めました。顔も三年前とは見違えるほど皺が深くなり、異様に老け込んでいました。私の変貌が二人の老化を早めていたのです。本来は運動が好きで病気知らずな一家でしたが、急激な老化が影響を及ぼしたのか、母はある日、変形性膝関節症を患いました。
 ドゴンビキッ。
 心配になった私は珍しく部屋を出て、病院で診察を終えて帰ってきた母と一緒に晩御飯を食べました。久し振りの家族との食事でした。
 ベキイッビシ。
 私は、お母さん大丈夫って尋ねました。すると母は膝の痛みを我慢して微笑んでくれました。大丈夫だよって。その時、私の目に涙が溢れました。堕落した私の暴挙が母を病気に追いやったのです。私はその時になってやっと自分のことを責めました。家族に当り散らした全ての愚行に後悔しました。ごめんなさいお母さんって、何度も、頭を下げて、謝りました。
 ベキッゴキッ。
 母さんは、笑って私を許してくれました。父さんも、お兄ちゃんも、泣きながらこれまでの行いを謝っていた私を許してくれました。優しい家族だったんです。私は本当に恵まれた家庭で育っていたんです。私は前向きな気持ちになって、まともな社会生活を送ることを考え始めました。
 ビシイバキッ。
 やっと人生をやり直そうと思ったその矢先のことです。私は生まれて初めて人から病気をもらいました。その病気は、母が患っていたあの変形性膝関節症です。私が膝に激痛を感じ始めると同時に、なぜか母の膝の痛みは完全になくなっていました。
 べキッ、ドゴン。 
 もちろん病気もらいだと知らなかった私と母は、二人で耳鼻咽喉病院の数十件先にある市民病院を訪ねました。その道中で、耳鼻咽喉病院から出てきた老人と偶然目が合いました。病院に急いでいたその時は気付きませんでしたが、私はその老人から耳菅開放症をもらいました。耳菅が不安定になり鼓膜から不快な破裂音が生じる奇病です。
 ドパン、バキュン。
 病院での診断結果は驚くべきものでした。私と母二人ともに膝変形性の異常が見受けられなかったのです。私は膝が痛いんだと再三訴えましたが、お医者様は異常がないので取り合ってくれませんでした。現に異常が見られない母は痛みを感じないのだから、私は怪訝な目をされて冷たくあしらわれるだけでした。
 ドン、ドゴン。
 家に帰ってからも私はしつこく痛みを訴えていました。連れ添って帰った母は、私の言葉に耳を傾けながらも、私を疑惑の眼差しで見ていました。父も兄も、松原に暴行を受けた時とは打って変わり、私を冷たく突き放すような態度を取っていました。私の病気は家族に信用されなかったのです。
 バキッ、ビキッ。
 翌日になって耳菅開放症の症状にも気付いた私は、家族に耳の異常を伝えました。ですが鼓膜から破裂音が生じる聞いたこともないおかしな病気など、家族の誰もが信じてくれませんでした。むしろその病状を伝えたことで余計に家族の疑惑は深まりました。現に私自身も自分を半信半疑に思っていました。私の精神的な問題なのではないのかと、名医様が仰ったような台詞を頭に思い浮かべもしました。ですが何日経っても私の症状は継続していました。私は止まない自覚症状を泣き叫んで訴えるようになりましたが、家族は私の症状については取り合わずに、私が精神的な病にかかったのだと疑いました。
 メキッ、ゴリッ。
 家族が私に精神病院に行こうと言った時、私はまた良くない感情を抱いてしまいました。家族に対しての憎しみです。私は私を他の誰より愛してくれる家族をまた憎んだのです。同じことの繰り返しが始まりました。私はまた家庭内で暴力を振るうようになったのです。いけない娘に成り下がり、家族に迷惑をかける無法者としての生活はしばらく続きました。
 ベキッ、パキュン。
 やがて家族は私の暴力に耐え兼ねて、半ば強迫気味に私の希望通り様々な病院に連れて行ってくれました。最初は市内で有名な病院を訪れ、そこで異常がないと一蹴されると、さらに優秀な名医様の元へと足を運ぶと行った具合に、数多くのお医者様に診て頂きました。ですが結果は御覧の通り、異常無しで終わったのです。それどころか、私は病院に行くたびに他の自覚症状が出始めました。病院を訪れた時に出会った病人から新たな病気をもらったのです。
 ゴキッ、ベキッ。
 厳密な病名はわかりませんが、私は三半規管に狂いが生じる内耳の病気をもらいました。その病気のせいで頻繁にめまいや立ち眩みを起こすようになりました。歩いてると景色が歪んで見えることが頻繁にあり、ものの数分で車に酔ったように気持ち悪くなって吐き気を催します。
 パン、ドゴン。
 また待合室で頭を抱えていた少年から頭痛をもらいました。偏頭痛のようです。私は彼に頭痛をもらってからずっと左側頭部の痛みが取れていません。その少年に隣にいた若い女性からも軽度の腹痛の症状をもらいました。検査をしても異常はないけれど、私は慢性的な腹部の痛みに苦しむようになりました。杖を着いて歩くお爺さんからは腰痛の症状をもらいました。異常はないけれど、腰を少しでも稼動させれば激痛を見舞います。それらの病気を全て体内に宿した私の異常な苦しみように、それまで疑っていた家族も流石に私を気にかけるようになりました。
 ゴン、ドゴン。
 駄目元で投薬治療を試したことはあります。私の自覚症状に対する抗生物質を飲んだこともあります。しかし医学的に異常がない私には薬が通用しませんでした。唯一効力があったのは睡眠薬や麻酔の類です。それも肉体の異常に関係なく、私の肉体に直接影響を及ぼす劇薬しか効力はありませんでした。私は痛み止めを打つための注射器と睡眠薬を大量に仕入れて、それらの薬を併用しながら生き繋いでいました。そうやって新たな病院に通う内に、私はある決定的な病気をもらうことになりました。
 バキッ、ボン。
 ある名医様の病院を訪れた翌日のことです。朝、洗面所で顔を洗っていた私は、突然口内に激しい痛みを覚え、洗面台に多量の血を吐きました。私がこれまでにない重病の予感を察して昨日訪れた名医様に連絡をしたところ、そういえばこの病院に入院している口腔ガンの末期患者の病状が奇跡的に全快したと言われました。その時になってやっと私と、私の病気を疑っていた家族は、私が病気をもらう特殊な体質だということに気付いたのです。
 ビキッバキッパキュン。
 病気もらいが発覚した時にはもう手遅れでした。その頃の私の精神は酷く荒んでいて、末期ガンの苦しい症状をもらったことでさらに暴走しました。気狂いしていて家族を傷付けることしか頭にありませんでした。家族は私に無抵抗に暴力を受け続けながら、病気もらいに気付いてあげれなかったことを謝罪していました。
 バキッ、ビシイッ。
 歯止めの効かない私の暴走はついに悲劇をも引き起こしました。感情的になって振り上げた金属バットを、兄の亮太の側頭部に思い切り叩き付けた時です。兄はその場で崩れ落ちてぴくりとも動かなくなりました。そう、私は実の兄を殺めてしまったのです。
 ブチブチ。
 恐らく家族の中でもっとも私と親身に接してくれた人でした。私が他人に嫌がらせを受ければ、すぐに飛んで仕返しをしてくる優しい兄でした。その兄を私は自分の手にかけました。血の波紋を広げて床に横たわる兄の死体が信じられませんでした。私はほどなくして警察に捕まり、精神鑑定を受けて、施設に入れられ、そこを脱走して、両親にかくまってもらって、また施設に入れられて、またそこを脱走して、また家に逃げ帰るを繰り返しました。ははは、笑えない話ですよね。松原を殺すことに葛藤していた私が、随分前に一線を越えていたのです。私は既に人殺しの病気飼いだったんです。
 ベキッ、バキイッ。
 なぜ今私がこんな話をしているのか、あなたならもうお解かりですよね。たった一晩で無知のダムが決壊したんです。松原に傷付けられたあの日の記憶を思い出したせいでしょう。記憶の水流が無知のダムを容易く破壊して、私は悪夢の代わりに現実で起きた過去の出来事を殆ど思い出したんです。
 パキュン。
 やっと刑期を終えて出所した私に行き場なんてなかった。両親は家に帰った私を異常に恐れて、ひたすら頭を下げていました。私に対する謝罪と後悔の念と恐怖とが入り混じって精神が壊れているようでした。無惨に変わり果てた両親を見た私は、もはや昔のような仲の良かった家族との関係は修復しようがないと悟りました。
 ベキ、パンッ。
 両親は私に一人暮らしを始めることを勧めました。建前では私が両親から病気をもらう恐れがあるからだと言っていたけれど、本当はそうじゃないんだよね。私がまた暴走するのが怖かったんだよね。病気に苦しむ私の姿をこれ以上見たくなかったんだよね。はは、それも自業自得だ。私は両親に暴力振るうどころかお兄ちゃんを殺してしまったんだから。今更どんなに謝ったって、許してくれるわけがないよね。
 バキイッ、パンッ。
 私には両親の元を離れるしか選択肢がなかった。このアパートで病気もらいの体を抱えて生きることしかできなかった。膝が痛い、頭が痛い、腹が痛い、腰が痛い、目が痛い、耳がうるさい、口が痛くて痺れる。ああ、体中が痛くて気が休まる暇がない。常に情緒不安で胸が苦しくて頭がおかしくなる。醜い素顔を映し出す全てのものを破壊したり、無闇に奇声を発してストレスを発散させようと必死になっている。隣に松原が引っ越してきたことに気付いても、執念深いストーカーに復讐してやる気持ちの余裕すらない。一日が凄く長い。あははははは、早く死なないかな。誰か私を殺してくれたら楽なのにな。だってもう生きていたって仕方ないでしょう。こんな病気の巣窟のような体と汚れた経歴を併せ持つ私が、一体何の役に立つっていうの?こんなに辛くて苦しいのに、これ以上生きている意味なんてあるの?
(もうよせあゆみ。今更自分を責めたって仕方ないだろ。これからのことを考えるんだ)
 親愛なるあなたの言葉も、随分と弱々しくなりましたね。私にはもう、これからを生きる資格も気力もありません。
 バキッブチ。
 そういえば私のベッドの下にあったナイフ、何であんな危ないものがあったのか不思議だったけれど、あれ私が自殺するために買ったんですね。思えば私は常に死を意識して生きていた。学校に行かなくなってからすぐにクラスの友人も家に来なくなったし、家族にも見放されたし、医者にも頼れない。結局私は誰にも必要とされずに死ぬだけの厄介者なんですね。この世に生まれてきた時から、私は迷惑なだけのいらない子だったんですね。ねえ、そうなんでしょうあなた。あなたの口からはっきり言ってくださいよ。私はいらない子だ。今すぐ死んでしまえって。
(そんなこと、言うわけないだろ。誰があゆみを見放そうとも、私だけは絶対にあゆみを見放さない。そうだ、生きるんだよあゆみ。生きていつか君を見放したやつらを見返してやるんだよ)
 どうして、あなたは私を見放さないの。多くの自覚症状が目覚めて精神的にもぼろぼろの私に、どうしてそんなに優しくしてくれるの。
(それは、あゆみが私だからだよ。私が他の誰でもない、あゆみ自身だから生きろって言えるんだよ。君もあゆみなんだから同じことを思っているんだろ。本当は生きたいんだよな、あゆみ)
 はは、思い出しましたよ。あなたは私が作った私自身。私のことを他の誰より知っていて、他の誰より私を助けてくれるのは私だけでしたね。
(そうさ。あゆみは自分が生きるために二人にわかれた。私達は二人で一人の運命共同体だ。君が死ぬ時は私も一緒だ)
 バキッビキッ。
 厳しい人だ。親愛なるあなたをそう簡単に死なせるわけにはいかないじゃないですか。人殺しの病気もらいがこんなこと言うのはおこがましいかも知れないけれど、もう少しだけ生きててもいいですかね。やり残したことがあるんです。
(君は私だ。好きにしなよ。例え君が死ぬことになっても私は君の意見を尊重するまでだ)
 流石にあなたは私だ、察しが早い。そう、病気もらいの私にできるのは、這い蹲ってでも生きて生きて生き延びて、それからやっと死ぬことだけです。


 6 

 見えますかあなた、空は雲一つない快晴です。外にはとても心地良い風が流れています。今日が私の人生にとって最良の日になれば幸いです。
 バキッ、ドゴン。
 公園には他の子供から外れて独りぼっちの少年がいました。その少年は心臓が弱くて激しい運動を医者に止められているそうです。私はその少年に同情しました。助けてあげたいと心の底から思いました。大丈夫だよ、君の病気は、私がもらってあげる。
 ベキッ。
 公園の外れのベンチで耳を抑えている無精ひげの若い男性がいました。身形も恰好も汚くて近寄り難い雰囲気を醸し出していましたが、その男性はなんと私も患っている耳管開放症にかかってろくに勉強に集中できない浪人生でした。私はその男性の背中をさすって優しくしてあげました。もう苦しまなくていいよ、あなたの病気は、私がもらってあげる。
 ブチブチ。
 私は戦場を駆け回る衛生兵のようでした。名医様の仰る通り、確かにこの世に治せない病気は沢山あります。病気に苦しんでいる人を助けてあげられず、死なせてしまうことなど頻繁にあります。ですが最後までその人達を見捨てないで欲しいのです。例え治せなくたって、傍にいて最後まで励ましてあげて欲しいのです。これはただの私の勝手な願いです。病気もらいの人殺しが勝手に願っているだけです。例え私の願いが実現できなくても、私だけは最後まで諦めないつもりです。
 ベキッブチッバキッ。
 私は町中を歩き回っていました。病気に苦しんでいる人を探し求めて歩き続けました。足の悪い老人の病気をもらい、両足が麻痺して動かせなくなっても、私は手を使って地面を這うように歩きました。
 ピシュンブチブチ。
 腕を使っての移動は亀のようにのろくて、心臓の病気をもらった私には胸が苦しくてとても険しい道のりでした。他にも数え切れないほどの病気をもらった私の体は、自覚症状に容赦なく甚振られ続けてこれ以上、正気を保てそうにありませんでした。
 バキッ、ドゴッ。
 頭の中が、死で埋め尽くされていきました。もう早く死にたい、殺して欲しい、楽になりたい、そんな弱音を吐いて全てを投げ出してしまいそうになった時、私は自分に渇を入れるために下唇を出血するほど強く噛み締めました。最後まで諦めないと自分に誓ったのです。全身に襲い来る激痛に意識はもうろうとしていましたが、私は病気の人を探すことを決して止めませんでした。
 パキュン、ブチブチ。
 道すがら建っていた病院にも寄りました。待合室で苦しんでいる患者に近付き、もう大丈夫、私があなたの病気をもらいますから。そう言って、綺麗にその患者の自覚症状をまるごともらいます。私の病気もらいは相手の方を強く同情すればするほど働いてくれるようです。
 バキッドゴ、パキュン。 
 待合室にいた殆どの患者の病気をもらった時、私は暗闇の中にいました。どうやら盲目の人の病気をもらって両目の視力を失ったようです。暗闇の中で待合室にいた人たちの声が微かに聞こえてきます。ですが難聴の方の病気をもらった私には良く聞こえません。それに今しがた喋れない方の病気をもらったので返事をすることもできません。一体私は何を言われているのでしょうか。地面を這って歩く化け物のような私を恐れているのでしょうか、それとも病気をもらってくれたことに感謝されているのでしょうか。いずれにしても私には関係のないことです。私は誰かに感謝されたくて病気をもらっているわけではありません。自分のために病気をもらっているのです。人の道理を外れた汚れた過去と病気もらいを併せ持つ私には、せめて苦しんでいる人の病気をもらうことしかできないのですから。
 ベキッミチッ。
 幸い私はどんな病気をもらっても死ぬことはありません。私の体は他人の病気をすぐにもらうほど脆弱ですが、自覚症状が表立つだけで肉体には全く異常がないので、例えどんな重病にかかっても肉体が死滅することはありません。私が自分の意思で命を絶たない限り、私は生き延びることができます。
 バキッゴキッ。
 ですが、視力を失ったのは流石に参りました。目が見えなければ病人を探すこともままなりません。音を頼りに探そうと思っても、まともに聞こえてくるのは耳管開放症の不快な破裂音ばかりです。私は暗闇の空間をうごめいて途方に暮れていました。
(あゆみ、そのまま真っ直ぐ前に進むんだ)
 難聴の私の耳にはっきりと声が聞こえてきました。そう、あなたの声です。私にはまだあなたが傍にいてくれたのです。私は言われた通り真っ直ぐ進みます。あなたを信じて、真っ直ぐ進みます。
 パンッビキッ。
 病院の外に出れたようです。焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂ってきます。私の嗅覚がまだ生きていたおかげで状況がわかります。あなたは私を病人の下に導こうと方向を指示を出してくれます。私は目標に向かって地面を這い続けました。体中が痛くて痛くてたまりませんでした。止め処なく涙が溢れていました。次第に唯一の頼りだった腕の感覚も麻痺してきました。しかしそれでもゆっくりと、私は着実に前へと進みます。
 パキュン。
 やがて私は酷く腐乱臭のする場所に来ました。ここはゴミ捨て場でしょうか。
(あゆみ、病人は君の目の前だ)
 あなたに言われて、私は死ぬ思いで手を伸ばしました。その伸びた私の指先に、人の温もりを感じました。私は名前も顔も知らないこの人に強い愛情を抱きました。この病人を、助けてあげたい。
 ベキッバキッドン。
 この人の病気をもらった瞬間、私の全身から一気に力が抜け落ちました。私はもう指一本動かせなくなったのです。重度の障害を持った病気の持ち主だったのでしょうか、とにかく私はこれ以上動けそうにありません。このままこの悪臭に包まれて野垂れ死ぬのを待つだけです。
(良く頑張ったなあゆみ。君は君の役割を果たした)
 あなたの労いの言葉に私は救われます。恐らくこれまで私が生きてきた中でもっとも幸福な瞬間でした。私は病気もらいの私にしかできないことをやり遂げた。私に救われた人は極僅かだろうけれど、私が死に絶えるまでにせめてもの償いができて良かった。
(まだだ、まだ終わっていないよあゆみ。君はまだ生きている。そしてこれからも生き続ける)
 ベキッパキュン。
 そう言ってくれるのは嬉しいですけど、それは無理ですよあなた。御覧の通り私はもう一歩も動けません。この暗闇の中で静かに最期を全うするだけです。
(大丈夫、あゆみはもうすぐ動けるようになるよ。そしてまた病気もらいの体質について考えるようになる)
 ベキッボキッ。
 何を言ってるんですかあなた。私は病気をもらい過ぎました。もう二度と動くことなんてできませんよ。
(あゆみ、君はツバメの巣を見たことあるよな。ツバメのヒナは親鳥に育てられてやがて巣立つ。そして親鳥はまたヒナが巣立った巣に戻ってくる。二度目の繁殖を行うためにね)
 パキュンビキッ。
 あなたの声が、聞き取り辛い。それにさっきから様子が変だ。私の全身が燃えるように熱くなっている。これが死の前兆なのだろうか。
(あゆみが覚えていないのは無理もないが、君が五年前にあのアパートに住むようになってから、君は何度も今日と同じように人から山ほど病気をもらって野垂れ死のうとしたんだよ。だがあゆみは一定量の病気を体内に溜め込むと、病気をもらった記憶を忘れようとした。自分が生きるためにね)
 パンッ。
 とうとうあなたの声は全く聞こえなくなった。一体私はどうなってしまうんだろう。
(あゆみはツバメの親鳥のような行動を繰り返していたんだよ。君は自分の記憶の大半を私に預けて、病気もらいの体質と必要最低限の記憶を覚えた状態で、また悩み苦しんで生きようとする。そしてまた私のような記憶装置と出会い、君は自分のことについて考えるようになる)
 ブチッ。
 私の全身を覆っていた目に見えない熱が逃げていく。熱が逃げていくたびに私の体から自覚症状が消えて、随分と楽になっていく。もうすぐ死を迎えるはずだったのに、目の前に私を優しく包み込む温かい光が見える。
(私は五年前から君を外から見てきたが、君の生き方は正直残酷だと思うよ。今度も君が同じような人生を歩むかはわからない。もしかしたら病気もらいに耐え切れずに自殺するかも知れない。いずれにしてもそれは全て君自身が望んだことだ。だが君は最後まで諦めないだろう。生きて生きて生き延びて、それからやっと死にたいんだよな。あゆみ)
 やっと朝になったみたいだ。病気もらいの私にとって辛い日常がまた始まる。早くこの体質の原因を突き止めないと。
(おはよう、目が覚めたかい)
 ベッドに横たわる私の傍に、私のような人が立っていた。
 私は笑顔で自己紹介をする。初めましてあなた。私はあなたの私です。

(病気もらいの君は今日も生きている)

  了

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